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ネコネコランドへようこそ  作者: 香月 深青
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第三話 名前をなくした黒猫

ネコネコランドの朝は、今日もやさしい光に包まれていた。


窓の外では小鳥がさえずり、風に揺れる木々の葉が、さらさらと心地よい音を奏でている。


どこからか焼きたてのパンの香りが漂い、遠くでは市場へ向かう猫たちの元気な声が聞こえてきた。


「お魚が安いにゃー!」


「焼きたてパンはいかがにゃ!」


にぎやかで、あたたかくて、平和な朝。


猫耳をつけたリオンは窓辺に立ち、その景色を見つめながら、ふっと微笑んだ。


昨日まで知らなかった世界なのに、不思議と少しずつ心がほどけていく。


ここにいると、胸の奥の固くなっていた何かが、やわらかく溶けていくようだった。


その時だった。


ばたん、と勢いよく扉が開いた。


「リオン!」


飛び込んできたのは、真っ白な毛を揺らしたミルクだった。


青い瞳を少し潤ませ、どこか焦ったような顔をしている。


その後ろに、もう一匹。


小さな黒猫がいた。


夜をそのまま毛並みにしたような、つややかな黒。


けれど、その美しさとは裏腹に、体は細く、背中は小さく丸まっている。


金色の瞳は伏せられ、誰とも目を合わせようとしない。


まるで、自分の存在を小さく隠すように。


「この子……」


リオンがそっと声をかける。


けれど黒猫は、ぴくりと耳を動かしただけで、さらに一歩後ろへ下がった。


その小さな体が、かすかに震えている。


怖がっている。


それがすぐに分かった。


リオンは近づくのをやめ、その場にそっとしゃがみ込んだ。


目線を合わせるのではなく、ただ隣に座れる高さまで自分を下ろす。


無理に手を伸ばさない。


無理に笑いかけない。


ただ、そこにいる。


しばらく静かな時間が流れた。


やがてミルクが、ぽつりと話し始める。


「この子、人の世界から来たにゃ」


リオンの胸が、少しだけ痛んだ。


「捨てられたにゃ」


その言葉は、静かだった。


けれど胸の奥に重く落ちた。


「どうして……?」


ミルクは悲しそうに目を伏せる。


「黒いから、可愛くないって言われたにゃ」


リオンの指先がぎゅっと握られる。


「写真に映えないって」


苦しくなる。


「新しい子の方がかわいいって」


そこまで聞いて、リオンはうつむいた。


怒りより先に、悲しみがあふれてきた。


命なのに。


心があるのに。


あたたかくて、寂しくて、甘えたくて、生きているのに。


色で決めるの?


見た目で選ぶの?


そんなの、あまりにも勝手だ。


けれど一番傷ついたのは、この小さな子だ。


リオンはそっと顔を上げ、やさしく問いかけた。


「あなた、お名前は?」


黒猫の肩が、ぴくりと揺れた。


長い沈黙のあと、小さく、小さく声がこぼれる。


「……忘れた」


その言葉に、リオンは息をのんだ。


「呼ばれなくなって……忘れた」


あまりにも寂しい言葉だった。


名前は、大切な贈りものだ。


呼ばれるたび、自分がここにいていいと教えてくれるもの。


その名前を失くすほど、この子は長い時間ひとりだったのだ。


リオンはそっと立ち上がると、黒猫のすぐそばではなく、少しだけ近い場所へ座った。


触れられる距離じゃない。


でも、離れすぎない距離。


そのやさしい距離で、静かに笑った。


「大丈夫」


黒猫が、ゆっくり顔を上げる。


金色の瞳が、初めてまっすぐリオンを見た。


リオンはやわらかな声で言った。


「名前、なくしてないよ」


黒猫の目が揺れる。


「これから、一緒に探そう」


風がそっと吹いた。


黒い毛が、ふわりと揺れる。


その金色の瞳に、ほんの少しだけ光が宿った気がした。


ミルクは静かに微笑む。


ネコネコランドには、傷ついた猫たちがやってくる。


ここは、やさしさを取り戻す場所。


そしてリオンは、ひとつずつ、小さな心に寄り添っていく。


新しい物語が、また静かに始まろうとしていた。

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