7 彼岸としての文学
思想においても文学においても、世界を見るのに好都合な時期というものがあるだろう。現代はそういう時期ではない。ただそれだけの事かもしれない。しかし、人々が諸手を挙げて褒めているものに、我々は注意する必要がある。それは人々が前提としている価値観をかき乱す事はしない。だからこそ、それを褒める事が良識的だとされて、それ故にそれは称賛されると共に胃袋で簡単に消化され、さっさと排泄されて消えていく。
文学が善悪の彼岸であると考える時、それは社会の混乱期に、社会の裂け目に深く降りていき、そこで秩序と非秩序を含んだある全体性を感じる事によって現れてくる何かではないか。私はそんな風に思っている。
ベルクソンの理論を延長していけば、作者が自己の中の嵐を外面的な出来事を使って表現していく際、制限がない、という事である。シェイクスピアは人間の悪をも善をも、聖性も卑俗も、全てを使って彼の中にあるものを表現してみせた。その時、彼がある階級に色目を使い、ある価値観に頭を下げ、ある権力、あるいは彼自身のコンプレックスの前に頭を下げながら作品を作っていたら、どうだろう。その時、我々はそこに雄大ななにものをも見いだせぬだろう。
現代においては法を守る限りにおいて、他者を侵害しない限りにおいて、幸福を求める事が素晴らしいと言われている。それは消費社会の肯定へと収斂されていき、その中で自由に消費する事が素晴らしいとされている。ここに果たして限界はないか、と人々に問うても、その問いそのものが人々には意味がわからないに違いない。作家志望に「作家になるのを目指す事だけが文学ではあるまい」と言っても、彼らに意味は通じないだろう。
戦後の社会において現れた価値観をなぞる形で、倦怠と飽和と日常肯定、あるいはその日常に対して刺激としての惨劇を用意してみせるといったドラマが流行った。今も支配しているのはそれらのドラマである。しかし、いつの間にか人々は笑う立場から笑われる立場になってきているのではないか。ドラマの主人公は常に、安穏とした傍観者ではない。そんな物語を我々は欲しない。しかし、現実生活においては我々が望むのはそれである。現実はさてどちらに流れていっているか。
ショーペンハウアーのラインを辿っても、ベルクソンのラインを辿っても、意志の客体化、内面の外延化、それらにおけるドラマの創造は、限界を越えていなくてはならない。限界とは善悪であり、我々の小癪な小市民根性であろう。我々が真に文学を求めるなら、まず我々の内の垣根を破壊すべきではないか。この世に悪はあろう。というのは、それは我々自身だからである。だからこそ、我々は悪と戦わねばならぬ、と現代の立派な人間の誰が言うだろうか。我々が文学に、芸術に見たいのはそれである。時代や社会に従属した小さな作品ではなく、時代や社会を捉えようとする作品だ。だが、そこに至るのは、自分達の中にある無意識的な麻酔部分をまず計る必要がある。我々は何に麻酔されているのか。善があり、悪があり、生活がある。それはそうだろう。しかしそれらは本当にあるのだろうか。それらがあるとはそもそもどういう事か。
普通人の認識であれば、これまで書いてきた事は全然必要ない。普通人は世界にくるまれて、社会にくるまれて、世界の中を流れ生きていく。それはそれでいい。しかし、「努力して夢を叶える」といった程度の価値観は、そういう普通人の手のひらの範疇に収まるからこそ受け入れやすい答えなのであり、そのレベルでしか創造できないのであればそれに何の意味があろう。芸術の創造が意志の客体化ではなく、大衆が見たいと欲する映像の客体化であるとしたら、なんと芸術は堕落したものだろうか。しかしこの点において嘆く事すら不可能になっているのか。
私が言いたい事は大体、以上のような事だが、考えてみれば、これら全ては過去の人が言った事の継ぎ接ぎに過ぎない。ショーペンハウアーを読めば、ベルクソンを読めば、誰でもいいが古典を読めばもっと偉大な事が書いている。私としては今を生きる人間としての、それらの知恵に頼りながら自他の在り方について考えてみたいというに過ぎない。
おさらいしておくなら、今を生きる我々にとってたいそう価値があるように見えているものは、実際にはある歴史、社会が生んだ付属物の一つに過ぎないという話である。もちろん、あらゆる文化物がそうだと言えるだろうが、しかし、私としてはサブカルと生活肯定が意外に何をも求める事が許されていない世界の空気にうんざりしている。
文学と呼ばれるものが、人間の全存在を描く事をやめ、自分達を善の側に置き、敵を相手の側に置き、趣味的に悪を描いてみたり、内輪的に自分達の楽しさを追求する事。それらが許されたのは、日本社会が戦後の一時期に物質的に豊かになったが為だろうし、そこに満足を、そこに回帰したい人達もいるのは承知している。ただもっと大きな視野で言えば、戦争の期間も含めて、神の消失、人間本位の世界になった事、その物質的供給が安定した事に今の我々の立ち位置があるように思える。しかし、人はパンを増す事によって神の問題を消しされると信じた。その道を進んで、今や「神が死んだ」と独語する事も許されなくなった。神は死んだのではなく消えたからであり、その不在を確認する事も不可能になった。
文学が人間の存在を描く事が不可能になったのは、人間の存在、その生活そのものが全てになったからとも言えるだろう。人間、に対して対比するものが消えてしまったので、人間内部を、ある方をA、もう片方をB(非A)と名付け、争わせる事しかできなくなった。人間全体を見る視野自体が消えてしまった。
西欧近代というのも、よく見ていけば、その背後にあるキリスト教的、古代的精神がいかに強く光っているのかがよく分かる。現代においては、対立物がないので、卑小な対立だけが全てになっている。それを認識する事も禁じられている。
文学は善悪を貫く、人間を描いていくものだったのが、今ではそうではなくっている。市民社会的な倫理がそのまま精神の鋳型になって、そこで頭は止まってしまう。もう一度、芸術とは何かを真剣に考えるなら、「今」という時間軸から出る事が必要であるように思う。私がこの文章で意志だとか、内面の外部化といった事柄は、私自身がこの社会の既存の価値観に疑問を持っている事と照応している。まずはこの疑問からはじめる事、そうして自分の中にあるものを深く覗く事。覗いた時、世界が喚き散らす通俗的な価値観と矛盾するものがあったとして、今更、何を躊躇する必要があるだろうか。我々の社会の基盤は壊れていっている、失う物はもはや何もないではないか。もう一度、自分達の存在について考えるべきは今この地点であろうと思う。私は、この文章でそうした事について素朴に語ってみたかっただけだ。