違うの、ただ身体が
紂王伝 第60話 「旦那様が戻られたわ。お迎えに行きましょう」嬴風お姉様に促され、私はお姉様と禄父君の三人で、いつもと同じように旦那様を出迎えるために玄関へと向かった。けれど――怖い。どうしても、あの冷たい会議室で私の頭の上から降り注いだ、旦那様の地獄のように冷え切った声音が耳の奥で蘇って、かき消えてくれない。パタパタと重々しい足音が近づき、扉の向こうから旦那様が姿を現した。「政務、お疲れ様でございます、陛下」お姉様がいつも通りに美しく一礼し、挨拶を述べる。私も後に続いて挨拶をしようとした。けれど、どうしても言葉が出ない。それどころか、足がガチガチと激しく震えてしまって、一歩も前に動かすことができなかった。「……?」私の異変に気づいたのだろう。旦那様が怪訝そうにこちらへ視線を向けると、ゆっくりと私のほうへ向かって歩み寄ってきた。(あ、ダメ……っ、来ないで……!)近づいてくる旦那様が、あの血の滴る生首を盆に載せた恐ろしい暴君の姿と重なり、頭の中がパニックになる。膝の力が完全に抜け、ガタガタと震え出した私は、もう立っていられずにその場にペタンとへたり込んでしまった。「ひぃっ……!」恐怖のあまり、思わず情けない短い悲鳴が口から漏れる。慌てて旦那様を見上げると――そこにいた旦那様は、見たこともないほど『悲しそうな表情』をしたまま、石のようにその場でピたりと固まっていた。光の消えた冷徹な瞳ではなく、傷ついた子供のような、痛々しい目。旦那様はお姉様や禄父君と何か二、三言だけ短い言葉を交わしたあと、私にはもう二度と視線を合わせることなく、そのまま静かに踵を返して奥の邸宅から出ていってしまった。「あ……、ちがうの……っ、私は……!」違う。私は旦那様を拒絶したかったわけじゃない。大好きな旦那様のお顔を見て、「おかえりなさい」って言いたかっただけなのに。けれど、裏切られた身体はどうしても言うことを聞いてくれず、遠ざかっていく旦那様の背中をただ見送ることしかできなかった、この日、私はまた涙で前が見えなくなりながら、お姉様に優しく抱えられて、お姉様の屋敷へと連れ戻されるのだった。




