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誰もがうまくいくものと、信じているものを壊してしまおう。
それは私のわがままと、分かっている、だけれど、それでも。
「…これなら」
何十何百にも渡る思考錯誤を終え、ふうと私は一つ深く息をついた。
召喚の儀は中止できない。召喚そのものを阻止することもできない。私がその場にいかないことも、その場で何か明らかな害をなすこともできはしない。
なぜなら儀式の中心は、醜き影である私ではなく彼女、うつくしき光の姫君だから。彼女こそが世界を救う勇者を召喚する誇り高き喚び姫、誰もがそう思っているから、すべての軌跡は彼女が描くものでしかないから。
けれど、ああ、本当にこの召喚にかかわる事実を知る人間は誰もがひどく愚かだ。なぜ醜悪の影たる私の力を、召喚に耐えうるぎりぎりの線を保って抑制しようとはしなかった。
なぜ私の力をどこまでも、残虐と無慈悲の限りを尽くして高めようなどということを思った。どうしたところでこの国を世界を、まっすぐに愛することなどできるはずもない人間になぜ、どこまでも高く高く、膨張を続けるおぞましい力を与え続けたのだ。
誰よりも、今までの召喚の姫も軽くしのぐほどの力をつけてしまった私は考える。笑う。世界の醜さと美しさを、虚ろの左とまだ正気を保つ右とに同時に映して笑う。
そうさ、私は知っている。世界は美しい、人の本性は善だと、言う人間の心も分からないとは言わない。
けれど私はもう、その善を美しさを信じるにはあまりになにもかもを、この虚ろに事実として映し過ぎた。生じたと思えばすぐに奪われるだけの、ただ魔力だけがおぞましい勢いで膨らんでいく、たったそれだけの人生。異世界からの勇者の召喚に、使われるだけの、その後も命が残れば国のコマとして使役されるだけの惨めな殺戮人形。
だから私は召喚しよう。召喚することでささやかな、この世界の則への反逆と、勝手にこの世界が術式が、召喚されるべきと定めた勇者殿、あなたをこの世界という枷から解放する身勝手を行おう。
だから、私はここへと喚ぼう。本当に召喚すべきとされる勇者ではなく、勇者の住む異世界が持っている最も大きな「力」を。
死ぬことを決して許されない、国家にひとに、直接的な叛逆も不可能である私に唯一、この力の無意味な膨大さゆえに可能となってしまったひとつの賭けを、しよう。
「ふ、」
そう、これは滅亡への直進路ではなくただひとつの賭けだ。
勇者ではなく「力」が召喚されたのなら、その力を使うことになるのはこの世界、おそらくはこの国に存在する、だれかだ。力はあくまで、方向性など定められぬただの「力」。その力が、本来召喚されるべき勇者と同じく、国にとって正の向きにはたらくならそれでもいい。
なぜなら力は、力なのだから。その理由を使用途を定めるのは力を実際に手に取る人間だ。すなわち、使い方次第で正義にも悪にも簡単に転ぶ、それが力というものだ。
だからこそこれは賭けなのだ。導かれる方向性は是か非か、正か負か。私を殺すか、それとも生きながらえさせるか。
それは魔王を殺す剣か、それとも人の世を滅ぼす地獄の恐るべき劫火か。
まあまず、何を召喚する結果になったとしても私は魔王が死ぬまではまともに人としては生きられないのだろうな、と思った―――術式を誰も気づけぬように改ざんし、ひとではなく「もの」を召喚することを可能にできる存在など、儀式の場には私一人しか存在しようもないのだから。
「ふふ」
こんなに心が晴れるのは、久方ぶりだと涙の乾いた後の、あの特有のはりつくような感覚の消えぬ頬をひきつらせるようにして笑いながら思った。
少し前まではほんとうは、召喚した勇者に味方になってもらおうかとも考えていた。
願わくば勇者が自分を、何らかの経緯を経ることによって最終的には殺してくれないかとそう、思っていたのだ。私のモノとしての利用価値を知る人々は決して、私を殺さない。だからこそ何も知らない勇者が、ただひとりの悪人として或いは友人として、私をその一刀の下に斬り伏せてはくれないだろうかと、そう、夢物語のようにぼんやりと考えていた。
だがそんなことは少し考えれば、すぐに不可能であることが知れる。
あの完璧なうつくしい光の姫君が、王家に「忠誠」を誓う強い力を持つ魔術師をわざわざ、勇者の手を煩わせて殺させるなどするわけがない。そもそもこんな醜い容姿のおぞましい、男とも女ともつかないいびつな存在の、世迷言めいた狂言を勇者が信じるなどまず、絶対にあり得ない。あり得るわけがない。
それにどんな世界でも、同じ姿で同じく意思の疎通ができる、そんな存在を当然のように家畜を或いは虫を殺すように潰すことなど、ひとという存在の倫理としてきっとできはしないだろうと思った。
自分のひとりのわがままに、呼び出された人間がわざわざ付き合う義理もなにもないだろうと思った。それに誰も気づいていないけれど、あの完璧なうつくしい姫君を、勇者が果たして好きになるかどうかなど決してわからないのだ。だって勇者だって結局人間なのだから、一個としての感情を持つものなのだから。
過去召喚された勇者たちは、みな幸せになったと伝記には記される。
王家の姫を妻にめとり、あるものは将軍となりあるものは次期の王となり、或いは魔術師、或いは宰相。己の知恵と力を生かし、現在まで続くこの世界の礎となったという。
勇者を待ち望む全員の、筋書きの中では勇者は彼女をきっと、めとる。なぜなら彼女はそうなるべくして、幼いころからずっと光の姫君たるべく育てられてきたのだ。
賢く聡明で強く、素直で優しい、おしとやかで控えめで他人の顔をしずかに立てる。
そんな人間となるように、完璧に教育され続けてきたことを知っている。知っていた。
―――私の方からあくまでも一方的に、であるが。
「不幸になって下さい、喚び姫」
逆になるなど無理だと、分かっている。
結局のところ誰とも知れぬものと、生涯切れ得ぬ仲にならねばならない存在になど別段、なりたいとも私は思わない。
影なる私と同じように、光たる彼女もまた多くの鎖に縛られ数多の楔をその身のうちへと打ち込まれている。私の場合はそれがどこまでも陰惨でどす暗いものでしかなく、一方の彼女はそのすべてが他人に称賛され、他人を他の存在を惹く方向へと向かうものであったという、それだけだ。
けれど、生まれ落ちたその時には何の違いもなく、ただ世界に人の子として生まれただけのふたごであったはずなのに。
いったいなぜ、いつ、どこから。何の正当な理由があり、何のために正当化され。
私は醜くねじ曲がり、彼女はあまりに真っ直ぐに眩く美しく。
私の目にするものは見たくもない事実ばかりで、一方の彼女が目にするのは、世界に人々に彼女自身にとってどこまでも都合のよい、脚色のされた或いは事実の一部が脱落した、「真実」と呼ばれる都合のよい言葉によって装飾されたものでしか、ないのだろう。
「私のこの賭けは、誰を何を、勝ちとするかなど何も分からないけれど」
それでもあなたは、どうか不幸になって下さい、喚び姫。
その言葉が彼女だけではなく己をも指すことなど、無論私は事実として理解しながらこの言葉を発している。
舞台は舞踏会でも開けそうな、巨大な空間だった。
空間を隅々まで照らすのは、惜しげなく魔力を費やし生成された光の魔石がふんだんにあしらわれた豪奢なつり下げ式の照明器具だ。大気には、人間の集中を高めるというはるか遠くの高地の精気が満ちている。先ほどまで完全に閉鎖されていた空間とは、とても思えぬほどこの場の空気は澄みきっていた。
そして私たち魔術師は、この場の中心に描かれた、魔法陣の外縁に沿うようにして一定の間隔を開いて立っている。他のどのような術式の追従も許さぬ微細さと、規模とを誇る召喚のためのそれのすぐそばに、正装をその身に纏ってずらりと顔をそろえて。
未だ王族の方々は姿を見せてはいないが、一度儀式が開始されれば光の姫君とは真逆となる位置に私は立たされていた。
ただ一人フードを目深にかぶったままの私の姿は、だれの目から見ても明らかに異様であろう。しかし喚び姫の逆位は影たるべきという、なまじ嘘ではない私の言に誰もが、一度は首をかしげながらもそれ以上の反論はしなかった。
私が本当の影であるのだと、知っている人間はこの場にもあまりにも少ない。そもそも光の姫君は、己の影が未だ存命していることそれ自体を知らない。
姫君は私に関する偽りを、決して疑うことはない。…なぜならこの偽りは善意で作られているからだ。心底からこれがこの国のためたると、召喚に深く関わる誰もが一途に信じ切っているからこそ私がつくられるのだ。
生き抜くということにおいて、最も厄介な敵は悪意ではなく善意なのだと。
そんな言葉を聞いたのは、果たしてどこでのことだっただろうか。
「喚び姫様がいらしたぞ!」
ぼんやりと思索にふけっている間に、どうやら時間はそれなりに過ぎてくれていたらしい。
誰が発したかもわからぬ言葉に顔を上げれば、ふわりと裾と袖の広がる純白のドレスと揃いの白いベールを身にまとった姫君と、国王以下、王と連なる一族が一同ずらりと顔をそろえていた。無論彼らが経つ位置は、私たちが今控えている場所よりも三段以上も高い。
その高い高い位の上から、そしてひとり喚び姫様はこちらへと降りてくる。未だこの召喚の結果として起こる事象など何も知ることなく、自分は歴代と同じく勇者の召喚を成功させるのだと信じて疑わない、純粋な善意という名の悪意だけをその身の内に満たした女が。
いいや、彼女だけではない。この場の誰も知らないだろう。
既にこの召喚の魔法陣が、常にこの術式を目にし続けていなければ気づけない程度に微細にしかし確実に、私の手によって書き換えられているということを。そしてこれから紡がれる光の姫君の、召喚の祝詞という名の呪詛さえも私が、そのままの意味として世界へ届けることを魔力へと変換することを阻むということを。
この召喚の間に誇らしげに立つ、大勢の人間のうちの誰が彼を殺せと命じたのかを私は知らない。彼が死んでしまった今となっては、もはやそれは別に私にとっては誰でもよかった。いや、より正確に言うならば、命じた人間も実行犯も誰であっても、それが私にもたらす意味は全く同じだった。
私は決して口外しない。彼を殺してしまったからこそ、私からこの世界を「守る」という意思が希薄になってしまったことを。
誰に理解することを、今更乞おうとも思わない。彼が死んだ、私の一部が同時に死んだ。それゆえにこの目にしてしまった勇者の現実は、この空っぽで三人称的にだけ美しい世界を守るという理由と天秤にかけ背負うにはあまりに、私にとっては苦しく、重すぎた。
私にはきっと、分からない。この力は、背負い込むことを強制されたこの膨大なおぞましい魔力は呪縛かそれとも福音なのか。
私にこのような賭けごとをする、可能にする力が生まれてしまったということを。
かつて私を大切にした、決して数としては多くなかった人たちの中、…果たして喜んでくれる人は誰か、いるのだろうか―――?
「皆、よくぞ集まってくれました」
召喚の前の姫の、最後の演説が始まる。その顔は誇りと自信に満ち溢れ、最高の結果がこの召喚で弾き出されるものと信じて疑わぬものの表情でしかなかった。
畏まって王族一同の激励を聞くふりをしながら、私は更に更にと魔法陣の改ざんをゆっくり、そして確実に進めていった。召喚するのは最も強い「ひと」ではなく「もの」。あの勇者殿が存在する異世界において、最も強い力を持つ「もの」を、私は今まで蓄積された、己の力のすべてを擲って召喚する。
これは決して、世界への祝福などではない。決して破壊されることなどありえないはずのこの魔法陣を、今回限りに完膚なきまでに消滅させる魔法もまた静かに、誰の目にも明確には見えぬように組み込んでいく。二度三度の召喚がないように、もう誰もこの召喚という醜悪な慣習の犠牲となることがないように、私は強く、強くその壊滅を希う。
私はきっときみのところへ、行くことはできないだろうな、と小さく微笑んで思う。
きみが行くのが祝福の地なら、私が行くことを余儀なくされるのはきっと。
地の果てにある死の王の坐す、暗く光の、差さない地だ。
「―――それでは、」
姫君が息を吸う。召喚の間を照らす光が、より一層の輝きを増して全てを照らし出す。
さあ始めよう、たったひとつの勝敗など誰にも分からぬ賭けを。異世界への蹂躙と横暴の限りを尽くしてこの世界を姑息に守ってきた、私たちという愚かな存在に下されるのは果たして祝福だろうか、それとも絶望だろうか。
私たちが今から召喚する、異世界の「もの」は私を守ってくれるだろうか。私を咎めるだろうか、私を殺してくれるだろうか。
それはこの国を世界を、果たして守る方向へと動き得るものだろうか。それともこの斜陽を閉塞をただ加速させるだけの、私以外の誰にとっても悪夢でしかないものであろうか。
別にどちらでも構わない。なんでもいい。確かなことは、あの少年を私はこの世界へ呼ばないということ。この世界から異世界の勇者という存在を、私というひとりの醜悪なる喚び姫が破壊するということ。
姫の祝詞が始まる。魔法陣へとそそがれ始める魔力と、その魔力に呼応するように発光を始める、膨大な術式。
私もまたこの賭けへの最後の一手を打つべく、静かに微笑んだまま指の足りぬ両手をふわりと目前へとかざした。
――――その日のとある時刻、世界中の地震計測機器にひどく、奇妙なデータが一斉に観測された。
たった一瞬だけ計測され、あらゆる表示を真っ赤に染めながら次には忽然と消え失せたひとつの「地震」の、数値上のデータはM9.8。
それは機器の故障によるものなのか、或いは何かほかの理由によるものなのか。
まことしやかにささやかれる諸説の中、その真実を知る者はしかしこの平和な世界には誰一人として―――いない。