表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
《完結》魂の織り目《ソーシャル・ファブリック》 〜剣と魔法が救えなかった世界を「制度」で救う物語〜  作者: ひより那


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/15

第9話 黒衣の神父と七つの戒律

 ベヴァリッジ卿が『包括的社会保障計画ベヴァリッジ・レポート』の執筆のため王都へ帰還して数週間。灰燼街キーファのハル・ハウスには、かつてないほどの熱気が渦巻いていた。

 彼の構想が一部の知識層に漏れ伝わったことで、王都の学舎から多くの若者たちが「自分たちも歴史の転換点に参加したい」と、続々とハル・ハウスにボランティアとして押し寄せてきたのだ。

 サミュエルやメアリーの指導のもと、彼らは炊き出しや文字の読み書きの指導など、熱心に活動を支えてくれた。だが、組織が急速に拡大し、素人の支援者が増えるということは、同時に『新たな歪み』を生み出すことでもあった。


「どうして約束を破ったのですか! あれほど、もうあの怪しい薬には手を出さないと誓ったはずじゃないですか!」


 ハル・ハウスの面談室から、若き支援者――王都から来た学生ボランティアの、悲痛で苛立たしい声が響いた。

 俺が静かに扉の隙間から覗き込むと、机を挟んで学生と向き合っているのは、ミラという名の若い女性だった。彼女は元々、怪しげな魔法薬ポーションの密造組織から逃げ出してきた被害者なのだが、フラッシュバックや依存症状に苦しみ、昨夜、再び薬の密売人に接触しようとして保護されたのだ。


「私たちは、あなたを救うためにこんなに一生懸命やっているのに! あなたのその怠惰な心根を直さない限り、いくら環境を整えても無駄ですよ!」

「…………」


 学生の激しい叱責に対し、ミラは顔を伏せ、膝の上で震える両手を強く握りしめたまま、完全に貝になっていた。

 俺は息を吐き、異能『魂の織りソーシャル・ファブリック』を発動する。

 視界の色彩が消え、二人を繋ぐ糸が浮かび上がった。

 学生からミラへ伸びているのは、善意という名でコーティングされた、極めて暴力的で太い『白色の糸』。それはミラの首に巻き付き、彼女を力ずくで「正解」の方向へ引きずり倒そうとしている。

 対するミラの胸からは、自己否定と恐怖で黒ずんだ糸が千切れそうに震え、完全に外部との接触を拒絶するように、自身の心臓へぐるぐると巻き付いていた。


(……典型的な温情主義パターナリズムだ。相手を救いたいという善意が、いつの間にか『自分の指導に従わない対象者への怒り』にすり替わっている)


 学生は間違ったことを言っているわけではない。薬は悪いことだ。だが、正論という刃で対象者の心を切り刻むことは、支援ではない。ただの「審判」だ。

 俺が止めに入ろうと扉に手をかけた、その時だった。


「――君は、彼女の『罪』を裁く法務官なのかな? それとも、彼女の『魂』に寄り添う隣人なのかな?」


 背後から、ひどく穏やかで、しかし深淵のように響く声がした。

 振り返ると、そこに立っていたのは、装飾の一切ない質素な黒衣カソックを身に纏った、長身の神父だった。年齢は四十代半ば。その彫りの深い顔立ちと、すべてを見透かすような凪いだ瞳には、王都の人間とは違う、厳しい巡礼の旅を続けてきた者特有の静謐さが漂っていた。


「な、なんだあなたは。私は今、彼女の更生のために重要な指導を……」


 学生が抗議の声を上げるが、黒衣の神父は面談室に静かに足を踏み入れると、学生の肩にそっと手を置いた。それだけで、学生の過熱していた怒気が、水を打ったようにスッと消え失せた。


「君の熱意は素晴らしい。だが、君のその熱すぎる光は、今、彼女の傷ついた心に濃い影を落とし、言葉を奪ってしまっている」


 神父は学生を下がらせると、自らミラの向かいの椅子に腰を下ろした。そして、威圧感を与えないよう少しだけ視線を下げ、ゆっくりと口を開いた。


「初めまして。私はフェリックス。フェリックス・バイステックという、ただのしがない巡礼の徒です」


 フェリックス・バイステック。

 その名前が脳裏で弾けた瞬間、俺は扉の陰で大きく目を見開いた。

 前世の歴史において、ケースワークにおける支援者と対象者の『援助関係』を、七つの原則として完璧に言語化したアメリカの司祭であり、社会福祉学者。彼が定義した援助関係とは、単なる事務的な契約でも、感情的な同情でもない。対象者の心理的欲求に的確に応えるための『ダイナミックな態度の相互作用』である。


「ミラさん、でしたね」


 バイステックは、俯いたままの彼女に静かに語りかけた。


「あなたは今、また薬に頼ろうとした自分を、心の底から恥じている。そして、私たちのような支援者の期待を裏切ってしまったことに、押し潰されそうな罪悪感を抱いている」

「……ッ」


 ミラの肩が大きく跳ねた。自分の醜い内面を、一切の非難の感情を乗せずに、ただ「事実」として言語化されたからだ。


「良いのですよ、ミラさん。悲しい時は泣き、苦しい時は叫んで良いのです。あなたのその澱んだ感情を、まずはすべて外に吐き出しなさい」


 それは、彼の原則の一つ『意図的な感情表出』だった。対象者の負の感情を抑え込ませるのではなく、意図的に表現させることで、心の緊張を解きほぐす技術。

 ミラの目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。


「だって……っ、怖かったんです……! 夜になると、組織にいた時の記憶がフラッシュバックして、手足が震えて……どうしても、あの薬で感覚を麻痺させないと、頭がおかしくなりそうで……!」


 彼女の泣き叫ぶ声を聞いて、後ろに下がっていた学生が「だからといって……!」と再び正論をぶつけようと口を開いた。だが、バイステックは手を上げてそれを制し、ただ深く、深く頷いた。


「ええ。あなたはそれほどまでに、過酷な恐怖と戦っていたのですね。私は、あなたを弱い人間だとは思いません」


 『受容』。対象者のあるがままの姿を、善悪の判断を交えずに受け入れる姿勢。

 そして『非審判的態度』。支援者は、対象者の行動が道徳的に正しいか間違っているかを裁く立場にはないという、絶対的な原則だ。


「私はあなたを裁きませんし、この部屋であなたが吐露した弱さを、外の誰かに漏らすような真似も絶対にしません」


 『秘密保持』の約束。それは、ミラの心を縛っていた最後の警戒心を解き放つ鍵だった。

 俺の『魂の織り目ソーシャル・ファブリック』の視界で、信じられない現象が起きていた。

 ミラの心臓をぐるぐると縛り付けていた真っ黒な自己否定の糸が、彼女が涙を流して言葉を吐き出すたびに、ポロポロと解れていく。

 対するバイステックから伸びているのは、学生のような暴力的で強引な糸ではない。極めて冷静で、的確に相手の心の温度に合わせた、しなやかな『無色の糸』だった。

 彼はミラの悲しみを受け止めながらも、決して自分自身がその悲しみに溺れて取り乱すことはない(『統制された情緒的関与』)。そして、ミラを「よくいる薬物依存のケースの一つ」としてではなく、彼女だけの固有の痛みを持った唯一無二の個人として尊重している(『個別化』)。


「……どうすれば、いいんですか。私は、もう自分がわからない……」


 涙を枯らし、静かになったミラが、すがるような視線を向けた。

 ここで「こうしなさい」と指示を出せば、学生と同じ失敗を繰り返すことになる。だが、バイステックは静かに微笑んだ。


「どう生きたいのか。それを決めるのは、私ではありません。ミラさん、あなた自身です。私は、あなたが自分自身の足で歩き出すための地図を一緒に広げることはできますが、行き先を決める権利は、あなたの中にしかないのです」


 『自己決定』。

 対象者自身に選択させ、決定させることでしか、真の自立は果たせない。

 バイステックの七つの原則。それがすべて完璧な調和をもって、ミラの魂に響き渡った。

 俺の視界で、バイステックの無色の糸と、ミラの解れた糸が、極めて美しく、弾力性のある橋のように結びついた。これこそが、本物の『援助関係』だ。支援者のエゴではない、対象者の回復を促すための、最も科学的で、最も芸術的な魂の交流。


「……ミラさんは、疲れて眠ってしまいました。しばらく休ませてあげましょう」


 面談室から出てきたバイステックは、呆然としている学生と俺に向かって、静かにそう告げた。


「あの……神父様。私は、間違っていたのでしょうか。彼女を正しい道へ導きたいという気持ちに、嘘はなかったのですが」


 学生が、悔しそうに唇を噛み締めながら尋ねた。

 バイステックは優しく目を細め、首を横に振った。


「君の善意は尊いものです。しかし、我々は対象者の『問題』ではなく、『問題を持った人間』に寄り添わなければならない。君たちのような熱意ある若者が、自らの火で対象者を焼き尽くしてしまわないよう、私は七つの『戒律』を伝えたいと思っています」


 バイステックは、俺の目を真っ直ぐに見据えた。


「君には、私と彼女の間に結ばれた糸の動きが、視えていたようですね」

「ええ。……個別化、意図的な感情表出、統制された情緒的関与、受容、非審判的態度、自己決定、秘密保持。相手の心理的欲求に応えるための、見事な七つのプロセスでした」


 俺が前世の記憶のままにそう列挙すると、バイステックはわずかに目を丸くした後、愉快そうに喉の奥で笑った。


「素晴らしい。その言葉、私の戒律としてそのまま使わせてもらいましょう。……どうやらこの館には、私が教えを乞うべき先達がまだまだいるようだ」


 メアリーのケースワークが『理論』を構築し、バイステックの七原則が『援助者の精神』を確立した。

 巨大な制度(ベヴァリッジ報告)の歯車を回すのは、紛れもなくこうした血の通った『関係性』だ。社会福祉士の歴史の最深部を形作るピースが、また一つ、ハル・ハウスに刻み込まれたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ