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【61】やさしい音が聴こえる

 午前中の雷雨は何処かへ消えて、まだ乾ききらないアスファルトの水溜りを、炎天の陽射しが熱く照らしている。

 道端の眩しさに目を細めると、水溜りの光が消えて蒼旻天あおぞらが映りこんでいた。

 僕は腕を叩かれて振り返る。

 僕よりも頭ひとつ背の低い彼女を見下ろした。

『映画、何時からだっけ?』

 彼女は小さな腕時計を覗くと再び僕を見上げた。

「二時半のはずだよ。充分間に合うだろ」

 月極駐車場に停めた小さな車に乗り込む。

 咽るほどに熱い車内をクーラー全開で冷やす。

 彼女の甘い香気かおりが、エアコンの風に吹かれて車内に広がった。


 僕たちが出逢ってまる一年が経つ。

 ちゃんと付き合いだしたのが何時頃からなのか、何処へんから付き合うという交流に変わったのかは忘れてしまった。と、他の人には言う。

 でも、本当は覚えている。



 真夏の図書館で彼女と言葉を交わしてから、二ヶ月ほど過ぎていた。

 爽籟そうらいがほんの少し冷たく感じ始めたけれど、まだ陽射しの強い日曜日だった。

 イオンの屋上の隅で、僕らは缶ジュースを片手に縁石に腰掛けていた。

 この頃、僕らはよくそこでたわいもない話しをした。


 風に流れる遠くの雲に西陽が淡く輝くのを見ていたら、僕はふと、以前に出逢った男を思い出した。

 トイザらスで出逢い、つかの間の言葉を交わした同世代の彼が、僕はずっと気になっていた。

 それはナオが時折語る、想い出話の中にいた。

 聴覚に障害を持つ妹を支える彼は、ナオが語る、心を通い合わせたであろう少年そのものだった事に気付いた。

 どうして今まで気付かなかったのだろう。

 何かが心の隅に引っ掛かって、でもそれに考えを巡らす事が出来なかった。



「ナオ……」

 何時の頃からか、僕が声を発したとき彼女の肩に手を触れなくてもナオは僕を振り向くようになった。

 まるで僕の声だけは、聞き分けられるかのようだ。

 平凡な環境下で育った僕とは違って、ナオの日常は日々困惑にまみれていた。

 彼女の話しは何でも聞けた。

 普通、過去の親しい異性友達の話しなんて聞きたくは無いはずだけど、ナオの過去は何でも聞き入れた。

 その何処かに、彼女と接するヒントが隠されているような気がしたから……。


「前に聞いた、舘内圭吾……だっけ」

 彼女はきょとんとした瞳で、僕を見つめた。

「俺、逢ってるよ。たぶん」

 きょとんとした丸い瞳は、黒く光を発する。

『何時? どこで?』

 彼女の小さな手が、僕の腕に触れた。

「ナオと話す、少し前。夏期講習の前……だったかな」

 僕はトイザらスでであった兄妹の話しをした。

 ナオは懐かしそうに目を細めて僕の唇を読む。

 気のせいかもしれないけれど、その瞳は僅かに潤んでいるようにも見えた。

 虹彩に西陽が吸い込まれる。

 でも彼女は小さく首を振った。黒髪が左右に揺れる。

『うそ……』

「いや、たぶんそうだよ」

 彼女は息を小さく吐く『そんなはずないわ』

「どうして?」

「だって……」彼女は小さく声をだした。

 とても小さくて、微かに聞き取れる声だった。

 大きなワゴン車がゆっくりと後ろを通り過ぎてゆく。

 彼女はゆっくりと瞬きをして僕を見つめると、両手をゆっくりと動かす。

『圭吾は、去年亡くなったのよ』

 僕は一瞬彼女の言葉を読み違えたと思った。

 思わず手話で復唱する……『亡くなった?』

 背中に悪寒が走った。

 脊椎が痺れるほどの、一瞬で激しい悪寒だ。

 腕の産毛が、サワサワと逆立つのを感じた。


「亡くなったって?」

『交通事故で、亡くなったの。義母おかあさんが、一月くらい経った頃だけど、連絡をくれて……それで、知ったの』

「そうなんだ……」

 僕は彼女から視線をそらして、停滞する雲を見上げた。

 ――違う、あれは圭吾だ。

 何故だか、僕には確信があった。

 理屈なんて解らない。

 解らないけれど、僕が逢った彼は、間違いなく館内圭吾……だ。

 だって、妹も一緒だったじゃないか。

 そんな理由は、何の意味もない事かもしれないけれど……。

 それとも彼は、今でも聴覚の不自由な妹の傍で、彼女を見守っているのだろうか。


 一直線に伸びる飛行機雲が、オレンジ色の細い帯に焼けていた。

「逢いたい?」僕は蒼穹そらを見上げたまま言った。

 ナオは返事をしなかった。

 その代わりに、僕の手の甲にそっと指を乗せる。

 人差し指と中指を揃えてゆっくりと円を描いた。

 僕はそれが手話のひとつだと気付くのに、数テンポ遅れて彼女の顔を見つめる。

「やさしい、声は、聴こえるから」

 抑揚はしっかりして、少しもおかしくなんて無い。

 屋上から見える遠くの山脈に、紅みを増した太陽が落ちかけていた。

 雲は西側に面した部分だけがオレンジ色に焼けて、蒼穹そらは薄い藍色に変わり始めている。

「やさしい声?」その言葉に聞き覚えがある。

 圭吾が僕との別れ際に言ったあの言葉の意味は、ここにあったのだ。

 やさしい音を、彼女は聞き分ける事が出来る。

 それは音の波長なのか雰囲気なのか、それとも他に感じる何かなのか。

 健常者の僕には……判らない。

 

 不自由なくコミュニケーションを取れる異性は、他にいくらでもいるのに、僕は彼女に惹かれてしまった。

 しかし、うわべの馴れ合いを通り越して内面で通う何かが、僕とナオにはあるのだ。

 密度の濃い精神の疎通を、僕たちは交わしているのかもしれない。

 今は遠いあの頃、圭吾とナオも同じ疎通をはたしていたのだろう。

 それは他の誰にも理解できない何処か蜜で、脳髄を頬かに刺激して心地いい。


 僕は彼女の手の甲に指を乗せて、丸く円を描く。

 好きなもの……好きなこと。を形容する手話。それは人を好きな時も、同じ形容を使う。

 彼女は自分の手の甲は見ずに、僕だけを見つめていた。

 西陽が彼女の黒い瞳に滲んで溶けてゆく。

 ゆっくりとひとつ、瞬きをした。

 僕の指先を、手の甲を通して心で感じ、読み取っているようでもあった。

 風が僕たちを包むように通り過ぎると、彼女の頬に黒髪がそよいだ。

 オレンジ色の飛行機雲は、音もなく雲の波間に吸い込まれてゆく。

 僕は彼女の頬にかかった柔らかい黒髪を、指でそっとすくってみた。


 暮色にたたずむふたりの長い影が、ゆっくりと静かに重なった。


 指をそっと絡めた。

 細い指が僕の手の甲を小さく包む。

 彼女の頬を伝った小さな雫がひとつ、ぽたりと零れ落ちた。





 ― END ―



最後までお読み頂き有難う御座いました。

連載ペースが落ちたにも関わらず、最後までお付き合いいただけた皆様に感謝いたします。


有難う御座いました(^^


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