第36話 旦那様、従者はまたデートに連れて行かれます!
論理よりも直感。自分は昔から後先をあまり考えない人間だと思う。迷ったり悩んだり考え込んだりすると、いつも──。
「薬、飲めるか?」
「たびたび申し訳ございません、旦那様ぁ……」
こんな風に寝込んでしまうのである。つい先日も体調を崩したばかりだというのに、この体たらく。私はここまで弱かっただろうか。ノクト様にお薬を飲ませていただくのも、すっかり板についてしまった。
「謝るんじゃない」
「ですが」
「レティもずっと看病してくれてたじゃないか、俺のこと」
月の呪いの苦しみと、ただの知恵熱を一緒にしないでほしい。額に置かれたノクト様の手が冷たくて、心地よさから目を閉じてしまった。頭痛と気怠さ、自由の利かない体が情けなくて目尻に涙が溜まる。
「苦しいよな。このまま目が開かないんじゃないかって、不安になるよな」
月送りをするたび、ノクト様のお体は悲鳴を上げておられた。原因不明の発熱と激しい咳、酷いときは喀血を繰り返す。
薬も魔法も効かなくて、私は女神様にどれほど祈っただろう。何度だって桶の水を換えるから、何度だって布を絞っておでこに乗せるから──どうか旦那様を元気にしてください、と。
「夜通し看病してくれてたレティの寝顔を見たらさ。ああ、俺、まだ生きてるって……安心してた」
きっとノクト様も同じだった。生と死の狭間にいたこの方の希望になれていたのだとしたら、祈りは無駄ではなかったのだ。
「今度は俺がそばにいるから」
かつて従者が主人を看病するために座っていた椅子。そこにノクト様が腰掛けていらっしゃる。髪を撫でる柔らかな手つきは、「ゆっくりおやすみ」と言ってくれているみたいだった。
最後までお側にいると誓ったのは、他でもない自分自身。誓いに背いてまで月の呪いを解きたいと願うのは身勝手でしかないのだろうか。
ちゃんと考えて、選んで、動き出さなければいけない。でも、今はこの大きな手のひらから伝わってくる温もりの中で微睡んでいたかった。頭がぼんやりして、なんにも、したく、ない。
「旦那様。エクレティカにお客様です」
「帰ってもらえ」
「それはできません」
ノックもなしに入ってきたのはアドリ様だった。そんなことは滅多にされない方だ。
私にお客様が訪ねてくる予定などなかったはず。一体、どなたがいらしたのだろうか。働かない頭を無理やり動かしていると、勢いよく扇が開く音で目が覚めた。
「わたくしを追い返そうだなんて。ずいぶんと偉くなったものね?」
体を起こせば、なぜか自室に実りの国の第三王女がいらっしゃる。そういえば、ランタン祭りで屋敷に来るようお誘いを受けていた。すげなくお断りしてしまったから実力行使に出られたのだ。
「わたくしの野良猫を迎えにきたのよ」
「ペルシスタ嬢。レティは体調不良なんだ、日を改めてくれ」
ノクト様が、従者に代わって断りの返事をされる。ペルシスタ様を一瞥すらせず、激しい拒絶が穏やかな声の中に包み隠されていた。
「あら、そう。わたくしの知ったことではないわ」
くだらないといった様子で吐き捨てられる。ペルシスタ様にとってノクト様の拒否などその程度らしい。一歩、また一歩と近づいてこられるたびに、虹の瞳から輝きが消えていく。
「約束は破るものではなくてよ。歩ける?」
「はい、ペルシスタ様……」
すっと差し出された手。それを取ろうと腕を伸ばせば、ノクト様が体を間に入れて阻もうとする。
「いい加減にっ!」
だが、次の瞬間。およそ扇から聞こえるはずのない衝撃音とともに、旦那様が地面に叩きつけられていた。打たれた頬は赤黒く腫れている。おそらく魔法は使われていない。あれは鉄扇だ。
「こちらの台詞だ、とでも言えばいいのかしら」
見下ろすペルシスタ様の眼光は凍え上がりそうなほど冷たかった。だが、足元がおぼつかない私を支えてくださる手は優しい。
「野良猫はわたくしの屋敷でしばらく預かるわ。馬鹿な真似はしないでちょうだいね」
ペルシスタ様は、ついでと言わんばかりに私の胸元にあるブローチを外してしまった。軽やかに片手で真上に投げると、鉄扇でその三日月を砕く。
「いけません、旦那様!」
「離せ、アドリ!!」
お前の喉を切り裂いてやる、といった勢いでノクト様が飛びかかろうとする。見開かれた目と、手に集まった膨大な魔力。元婚約者の命を奪おうとしているのは明らかだった。すんでのところでアドリ様が羽交い締めにしてお止めになる。
旦那様が「レティ!」と手を伸ばしていらっしゃった。あまりにも悲痛なその叫びに振り返っても、ペルシスタ様は私の腕を離してくださらなかった。
乗せられた馬車にはツィトルス王家の紋章があしらわれていた。イーエン家の馬車だって粗末なものではないが、こうも座り心地が違うと格の違いを痛感してしまう。
「ほら、飲みなさい」
「これは?」
「いいからはやく。効かなくなってしまうわ」
唐突に一粒の錠剤を渡される。急かされながら渋々飲んだ。さっき薬を飲んだばかりなのに、大丈夫だろうか。水とともに喉を通り過ぎていったのを感じ、しばらく待つ。
ふっと体から気怠さが消えた。頭にかかっていた霧が晴れて、思考がはっきりとしてくる。絶大な効き目だ。効き過ぎて、なにか危ないものが入っていたのではないかと勘繰ってしまうほどに。
「楽になったでしょう?」
「はい。あの、これはなんのお薬なのですか?」
「強力な中和剤よ。魔力の」
魔力の中和剤──それはお酒を飲みすぎたときに飲むもの。そうなると、体調不良の原因は魔力酔いということになる。そんな馬鹿な。
「お酒など飲んでおりません」
「そうでしょうね……」
口を閉ざし、窓から外を眺めていらっしゃる。私は心を読めないけれど、ペルシスタ様のことなら少しだけわかるつもりだ。目を伏せがちにされるときは、自責の念にかられておられる。無理やりにでも私を屋敷にお招きしたかった理由が必ずあるに違いない。それを追求することは──できなかった。
突如、馬車が大きく揺れた。右に左にと制御を失っていく。
「姫様っ、ご無事ですか!?」
御者の張り上げた声が外から聞こえてきた。
「問題ないわ。報告しなさい」
「賊です! 姿は見えませんが襲撃されております!」
連絡用の小窓を開け、御者と話をされている最中にも攻撃が止まらない。
「小賢しい鼠だこと。爺や、屋敷まで駆け抜けなさい!」
ペルシスタ様は舌打ちすら美しかった。先ほどいただいた中和剤のおかげで体も軽い。私でフェルガント様の代わりが務まるか怪しいが、少しくらいなら戦える。
「馬車を止めて迎え撃ちましょう。あなた様をお守りしてみせます」
「いいえ、逃げるわ。鼠の狙いはお前だもの」
あっけなく提案は却下されてしまった。
「姫様、こちらを!」
小窓から御者が指輪を投げ入れてくる。それを指に嵌めたペルシスタ様は豪快に馬車の窓を開けた。うねるような風がすさまじい勢いで中に入ってくる。
「野良猫、舌を噛まないようにしなさい」
私はペルシスタ様に抱き抱えられた。すごくいい香りがする、なんて呑気に思っていたら体が宙を舞っている。いきなり馬車から飛び降りるなんて、誰が想像できただろうか。




