映画券の一歩
外にでると地域の高校付近にある工業地帯であるようだ。労働者の家族向けの安いマンションの一角であり、十階程度のマンションが立ち並んでいた。番号からアイラの部屋は三階であった。急いで階段を降りるとアイラが使っているであろう自転車を見つけ、推定自転車の鍵を挿し開錠する。ガチャと施錠が外れる音がすると急いで駐輪場から歩道へと移動させ、サドルに跨って自宅へと向かった。
幸い今日は仄かに暖かい日であったのだがそれでも手が死ぬほど冷え切って氷のようになってしまうのであった。そんなこんなで自宅に到着すると自宅前で待っている二人組が見えた。
自分の身体をした楓と葵が二人で待っていたのである。といっても二人はそこまで関係が良くないのか葵は考え事をしている楓を興味深そうに見つめ、楓は自分のスマホで何かしらを見つめている。そんな二人の前で自転車を止めると視線を集めるのであった。
「待たせたな、アイラは……来ていないか。」
「らしいね、あーしも連絡とろうとしたけど反応がない。というか多分携帯の電源が落ちてるかも。」
楓はスマホで連絡を取ろうとしているのだが、SNSでも電話でも一向に出ないようであった。楓のことだ、寝ながら通話して云々した結果のだろうことは容易に推察できるが言わないことにしておいた。別段今言うことでもないだろうし、本人もその失敗については十二分に理解しているだろうから。
「それで……えーっと二条さんがタクシューってこと、なんだよね?」
二人の会話がいったん落ち着いたところに少し困惑気味な顔で聞いてくる葵である。そう思うのも仕方がないだろうが、そうとかいえない。
「そうだ、で楓にアイラが入っているところだろう。」
「あー、なんだかこんがらがってしようがないけど、現状はタクシューが二条さんに、二条さんが楓ちゃんに、楓ちゃんがタクシューに、ってことだよね。間違ってないよね?」
「多分な、ったく本当にややこしい話ばっかりだ。なんでこんなことになっちまったんだか。」
顔を撫でるように拭い、アイラとどう接するべきなのかと考える。今あったところで彼女が自分を許してくれるのだろうか、言葉を聞いてくれるのか、ただただ気になって仕方がない。昨日の仕打ちを思い起こすだけで海底に眠る汚泥を掘り起こしたような気分となり、軽く唇を噛んでしまう。
そんな様子を見て葵は少し気にした様子で声をかける。
「ねえタクシュー、ちょっと具合が悪いの?」
「ん、ああ。まあちょっとな、少し考え込んでしまってたんだ。気にしなくていい、大丈夫だ。」
いつものように、心配する母親に本音を話さない子供の如くはぐらかした物言いをするのだが彼女はしばらく言葉を言い淀んだ後に声を漏らした。
「……二条さんと会いたくないの?」
突然の言葉に心臓が跳ね上がるかのように驚いてしまうのだが彼女は非難めいた目でこちらを見つめているように見えた。できる限り表情には出さずに、至極落ち着いた様子で聞いてみることにした。
「どうして、そうだと思ったんだ。」
彼女はとても苦々しい思い出を思い出すかのような酷く物悲しい顔をして、必死に言葉を正しく紡ごうとしていた。
「えっと、その、二条さんが走って逃げていくのをみちゃって。昨日は部活メンバーから色々頼まれちゃって……何だろうって思ってたらタクシューが階段から降りてきてさ。見て居られないぐらいひどい顔で降りてくるんだから、なんとなくわかっちゃったんだ。多分二条さんを泣かせることをしたんだって、そうなんでしょ?」
突然の告白を前に隣にいる楓はスマホを片手に真剣な目つきでこちらを見つめてくる。その眼窩には興味と怒りを含めた色を持っているように見えた。女を泣かせたことに対しての非難の色はないわけではなかったのだが、他人に対してそんな感情的になるということが信じられない様子であった。
当の言葉を紡いでいる彼女も信じられないといった感情の色さえ小さな仕草から見て取れる。瞼をしきりに閉じ、手を唇に寄せ軽く隠してできる限り感情的にならないように話している。
「それは……。その、なんだ。」
あの時の感情はパスタコードのようにこんがらがって仕方がなかった。今でもあの感情を理解することは難しく、行動、感情の動きから推察するほかに知ることは難しい状態である。
ぎゅっと唇をふさいだ後、口内側の上唇を小さく舐め鼻で深く息を吐き出す。そして答えるのだ、あの時の感情を、整然と整理をしながら。
「俺も、よくわからない。別に怒るようなことは、ないわけではなかったんだがなんであんなことを言ったのか本当に分からないんだ。ただただ自然に反発するように言葉を出してしまったんだ、初めてのことで本当に訳が分からない。だから今でも飲み込めないんだ、どうしたらいいのか全く分からないんだよ。」
「それって、タクシューのあのことを話したってことだよね。あの事故のことを……。」
「いやそれは……多分話してはいないと思う。あと葵、今はそのことを話さないでくれ。正直また暴発するかもしれない、お前だけは絶対にそんなことをしたくないんだ。」
「……そう、わかった。今は話さないでおく。」
葵は小さく頷き答えるのだが、物悲しさを含んだ真剣な目つきでこちらを見ていた。そして言葉を発した。
「でも、でも二条さんには、アイラさんには話すべきだと思う。一歩でも進むべきなんだよ、匠がそんなに苦しんでいるってことは匠の心の中にも一歩進まないといけないってわかってるからなんでしょう。」
思わず口を閉じ、唇を簡単に噛む。手で口元を覆い視線を葵から外す。自分の足元を見つめ考えてしまう。
自分の中にも変わりたいという心があることは知っている。だが一歩踏み出すのが恐ろしい。一歩進むということは同時に進めなくなることもあるのだから。
「それは、その、……確かにそうなのかもしれないが、怖いんだ。もう一度走れなくことが末恐ろしいんだ。だから……もう関わりたくないんだ。」
「それじゃあ誰も救われない話になるじゃん、私だって怖いよ。匠が痛い想いをすることが怖いんだよ。でも、でも今の匠を見ているともっと痛いんだ。心がきゅっと閉まる感じの、言葉にできないくらいに苦しいんだよ。だから、自分をそんなに罰しないで。そのままじゃ匠の心が壊れちゃう……。」
自分の不甲斐なさに益々腹が煮えくり返る思いであったのだが、同時に冷え切った諦観の念が脳内をめぐっていた。どこまでが自分の本心で、どこまでが自分の虚像なのかわからない。
どこまで行っても弱い、男未満の人間なのだと自罰的な思考へとなるのだが……。
「あーもう、何勝手に自分が悪いから関わるな、お前だけは傷つけたくないだ。バカか!!」
隣で聞いていた楓が声を上げる。突然のことに二人は声を上げた楓へと視線を向ける。彼女は相当ご立腹なのか苛立ちを隠さず、尚且つ説教する母親のような顔で匠へと顔を寄せる。
「いっ!!」
「タクミ、あんたはどうしたいの!目の前の葵を助けたいの、それとも関わってくるなって言いたいの?」
「それは……お前には関係ないだろ。」
「関係あるし、あーしにだって十二分に関係あります。どうして男は一人で何でもかんでもやろうってするのか分かんないよ。困ったら助けを求めたらいいじゃない、何をそんなに燻ってる訳?」
「言えるわけないだろ。助けを求めている人間に助けを求めるなんて到底できない。」
「あーもうどこまでも我儘なんだから、だったら助けてくれる人間を頼りなさい。現に今、目の前にいるでしょう?」
そういうと楓はポケットの中から一枚の紙きれを出した。それは以前彼女から渡された映画のチケットであった。
「まあ、貴方にはそれなりに借りはあるし。友達として助けてあげたいの、それをわかって。」
顔を逸らし少し照れつつも見せてくる一枚の紙きれは彼女からの心の形であった。それはとても暖かった。他者への慈愛に満ちた精神性は、男社会の中には凡そ存在は稀有であり、女性であるからこそ持つ普遍的かつ明確なものであった。人はこれを母性だとかそういう言葉と評するのであろう。
確かに彼女の言うことも間違ってはいない。そうは思ったが同時に手を借りることに臆する自分がいる。それすなわち一歩踏み出すことを恐れている自分なのだ。止まることを恐れて止まない自分である。だが今は一人ではないのだ、彼女たちがいてくれる。まずは一歩踏み出してみよう、そう思った。
「嗚呼そうだな……。」
小さな決意と共に流れる雲海が見えた。それは壮大なように見えて群体、つまるところ集合体なのだ。初めは小さな物から始まった話は雪だるまのように次第に大きくなり、結実する。雲になるまでに多くの他力によって為される行為で、多くの要素が複雑に折り重なってできている。
青い空に大きな雲を見ていると自然にちっぽけな存在で、憧憬を抱いてしまいそうになる。どこまでも広い空の中に好きな形としていて居られることの雄大さ、何百という奇跡が折り重なってできた群体。自分も雲になれるのであれば、なってみてもいいのかな、と。
くすんで屈折した心は今すぐには治らないけれども、精一杯以前のような笑みを浮かべて楓へと声をかける。
「なら明日の昼飯をおごって貰おうかな、ちょうど金がなくなってさ。」
「げっ、別にいいけど今度ちゃんと返してもらうからね。」
「ああそうだな、今月のバイト代でマックでも食べに行こうか。」
お互いの話を聞いて仲間はずれにされたことに不機嫌になった葵がふくれっ面でぶーぶー非難の言葉を飛ばしてくる。
「二人だけずるいじゃん!私もタクシューと一緒に映画見に行きたい!!」
「どうどう、今度一緒にいってやるからな。さあ行こうか。とりあえず楓の家に。」
適当に流されたと文句ありげながらもついてくる葵に、上機嫌で先頭で案内する楓、匠含め三人はアイラの元へと向かうのであった。




