心の雫
「僕、いや私は匠のことが好きです。」
言葉にできなかった、きっと彼女も決心の末に言い出しているのだろう。
耳を真っ赤にして必死に言葉を紡ぎ出そうとする彼女の姿を見れば正直どうするべきなのか悩んでしまう。
ここで彼女の努力を踏みにじるようなことはしたくなかった。どこまでも傲慢で、救いようのない感情である。
恋する乙女の心よ天高く舞い上がれ、どこまでも舞い上がれ。
きっとそれを美しいと誰かが謂うであろう。
翼を目いっぱい広げたお前はどこまで舞い上がれ。
「どうか、付き合ってはくれませんか!!」
しかして墜ちて折れたる翼は似つかわしくない。
「……悪い、俺はその。お前とは付き合えない。」
足元を見つめながら零す、彼女はとても痛々しそうな物を見る目で見つめていた。きっと彼女にもわかったはずだ、自分が彼女の思うような存在ではないと。
だが彼女は大きな白い息を吐きだし、柔和な笑みを浮かべ冷え切った手を両手で優しく包み込む。
「こんなにも苦しんで、哀しんで、苦痛に満ちた手は知らないよ。こんなにも冷たいのに、誰にも言えないこと、なんだよね。」
「……アイラやめてくれ。」
「大丈夫、不思議と喋らなくてもわかるんだ。とても深い闇の中に囚われているんだね、自分が許せないんだよね。助けることばっかりで助けられたことのないタク兄らしいね。」
彼女の手は温かった、それは心の氷河を溶かしかねないほどの熱量であった。
だがどこまでも人の心を踏みにじって、自分色に染め上げるその手法はどこまでいっても一歩足りなかった。
「やめてくれアイラ、俺はもういいんだ。俺に、そんなものは必要ないんだ。」
「そうじゃないんだよ、今のタクミには絶対に必要なの。どんなことがあったのかわからないし、どんな思いをしてきたのかわからない。けれど言うね。」
アイラは大きく息を吸い、吐き出して呼吸を整える。
「タクミはとっても偉い。みんなが否定しても、タクミが否定しても私は信じるから。タクミが本心から向き合っていることを、自分の過去を向き合おうとしていること、”私だけがわかってるからさ”。」
その笑みは慈母の如く、慈しみに溢れた笑顔はいつもの彼女とは全く違う存在のようであった。だが心の中はあまりに踏み込み過ぎる彼女の言葉が渦巻いていて、沸々と怒りにも似た感情が溢れ出てくるのがわかる。
「なんだよ……お前……。」
右手の拳を握り、爪が皮膚に食い込むほど力を込めていた。興奮のあまりにこれ以上は抑えが利かない、自分は言ってはいけないことを吐き出そうとしていた。
急な言葉に笑みは枯れて引きつった恐怖の色が見えた。
「ど、どうしたのタク兄。僕何か言っちゃいけないことを――。」
「お前に何がわかるんだッ、ずっと俺の後ろに隠れていた人間に俺の苦悩がわかるのか!!」
今の今までため込んでいた物が爆発してしまった。突然のことに彼女の顔は目の前の圧倒的暴力を見せる男を前に怯え切っていた顔であった。
昔のいじめにあっていた時のような弱々しい女の顔だ。こんなにも男になろうともしない癖に人を救うと宣う彼女に怒りをぶつけるのだ。
「俺が走れなかった痛みが、今でも頭の片隅に燻り続ける俺の痛みを、お前は知らないだろ。俺が、俺が人一人の人生をぶち壊してしまったんだ。その罪をお前は背負えるのか!!」
「っ……ごめん、ごめんなさい。」
「ごめんなさい一つで何になるんだ。俺は幸せになっちゃだめなんだ、それは余りに不公平だからだ。アイラ、痛みを、俺は、俺は……。」
目の前の彼女へと拳を振り下ろそうとしていた。アイラの防御しようとした両腕の寸前にて止まった拳は力なく項垂れるばかりである。
俺は目の前のアイラへと手を上げたのだ、それがいかに許されざることなのか瞬時に理解できた。彼女にとっての暴力は恐怖に直結し、辛い過去を回想させるに十分なのである。
アイラは恐怖に囚われてしまった瞳の中から雫が今にも零れてしまいそうであった。
自分に好意を抱いて助け船を出してくれた人に対し余りの仕打ちに反吐が出る気分で、目を閉じ歯を食いしばって激しい自己嫌悪に苛まれることしかできない。
まともに彼女の顔が見れずにその場で立ち尽くすしかなかった。すすり泣く声によって自分のしでかした事の重大さに酷く胸を痛める。
「……ほんとうにすまない、こんなことをしたいわけじゃないのに。くそっ、なんでなんで……。」
正直こうなってしまうと何を言うべきなのかと困ってしまった、今の彼女にかける言葉すら考え付かない。
彼女は何とか立ち上がるとその場から逃げるように走り、階段を下りていく音が響いた。
今日の空気は一段と冷えている。
他人に対して感情を爆発させたことのない匠にとっては初めての経験であり、その気持ち悪さを抱きながら自室のベッドに転がっていた。
家に帰ってからは悉くが手につかない状態で最悪の気分だった。
自分のクソさ加減に怒りが湧き出てきて、何度も叱咤していた。そうでもしないと自責の念で潰れてしまいそうである。
「クソ……なんで言っちまったんだ。最悪な人間だ。」
机の上にある写真へと視線を向ける。写真には小学生から中学までのお気に入りの写真が並べられている。その中には勿論アイラも、楓も葵だっていた。それぞれは集合写真の一枚であり、小中の二枚の思い出であった。
アイラはやっぱりどう見たって男子生徒だし、楓は図書室に入り浸っていそうな陰気な女子中学生であった。葵は満開の華のような笑みを浮かべている。今は過ぎ去った話なのだが、あの頃に戻れればと思ってしまった。
自分にとっては最高の時に戻れるのなら……どんなに嬉しいのだろうか。だが今となっては当時がどんな気持ちで過ごしていたのか全く分からないようになっていた。あの頃なら無味乾燥とした今を変えたいと思えたのだろう。
そう思うだけで今の自分がどれだけ腐っていて、最悪なのか反芻するかのようで気持ちが悪い。
だからこそ願うように深く眠りにつくのであった。
”アイラのために俺は桐生のように変わらないといけないのか”と。
目が覚め起き上がるとそこには見知らぬ部屋であった。
マンションの一室らしく白を基調にした質素な壁に対して青と落ち着いたカーテンが掛かっている。出口側にはキッチンとトイレと浴室が見える。
隅にはベッドが置かれていて対になるように机が置かれている。床には黒猫のカーペットが敷かれ、机とクローゼットの隙間には簡単に組み立てられる黒いパーティカルボードのカラーボックスが積み立てられている。
棚には縫い物で作られた絵画のような織物がところ狭しと畳んで置かれていた。適当に手に取って確認してみると犬や猫、森の中の鹿といった題材に則って縫われており、丁寧に縫われてさながら絵画のようにも見える。
縫い物に感嘆しながらもそういえばベッドにはスマホがなかったかと探してみるのだがこの身体の持ち主はベッドでスマホを見る人間ではないらしかった。
ならばと机へと視線を向ければ白いカバーに嵌めまれたスマホに充電コードが刺さって置かれていた。
「あったあった、さて自分は……。」
その時机の上に一枚の写真を見つけた。それは相当に思い出深いのか純白のフォトフレームに収められた一枚の写真が立てかけてあった。そこには白い髪をした小学生の彼女と自分が映ったものであった。
この時点で大体察してしまった。多分自分はアイラと入れ替わってしまってのであろう、一応スマホのカメラ機能を使った自分の顔を確認してみることにしたのだがやっぱりアイラの顔が映っていた。
だが真っ赤に腫れあがった目じりと充血の後が微かに残る眼球を見るとどうにも昨日は相当泣いていたことは違いなかった。
慣れた手付きでカメラから電話アプリを起動し自身の番号を入力し呼び出すことにした。しばらくのベルの音の後とても眠そうな声の自分の声が聞こえた。
「んーはいどなたでしょうか……。」
「アイラ、俺だ匠だ。」
「えっ、タクミ?まさか今日もあの入れ替わってるの、うわっ!!」
びっくりしたのかドンと床に転げ落ちる音と共にどこかぶつけたらしく痛そうな声が聞こえてきた。
「――、えーと誰かと間違えてるかもしれないけどあーし楓だよ?そっちは私の身体、だよね。」
楓だという言葉を聞いて耳を疑ってしまった。楓が俺の身体にいて、俺はアイラの身体にいる。ならアイラと楓の身体はどうなっているのだ。
順当に考えれば多分楓にアイラが入っているというところだろうか。すぐさま電話をしなければならないのだが……。
(しまったな、アイラと喧嘩別れしたからなんとバツが悪いな……。)
突然のことに頭を抱えてしまうがまずは何とか連絡を取らねばならないだろう。まずは楓と合流して自分のスマホを入手するところからだ。
行動の指針がはっきりすれば素早く行動するばかりである。
「楓、お前は急いで学校に行く準備をしておいてくれ、服はクローゼットに全部詰め込んでいる。多分それで何とかなるはずだ、準備ができれば玄関の近くで待っていたら何とかしてそっちに向かう。」
「わかった。もし何かあったら一応連絡するから。」
「そうしてくれ。」
伝えることを伝えれば通話を切り、こちらも準備を整えることにした。幸いアイラは癖っけのない毛をしていて、日本人形のような綺麗な髪をしている。髪型もそれほど手間のかからないだけあって気楽な物なのだが長髪が肩にかかる気分は正直良くはない。
まるで女に成っているようで気が気ではないといったところだ(現状は女なのだが)。アイラらしくはないがテーブルにあったシュシュを使い慣れた手付きで簡単に髪をまとめる。
邪魔な髪をまとめれば次に可愛らしいモフモフの寝間着から着替えるのである。何とか脱いでは洗濯物入れであろうバケツの中に入れていく。
なおアイラは寝間着の下に何もつけていないから素っ裸となるのだが、アイラは暖房をつけて寝なかったために冷え切った空気に床が直に肌に触れることになり滅茶苦茶凍える思いをしながら着る物を急いで手に取る。
「あああああああ、さっむ。寒すぎだろ……床暖くらいつけて寝ろよな……ううっ。」
アイラに文句を零しながらもクローゼットの棚から二つの下着を急いで取り出す。ただ女子高生にしては随分と気合の入った大人なブラとパンツが多かった。
ただ寒すぎて色っぽいだとか、女らしいなんて感じる前に素早く装着するのであったのだが。柔らかな女性的なパンツを履き、ブラをつけようとするのだがどうにも胸が締め付けられるのが窮屈に思えてしまう。
ブラ無しというのもアリではあるのだが、楓にバレたらド突きまわされること間違いなしなので着ていくことにした。意外とたわわな乳をブラに入れるのにかなり苦戦したものの何とかホックでつなぎ合わせて下着は完了した。
次に寒さ対策であろうタイツを履くのだがこれまた初めてな物で、こちらも類にもれず着にくさMAXの為に転倒しそうになったりしながらであった。
それが終わればシャツを着たのちにスカートのジッパーを上げ、蝶型のリボンをつけてブレザーを着こむのであった。
女子生徒の服を着ていて思った。
「どうしてこんなにも手間が多いんだ……!!」
男子の制服が恋しくなったといえばそうなのだが、今は兎に角にも楓のところまでいかねばならなかった。
アイラを一人放っておくわけにはいかないのだから。