1-1 クラウンは、王冠ではなく、道化師を意味する
1981年4月――神埜王国。
ミセラ大陸の内海に浮かぶ、小さな島国。
神の塔は天を衝き、湖水は星々を映し、霊峰は静かに威容を示す。
鉄路は大地を貫き、飛行船は青空を巡る。
豊かな自然と高度な技術が共存する国。
機関車、自動車、飛行機、潜水艦、電話、ラジオ、テレビ、シネマトグラフ――世界を彩る偉大な発明品の多くは、この国で生まれた。
首都トキオから列車で七時間、飛行機なら三時間、ダイヤル式電話でならほんの一瞬。
そこは、世界で最も幸せな場所。
――《カンザキ領・サイハテ村》。
片田舎の小さな孤児院から、物語ははじまる。
◇◆◇◆◇
――昔の夢を見ていた。
母上に抱きしめられる。ただそれだけの、たわいもない夢だ。
「おいで、アシュラ」
柔らかな声に呼ばれて、胸の中に抱き寄せられる。雪のように白い肌。
白金の長い髪が頬をくすぐり、顔を上げると、澄んだ碧い瞳と目が合った。
「すきありっ」
ふいに頬へ落とされる柔らかな唇。
恥ずかしくて視線を落とすと、母上の右胸に刻まれた『盾の刻印』が見えた。
大好きだった、母上。
あの頃はまだ、俺の身体にはタトゥーなんて一つもなくて、喧嘩の仕方も、ジョークの意味も、嘘のつき方さえも知らなかった。左目も、まだ本物だった。
もう母上の顔は昔ほど鮮明に思い出せない。
けれど、決して悪い夢ではなかった。
「ぐふっ!」
みぞおちに鋭いボディーブローを食らったような衝撃。
強制的に、温かな夢から現実へと引きずり出される。
スプリングが跳ね、古びたベッドが激しく軋んだ。腹の上には、ずしりとした重み。
「パパー!」
やたらと元気な声が、朝の静寂を切り裂いて、容赦なく降り注ぐ。
またか、と思いながら、重い瞼を押し上げる。
そこには、乳歯の抜けた笑顔が眩しい、二つ結びの女の子の顔があった。――ミユキだ。
「あのね、パパ!」
小さな手で、服の胸元をぐいぐいと揺さぶられる。
俺はため息と欠伸を噛み殺し、まだ残る眠気を追い払いながら、上体をゆっくりと起こした。
「……どうしたの? ミユキちゃん」
「ナツくんがまた喧嘩してる!」
「……またかよ。……ナツとイズミ?」
「ううん、今日はナツとナナちゃん! ナツが一方的にナナちゃんに怒ってる!」
「え、ナナに?」
「うん! だから、早く起きて、パパ!」
「わかったわかった。……わかったから、パパって呼ぶのはやめろ」
俺はまだ15歳になったばかりだ。
父親になるには、いくらなんでも早すぎる。
しかし、ミユキは俺の抗議などどこ吹く風で、当たり前のように両手を広げては、「んっ、パパ」と抱っこをせがんでくる。
もちろん俺は、それを拒めるわけがなく、「はいはい、ほらおいで」と、胸の中に飛び込んできた小さな身体をひょいと抱きかかえ、ベッドから下りた。
寝室のドアを開けると、まだ薄暗い廊下には、朝のひんやりとした空気が漂っている。
奥の食堂の方からは、包丁が規則正しくまな板を叩く音が微かに聞こえてきた。
「ライカは? 厨房?」
「うん。『今、手が離せないから、シュラを起こして来い』って。ママが」
「ママって呼んでやるな。……おっけー、了解」
子供だけの朝は、とにかく騒がしくて、とにかくやることが多い。
去年、院長が死んでからというもの、朝はずっとこんな調子だ。
――この孤児院に、大人はいない。
年長であるライカと俺が、手探りながらも親代わりをしている。
幸い、村からの支援や、俺の工房での稼ぎがあるので、金に困ることはない。
だが、金があれば子供が勝手に育つというわけでもない。
手も、時間も、いくらあっても足りやしない。
けれど、そのおかげで、自分の暗い過去に浸る時間もない。
それほどに忙しく、充実した毎日を送れている。
「しゃべれよ!」
居間の扉を開けた途端、鼓膜を突き破るような怒鳴り声が飛んできた。
「なんでしゃべらないんだよ! お前、カミノ語わかんないのかよ!」
ナツだ。8歳にしては、声も態度もやたらとでかい。
部屋の隅で膝を抱えて、顔を伏せているナナに対して、これでもかと詰め寄っていた。
俺は、抱きかかえていたミユキを床へと下ろす。
「あー、やだやだ! まだ下りん! 下りんぞ!」
服を掴んで離そうとしない小さな手を、無理やりに振りほどく。こいつは甘やかしていたら、本当にきりがない。
……で。
俺は騒ぎから少し離れた場所へ目を向ける。
なんであいつは、こんな喧騒の中でも、平然と読書に没頭できるんだ。
視線に気づいたのか、イズミがふと顔を上げた。
俺と目が合う。
はあ、とイズミは深いため息をついて、やれやれとでも言いたげに肩を竦めてみせる。そしてまた、何事もなかったかのように本へと視線を落とした。
毎度のことだが、あの大人びた態度を見るたび、本当に7歳児かよ、と疑いたくなる。
「無視すんなって言ってんだろ!」
またしても怒鳴り声が響く。ナツの怒りは、まだまだ収まりそうにない。
ついには、頑なに顔を伏せるナナに向かって、小さな手を振り上げた。
「はいはい。ストップ、ストップ」
俺は背後からナツの襟首を掴んで、そのまま子猫のようにひょいと持ち上げる。
「なんだよ、兄ちゃん! 邪魔すんなっ、下ろせ!」
空中でジタバタと暴れるナツ。至近距離から、ミルク臭い唾が顔に飛んでくる。
「きたねえな。こら、暴れんな」
「うるせー! 下ろせ!」
「お前のがうるせえよ。暴れんなっての」
「離せよ! くそったれ!」
「……くそったれ?」
どこのどいつだ。8歳児に、こんな下品な言葉を覚えさせたクソ野郎は。
「……おい、どこでそんな言葉覚えてきた?」
「シュラ兄だよ」
横からボソッと、本で顔を隠したイズミの冷静な声が飛んできた。
……ああ、俺かよ。
「それはすまん。俺も今日から汚い言葉は使わないから、お前も使うな」
「やだね!」ナツは思い切り舌を出して、ご丁寧に中指まで立ててみせた。
「くそったれのチキン野郎!」
「あん? 今なんつった? 誰がチキンだって? 舐めんじゃねえぞ、くそったれっ!」
大人げなく本気で凄んでやると、ナツは一瞬で借りてきた猫のように大人しくなった。
「……兄ちゃんも、くそったれって、言ってるじゃん」
床に下ろしてやると、「……オレ、なんも悪くねえもん」とナツは唇をとんがらせる。
その瞳には悔し涙が滲み、今にも溢れ出しそうだった。
「で、朝っぱらから、なんで怒ってたんだ?」
「……だって、一緒に遊ぼうって言っても……ナナが無視するんだもん」
堰を切ったように、ぽろぽろとナツの瞳から涙が零れ落ちる。
俺は視線を合わせるようにしゃがみ込んで、「泣くなって」と苦笑しながら、ナツの頭に手を置いた。
わしゃわしゃと犬のように頭を撫で回す。
「男が女に無視されたくらいで怒んなよ。女に無視されるのなんて、大人になれば日常茶飯事だぜ。よかったじゃねえか、これでまた一つ大人になれた。もう泣くな」
「……うるせーよ」むっとしながら、俺の手を乱暴に振り払う。「泣いてねえし」
ナツの顔面は、すでに涙と鼻水で大惨事になっていた。
口元は未だに、への字に曲がり、頬は不貞腐れたように膨らんでいる。
その姿がどうにも可笑しくて、つい人差し指でほっぺを突っついてみる。ぷすーっと空気が抜けた。
わかってる。
ここで笑えば、こいつはまた怒り出す。耐えろ、耐えてくれ俺。
「――プッ」
やっぱり無理だった。思わず吹き出す。
「あはははっ! 泣いてないって言い張るのは、さすがに無理があるだろ! めちゃ泣いてんじゃん! 大泣きじゃん」
「うるせーよ! なに笑ってんだよ! 馬鹿にすんなよ!」
キャンキャンと吠えるこの生意気さが、可愛いと思うようになったあたり、俺も少しは大人になった気がする。
「ほら、きたねえ顔をこっちに向けろ」
俺は服の袖で、ナツの顔をぐいっと大雑把に拭いてやる。
お気に入りのパジャマは、涙と鼻水で一瞬にしてぐちゃぐちゃになる。
けれど、不思議と嫌な気分は少しもしなかった。
「いいか、ナツ。お前に、女を口説くコツを教えてやる」
「……いいよ、べつに」
「いいから、よく聞け。いいか? 女を口説くコツは、エスパーのように察することだ」
「……なんだよ、エスパーって」
「男って生き物はな、好きな女のためなら、エスパーにでも、時にはカウンセラーやセラピストにでも、ならなきゃなんねえ。すべては、女心を察するために」
寝ぼけていた頭がはっきりとしてきたのか、8歳の子供に俺は何を教えてるんだ、と急に我に返る。
しかし、勢いと妙な教育欲が勝ってしまい、俺は得意げに話を続けた。
「独りにしてほしそうなら、そっと放っておく。話を聞いてほしそうなら、黙って話を聞いてやる。共感してほしそうなら、全力で共感してやる。そして、抱きしめてほしそうなら、ぎゅっと抱きしめてチューしてやる。これが大事だ。これで俺はライカを落とした」
いつのまにか涙も止まり、ナツはぽかんと口を開けている。
「朝からなにバカ言ってんのよ」
「いてっ」
コツン、と絶妙な強さで、後ろから頭を叩かれる。
頭を押さえて振り返ると、そこにはエプロン姿の黒髪美人――ライカが、お玉を握りしめ、冷ややかな顔で仁王立ちしていた。
「余計なことを、子供に吹き込まないの」
「……はい」
ライカに、つんとした目で睨まれる。
「今の私の気持ちを察して、何か言うことは?」
「ぎゅっと抱きしめて、チューしてやろうか?」
「あん?」
「……調子に乗りました、ごめんなさい」
「はい、よろしい」
つんとした美人が怒ると怖い。俺はしゅんとしながら謝った。
「ほら、みんな朝ごはんできたよ。食堂に集まって」
ライカが優しく手招きすると、子供たちは一斉に、「はーい」と声を弾ませながら、部屋を飛び出していく。
――ただ一人、ナナを除いて。
「ナナちゃんも行こう」
ライカがしゃがみ込んで優しく呼びかけても、ナナは顔を上げようとしない。
やがて静かに立ち上がったライカが、こちらへ視線を送ってくる。
俺がこくりと頷くと、彼女はそれだけで察したように、子供たちの後を追って、先に食堂へと向かった。
居間には、俺とナナだけが残る。
「ほら、ナナも行こう。お腹すいたろ?」
「…………あ、あの」
「ん?」
長い、気の遠くなるような沈黙の果てに、ナナはゆっくりと顔を上げた。
「……いら、ない」
「いらないって? 朝ごはんが?」
「わ、わたし、……か、かかま、わないで……く、くくだ、さい」
どもりながら紡がれた言葉は、一切の感情が排されていた。
人形のように、表情も動かない。
ナナはこの施設に来たばかりの子だった。
『うちの遠縁の子らしくてな。どうやら一人でこの村まで来たらしいんだ。ワシとばあさんじゃ、もう面倒見切れん。悪いが、この子も預かってやってくれんか』
そう言って、村長が連れてきた。
長い間風呂にも入っていなかったのだろう。泥と汗にまみれた彼女の身体を洗った時、その白い肌には、無数の切創、挫創、熱傷痕、そして歪な縫合痕が刻まれていた。
切り口は妙に揃い、打撲跡は的確に急所ばかりを捉えている。よく見れば、古い銃創の跡まであった。
――ただの虐待とは、どこか違う。
感情に任せた理不尽な暴力という感じはしない。
その傷からは、もっと無機質な死の匂いがした。
でも、だからといって、特別扱いをする気なんてさらさらない。
「構わないでほしいだって? ……やだね。いいからいくぞ」
俺はナナの細い手を取り、立ち上がらせる。反射的に、ナナの身体がぴくりと動いた。
「抱っこしてやるから、朝ごはんが冷める前に行くぞ」
俺はそのまま、ナナの小さな身体を大事に抱きかかえる。8歳のミユキよりも頭一つ分は大きいはずなのに、重さはほとんど変わらない。
ナナは抵抗しなかった。――ただ、怯えとは違う静かな瞳で、何かを探るように俺の右腕に刻まれたタトゥーをじっと見つめていた。
「朝ごはんは、家族一緒に食べる。これがうちの家訓だ」
さて、朝ごはんはなんだろうか。甘い卵焼きがあればいいな。




