北西遠征
紂王伝 131話 「はっ。子戞様率いる正規軍二万、朝歌を出陣いたしました」伝令の報告を聞きながら、紂王(帝辛)は手元の木簡に素早く筆を走らせていた。九国への遠征軍がついに動いた。今回の作戦では、前線部隊と同数の二万の輜重部隊が予定されている。だが、それはあくまで最大動員時の話だ。太行山脈に近づくまではそこまでの人手は必要ない。ゆとりを持たせた行程で、現地到着までは二十日前後と踏んでいた。(……できれば、これ以上血を流すことなく、新九侯が降伏してくれれば一番なのだがな)玉座の背にもたれ、紂王は小さく息を吐く。だが、現実はそう甘くはないだろう。先の会戦で手痛い敗北を喫したとはいえ、伯たる九国だ。一戦も交えずに軍門に降るなど、矜恃が許さないはず。お互いの体面というものもある。一度小規模な衝突戦を挟んだ後に、手打ちとしての降伏——それが現実的な落としどころか。(すべては、使者として先行させた尤渾の働きにかかっている。難しい交渉になるだろうが、何とかまとめてもらわねば困る)遠方の九国への遠征は、進めば進むほど補給線が伸び、物資の運搬だけで凄まじい人手が取られていく。それに比例して、費用も加速度的に跳ね上がるのだ。(昔の王たちは、よくもまあ、ここよりさらに北の鬼方まで遠征を繰り返したものだ……)先祖たちの治世に思いを馳せ、改めてその過酷さに眉をひそめる。当然、この莫大な軍費の工面に大変な思いをしているのは、比干叔父上を中心とした財務の者たちだった。(裏方の仕事というものは、目に見える華々しい名誉が得られぬ。)不器用ながらも、実務者の苦労を多少は理解している紂王である。(今回の遠征の粗方の目処がついた時点で、何か適当な名目をつけて、裏方で踏ん張ってくれた者たちにささやかで良い、宴と褒賞を下賜してやろう)ちょうど、北方に派遣されている箕子叔父上もそろそろ朝歌へ帰ってくる頃合いだ。(……『箕子叔父上の慰労会』。この名目にすれば、比干叔父上も費仲も、表立って反対はすまい)方針が決まると、紂王は傍らに控えていた実務派の官吏を呼び寄せた。「これより北方から帰還する箕子叔父上の慰労を目的とした、宮中での宴の準備を進めておけ。裏方で奔走した文官らへの褒賞の品も、抜かりなく手配しておけ」「御意にございます、陛下。ただちに手配いたします」官吏が深く平伏し、退室していく。気がつけば、窓の外はすっかり帳が下りていた。今日も一日、内政の激務にかじりついていた王は、ようやくその重い腰を上げた。(……さて、奥に帰るか。妲己たちが待っている)愛する家族のいる後宮へと思いを馳せながら、紂王は静かに席を立った。




