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クラウンオブミセラ  作者: タクマ・オレンジ
1章 笑うギャング、破滅するポップコーン
1/30

1-1 クラウンは、王冠ではなく、道化師を意味する

 1981年4月――神埜王国《カミノ》。

 

 ミセラ大陸の内海に浮かぶ、小さな島国。


 神の塔は天を衝き、湖水は星々を映し、霊峰は静かに威容を示す。

 鉄路は大地を貫き、飛行船は青空を巡る。


 豊かな自然と高度な技術が共存する国。


 機関車、自動車、飛行機、潜水艦、電話、ラジオ、テレビ、シネマトグラフ――世界を彩る偉大な発明品の多くは、この国で生まれた。


 首都トキオから列車で七時間、飛行機なら三時間、ダイヤル式電話でならほんの一瞬。

 

 そこは、世界で最も幸せな場所。


 ――《カンザキ領・サイハテ村》。


 片田舎の小さな孤児院から、物語ははじまる。



◇◆◇◆◇

 

 ――昔の夢を見ていた。

 

 母上に抱きしめられる。ただそれだけの、たわいもない夢だ。


「おいで、アシュラ」


 柔らかな声に呼ばれて、胸の中に抱き寄せられる。雪のように白い肌。

 白金の長い髪が頬をくすぐり、顔を上げると、澄んだ碧い瞳と目が合った。


「すきありっ」


 ふいに頬へ落とされる柔らかな唇。

 恥ずかしくて視線を落とすと、母上の右胸に刻まれた『盾の刻印』が見えた。


 大好きだった、母上。


 あの頃はまだ、俺の身体にはタトゥーなんて一つもなくて、喧嘩の仕方も、ジョークの意味も、嘘のつき方さえも知らなかった。左目も、まだ本物だった。


 もう母上の顔は昔ほど鮮明に思い出せない。

 けれど、決して悪い夢ではなかった。



「ぐふっ!」


 みぞおちに鋭いボディーブローを食らったような衝撃。

 強制的に、温かな夢から現実へと引きずり出される。

 スプリングが跳ね、古びたベッドが激しく軋んだ。腹の上には、ずしりとした重み。


「パパー!」


 やたらと元気な声が、朝の静寂を切り裂いて、容赦なく降り注ぐ。


 またか、と思いながら、重い瞼を押し上げる。

 そこには、乳歯の抜けた笑顔が眩しい、二つ結びの女の子の顔があった。――ミユキだ。


「あのね、パパ!」


 小さな手で、服の胸元をぐいぐいと揺さぶられる。

 俺はため息と欠伸を噛み殺し、まだ残る眠気を追い払いながら、上体をゆっくりと起こした。


「……どうしたの? ミユキちゃん」


「ナツくんがまた喧嘩してる!」


「……またかよ。……ナツとイズミ?」


「ううん、今日はナツとナナちゃん! ナツが一方的にナナちゃんに怒ってる!」


「え、ナナに?」


「うん! だから、早く起きて、パパ!」


「わかったわかった。……わかったから、パパって呼ぶのはやめろ」


 俺はまだ15歳になったばかりだ。

 父親になるには、いくらなんでも早すぎる。


 しかし、ミユキは俺の抗議などどこ吹く風で、当たり前のように両手を広げては、「んっ、パパ」と抱っこをせがんでくる。


 もちろん俺は、それを拒めるわけがなく、「はいはい、ほらおいで」と、胸の中に飛び込んできた小さな身体をひょいと抱きかかえ、ベッドから下りた。

 

 寝室のドアを開けると、まだ薄暗い廊下には、朝のひんやりとした空気が漂っている。

 奥の食堂の方からは、包丁が規則正しくまな板を叩く音が微かに聞こえてきた。


「ライカは? 厨房?」


「うん。『今、手が離せないから、シュラを起こして来い』って。ママが」


「ママって呼んでやるな。……おっけー、了解」


 子供だけの朝は、とにかく騒がしくて、とにかくやることが多い。

 去年、院長が死んでからというもの、朝はずっとこんな調子だ。


 ――この孤児院に、大人はいない。


 年長であるライカと俺が、手探りながらも親代わりをしている。


 幸い、村からの支援や、俺の工房での稼ぎがあるので、金に困ることはない。

 だが、金があれば子供が勝手に育つというわけでもない。


 手も、時間も、いくらあっても足りやしない。

 けれど、そのおかげで、自分の暗い過去に浸る時間もない。


 それほどに忙しく、充実した毎日を送れている。


「しゃべれよ!」


 居間の扉を開けた途端、鼓膜を突き破るような怒鳴り声が飛んできた。


「なんでしゃべらないんだよ! お前、カミノ語わかんないのかよ!」


 ナツだ。8歳にしては、声も態度もやたらとでかい。

 部屋の隅で膝を抱えて、顔を伏せているナナに対して、これでもかと詰め寄っていた。

 

 俺は、抱きかかえていたミユキを床へと下ろす。


「あー、やだやだ! まだ下りん! 下りんぞ!」


 服を掴んで離そうとしない小さな手を、無理やりに振りほどく。こいつは甘やかしていたら、本当にきりがない。

 

 ……で。

 俺は騒ぎから少し離れた場所へ目を向ける。

 

 なんであいつは、こんな喧騒の中でも、平然と読書に没頭できるんだ。

 視線に気づいたのか、イズミがふと顔を上げた。


 俺と目が合う。


 はあ、とイズミは深いため息をついて、やれやれとでも言いたげに肩を竦めてみせる。そしてまた、何事もなかったかのように本へと視線を落とした。


 毎度のことだが、あの大人びた態度を見るたび、本当に7歳児かよ、と疑いたくなる。


「無視すんなって言ってんだろ!」


 またしても怒鳴り声が響く。ナツの怒りは、まだまだ収まりそうにない。

 ついには、頑なに顔を伏せるナナに向かって、小さな手を振り上げた。


「はいはい。ストップ、ストップ」


 俺は背後からナツの襟首を掴んで、そのまま子猫のようにひょいと持ち上げる。


「なんだよ、兄ちゃん! 邪魔すんなっ、下ろせ!」


 空中でジタバタと暴れるナツ。至近距離から、ミルク臭い唾が顔に飛んでくる。


「きたねえな。こら、暴れんな」


「うるせー! 下ろせ!」


「お前のがうるせえよ。暴れんなっての」


「離せよ! くそったれ!」


「……くそったれ?」


 どこのどいつだ。8歳児に、こんな下品な言葉を覚えさせたクソ野郎は。


「……おい、どこでそんな言葉覚えてきた?」


「シュラ兄だよ」


 横からボソッと、本で顔を隠したイズミの冷静な声が飛んできた。

 ……ああ、俺かよ。


「それはすまん。俺も今日から汚い言葉は使わないから、お前も使うな」


「やだね!」ナツは思い切り舌を出して、ご丁寧に中指まで立ててみせた。


「くそったれのチキン野郎!」


「あん? 今なんつった? 誰がチキンだって? 舐めんじゃねえぞ、くそったれっ!」


 大人げなく本気で凄んでやると、ナツは一瞬で借りてきた猫のように大人しくなった。


「……兄ちゃんも、くそったれって、言ってるじゃん」


 床に下ろしてやると、「……オレ、なんも悪くねえもん」とナツは唇をとんがらせる。

 その瞳には悔し涙が滲み、今にも溢れ出しそうだった。


「で、朝っぱらから、なんで怒ってたんだ?」


「……だって、一緒に遊ぼうって言っても……ナナが無視するんだもん」


 堰を切ったように、ぽろぽろとナツの瞳から涙が零れ落ちる。


 俺は視線を合わせるようにしゃがみ込んで、「泣くなって」と苦笑しながら、ナツの頭に手を置いた。 

 わしゃわしゃと犬のように頭を撫で回す。


「男が女に無視されたくらいで怒んなよ。女に無視されるのなんて、大人になれば日常茶飯事だぜ。よかったじゃねえか、これでまた一つ大人になれた。もう泣くな」


「……うるせーよ」むっとしながら、俺の手を乱暴に振り払う。「泣いてねえし」


 ナツの顔面は、すでに涙と鼻水で大惨事になっていた。


 口元は未だに、への字に曲がり、頬は不貞腐れたように膨らんでいる。

 その姿がどうにも可笑しくて、つい人差し指でほっぺを突っついてみる。ぷすーっと空気が抜けた。


 わかってる。

 ここで笑えば、こいつはまた怒り出す。耐えろ、耐えてくれ俺。


「――プッ」


 やっぱり無理だった。思わず吹き出す。


「あはははっ! 泣いてないって言い張るのは、さすがに無理があるだろ! めちゃ泣いてんじゃん! 大泣きじゃん」


「うるせーよ! なに笑ってんだよ! 馬鹿にすんなよ!」


 キャンキャンと吠えるこの生意気さが、可愛いと思うようになったあたり、俺も少しは大人になった気がする。


「ほら、きたねえ顔をこっちに向けろ」


 俺は服の袖で、ナツの顔をぐいっと大雑把に拭いてやる。

 お気に入りのパジャマは、涙と鼻水で一瞬にしてぐちゃぐちゃになる。


 けれど、不思議と嫌な気分は少しもしなかった。


「いいか、ナツ。お前に、女を口説くコツを教えてやる」


「……いいよ、べつに」


「いいから、よく聞け。いいか? 女を口説くコツは、エスパーのように察することだ」


「……なんだよ、エスパーって」


「男って生き物はな、好きな女のためなら、エスパーにでも、時にはカウンセラーやセラピストにでも、ならなきゃなんねえ。すべては、女心を察するために」


 寝ぼけていた頭がはっきりとしてきたのか、8歳の子供に俺は何を教えてるんだ、と急に我に返る。

 

 しかし、勢いと妙な教育欲が勝ってしまい、俺は得意げに話を続けた。


「独りにしてほしそうなら、そっと放っておく。話を聞いてほしそうなら、黙って話を聞いてやる。共感してほしそうなら、全力で共感してやる。そして、抱きしめてほしそうなら、ぎゅっと抱きしめてチューしてやる。これが大事だ。これで俺はライカを落とした」


 いつのまにか涙も止まり、ナツはぽかんと口を開けている。


「朝からなにバカ言ってんのよ」


「いてっ」


 コツン、と絶妙な強さで、後ろから頭を叩かれる。

 

 頭を押さえて振り返ると、そこにはエプロン姿の黒髪美人――ライカが、お玉を握りしめ、冷ややかな顔で仁王立ちしていた。


「余計なことを、子供に吹き込まないの」


「……はい」


 ライカに、つんとした目で睨まれる。


「今の私の気持ちを察して、何か言うことは?」


「ぎゅっと抱きしめて、チューしてやろうか?」


「あん?」


「……調子に乗りました、ごめんなさい」


「はい、よろしい」


 つんとした美人が怒ると怖い。俺はしゅんとしながら謝った。


「ほら、みんな朝ごはんできたよ。食堂に集まって」


 ライカが優しく手招きすると、子供たちは一斉に、「はーい」と声を弾ませながら、部屋を飛び出していく。

 

 ――ただ一人、ナナを除いて。


「ナナちゃんも行こう」


 ライカがしゃがみ込んで優しく呼びかけても、ナナは顔を上げようとしない。

 

 やがて静かに立ち上がったライカが、こちらへ視線を送ってくる。

 俺がこくりと頷くと、彼女はそれだけで察したように、子供たちの後を追って、先に食堂へと向かった。


 居間には、俺とナナだけが残る。


「ほら、ナナも行こう。お腹すいたろ?」


「…………あ、あの」


「ん?」


 長い、気の遠くなるような沈黙の果てに、ナナはゆっくりと顔を上げた。


「……いら、ない」


「いらないって? 朝ごはんが?」


「わ、わたし、……か、かかま、わないで……く、くくだ、さい」


 どもりながら紡がれた言葉は、一切の感情が排されていた。

 人形のように、表情も動かない。

 

 ナナはこの施設に来たばかりの子だった。


『うちの遠縁の子らしくてな。どうやら一人でこの村まで来たらしいんだ。ワシとばあさんじゃ、もう面倒見切れん。悪いが、この子も預かってやってくれんか』

 

 そう言って、村長が連れてきた。

 

 長い間風呂にも入っていなかったのだろう。泥と汗にまみれた彼女の身体を洗った時、その白い肌には、無数の切創、挫創、熱傷痕、そして歪な縫合痕が刻まれていた。

 

 切り口は妙に揃い、打撲跡は的確に急所ばかりを捉えている。よく見れば、古い銃創の跡まであった。

 

 ――ただの虐待とは、どこか違う。


 感情に任せた理不尽な暴力という感じはしない。

 その傷からは、もっと無機質な死の匂いがした。


 でも、だからといって、特別扱いをする気なんてさらさらない。


「構わないでほしいだって? ……やだね。いいからいくぞ」


 俺はナナの細い手を取り、立ち上がらせる。反射的に、ナナの身体がぴくりと動いた。


「抱っこしてやるから、朝ごはんが冷める前に行くぞ」


 俺はそのまま、ナナの小さな身体を大事に抱きかかえる。8歳のミユキよりも頭一つ分は大きいはずなのに、重さはほとんど変わらない。


 ナナは抵抗しなかった。――ただ、怯えとは違う静かな瞳で、何かを探るように俺の右腕に刻まれたタトゥーをじっと見つめていた。


「朝ごはんは、家族一緒に食べる。これがうちの家訓だ」


 さて、朝ごはんはなんだろうか。甘い卵焼きがあればいいな。


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