第一話 猫が歩いてる!?
春のやわらかな陽ざしが、小さな部屋の窓辺を明るく照らしていた。
リオンは床に座り込み、膝の上に乗せた一匹の子猫を、そっとタオルで包みながら拭いていた。
最初に出会った時、その子は道の端の段ボール箱の中で、小さく震えていた。
痩せて、ガリガリで、体は泥だらけ。
白いはずの毛は汚れて茶色くなり、か細い声で鳴く力さえ残っていなかった。
けれど、その目だけは違った。
透き通るような青い瞳。
不安そうに揺れながらも、まっすぐリオンを見つめていた。
「大丈夫だよ。もうひとりじゃないからね」
そう声をかけると、小さな舌がかすかに動いて、指先をぺろりと舐めた。
くすぐったくて、少し温かくて、なぜだか胸の奥がじんわりした。
何度もミルクを飲ませた。
何度も体を拭いた。
腕の中で眠るたびに、生きていてくれてありがとうと心の中で何度も呟いた。
そうして綺麗にしてあげると、その子の本当の姿が見えてきた。
雪のように真っ白な毛並み。
陽の光を受けてきらきらと輝く、やわらかな毛。
そして、宝石みたいに澄んだ青い瞳。
「あなた、こんなに綺麗な子だったんだね」
思わず笑うと、
「にゃ」
小さな返事が返ってきた。
その日から、その子の名前はミルクになった。
ミルクは甘えん坊で、いつもリオンのあとをついて歩いた。
掃除をしていても足元にいる。
料理をしていても足元にいる。
本を読めば膝の上。
眠る時は胸の上。
まるで「ずっと一緒にいる」と決めているみたいだった。
リオンもまた、そんなミルクがたまらなく愛おしかった。
夜。
ミルクを胸に抱きながら、静かに呟く。
「捨てられる猫がいなくなる世界があったらいいのにね」
ミルクは優しい青い目でリオンを見つめると、そっと鼻を舐めた。
「ふふ……おやすみ、ミルク」
あたたかなぬくもりに包まれながら、リオンは静かに眠りへ落ちていった。
そして――。
目を覚ますと、そこは知らない場所だった。
どこまでも続く青い空。
風に揺れるやわらかな草原。
遠くから漂ってくる、焼きたてのパンの香りと、香ばしく焼けた魚の匂い。
耳に届くのは、にぎやかな声。
「急ぐにゃ! 遅れるにゃ!」
「今日のパンはふわふわにゃ!」
「新鮮なお魚だにゃー!」
……え?
リオンはゆっくり顔を上げた。
そして、そのまま固まった。
猫がいた。
それも、一匹や二匹じゃない。
たくさんいる。
けれど、おかしい。
みんな二本足で立っている。
服を着て歩いている。
帽子をかぶっている猫。
荷車を押している猫。
パンを焼いている猫。
魚を並べている猫。
新聞を広げて読んでいる猫までいる。
あまりにも自然に暮らしている。
その光景があまりに普通すぎて、逆に頭が追いつかない。
リオンはぽつりと呟いた。
「……猫が歩いてる」
少し間を置いて、もう一度。
今度は大きな声で。
「猫が歩いてる!?」
その声に、あたりの猫たちが一斉に振り向いた。
「人間にゃ!」
「耳がないにゃ!」
「しっぽもないにゃ!」
「つるつるにゃ!」
好き勝手なことを言われる。
リオンがぽかんとしていると、遠くの方からざわめきが起こった。
猫たちが道をあける。
その真ん中を、一匹の白猫がまっすぐ歩いてきた。
雪のように美しい真っ白な毛並み。
澄みきった青い瞳。
頭には小さな王冠。
気品があって、どこか神々しい。
周りの猫たちが頭を下げる。
「ミルク様」
「王女様」
リオンは息をのんだ。
その青い瞳に見覚えがあった。
まさか――。
次の瞬間。
その白猫は、気品も何もかも投げ捨てて全力で走り出した。
「リオンー!」
勢いよく飛びついてくる。
頬をすりすり。
顔をぺろぺろ。
しっぽをぶんぶん振り回しながら、嬉しそうに鳴く。
その甘え方は、あの頃と何も変わっていなかった。
リオンの目に涙がにじむ。
「……ミルク?」
白猫は、誇らしげに胸を張った。
「そうにゃ。ミルクにゃ」
それから、ふわりと優しく笑う。
「迎えにきたにゃ」
リオンは震える手で、真っ白な頭をそっと撫でた。
やわらかい毛並み。
あたたかなぬくもり。
確かに、あの時抱きしめた小さな命だった。
ミルクはくるりと振り返り、大きく両手を広げるように言った。
「ようこそ」
青い空の下、猫たちの笑い声が響く。
やさしくて、あたたかくて、少し不思議な世界。
「ここは、ネコネコランドにゃ」
こうしてリオンの、新しい毎日が始まった。




