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《完結》魂の織り目《ソーシャル・ファブリック》 〜剣と魔法が救えなかった世界を「制度」で救う物語〜  作者: ひより那


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第10話 白き繭と普遍の日常

 ハル・ハウスが灰燼街キーファの希望の城として機能し始めてから、半年が経過していた。

 ベヴァリッジ卿が王都の貴族院で『包括的社会保障計画』の法制化に向けて激しい論戦を繰り広げている間、現場であるこの館は、驚くべき速さで充実の度合いを深めていた。

 清潔なベッド、三度の温かい食事、グレイス・コイルのグループワークによる孤児たちの精神的な安定。王都で弾き出された傷痍軍人や、魔力汚染による重い後遺症を抱えた者たちにとって、ハル・ハウスはまさに地上の楽園と言えた。


 だが、その日。俺が中庭を横切ろうとした時、異能『魂の織り目ソーシャル・ファブリック』の視界が、警鐘のように不吉な景色を映し出した。


「……なんだ、これは」


 色彩が消え失せた視界。

 ハル・ハウスに集う数百人の住人たちからは、穏やかな緑色の糸が伸び、互いを支え合う美しい連帯の環を形成している。だが、その巨大な環の『外側』――すなわち、王都や外部の社会と繋がるはずの糸が、何かに遮られるようにすべて途絶えていたのだ。

 代わりに、ハル・ハウス全体をすっぽりと覆い尽くすように、極めて分厚く、真っ白な『壁』のような糸の膜が形成されていた。

 まるで、巨大な『繭』だ。内部は温かく、安全で、絶対に傷つかない。しかしその繭は、中の人間が外の世界へ羽ばたくことを許さず、社会との繋がりを完全に断ち切る絶対的な隔離空間として硬化し始めていた。


「素晴らしい施設ですね。まさに、汚れなき聖域だ」


 背後から、皮肉めいた拍手の音が響いた。

 振り返ると、そこに立っていたのは見慣れない男だった。灰色の厚手のコートを羽織り、ひどく痩せこけてはいるが、その双眸そうぼうは極寒の地の氷のように青く、そして鋭い。


「あなたは……?」

「私はニールス。北方の国から来た、しがない視察官です。ニールス・エリック・バンク=ミケルセンとお呼びください」


 バンク・ミケルセン。

 その名を聞いた瞬間、俺の脳裏に雷に打たれたような衝撃が走った。

 前世の歴史において、社会福祉のあり方を根本から覆した最大の理念『ノーマライゼーション』の生みの親。知的障害を持つ親の会と共に立ち上がり、彼らを山奥の巨大施設に隔離していた非人間的な政策を打破した、デンマークの伝説的な行政官だ。


「ミケルセン視察官。……このハル・ハウスの視察に来られたのですか」

「ええ。王都の行政局が、この施設に多額の追加予算をつけるという通達を出したと聞きましてね。ウォルポールという査定官が、こう豪語していたそうです。『王都の美観を損ねる薄汚い浮浪者や、五体不満足の障害者は、すべてあの巨大な館に押し込めてしまえばいい。隔離こそが最高の保護だ』と」


 俺は息を呑んだ。

 ウォルポールの思惑と、俺の眼に視えた『白い繭』の正体が完全に結びついた。

 行政は、ハル・ハウスの福祉的価値を認めたわけではない。「臭いものに蓋をする」ための巨大な隔離施設(コロニー)として、この場所を利用しようとしているのだ。


「そして、問題は行政だけではありません」


 ミケルセンは、中庭の陽だまりで車椅子に座り、ただ空を眺めているグゼルたち老兵の姿を悲しげに見つめた。


「彼ら自身もまた、この心地よい『檻』の中に留まることを望み始めている。外の冷たい視線や、不便な街の段差に苦しむくらいなら、自分たちと同じ傷を負った者たちだけで固まり、死ぬまでここで飼われる方が幸せだと。……そうではありませんか?」


 彼の言葉は、あまりにも鋭く、そして残酷なまでに的を射ていた。

 傷ついた彼らを癒やすために設立されたハル・ハウスが、いつの間にか彼らを社会から切り離す「巨大な収容所」へと変質し始めている。


「……だが、外の社会は彼らにとってあまりにも過酷です。救貧法の差別意識が完全に消えたわけでもなく、バリアフリーという概念すらないこの世界で、彼らを街に放り出せば、再び傷つくだけだ」


 俺の反論に対し、ミケルセンはコートのポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりと首を横に振った。


「トール君、と言いましたね。……私はかつて、理不尽な戦争によって強制収容所に囚われた経験があります」


 史実における彼の過去。ゲシュタポによる強制収容所での体験が、彼の思想の原点だったはずだ。


「収容所には、自由がありません。いつ起きるか、何を食べるか、誰と会うか。すべてが管理され、社会の営みから完全に切り離される。たとえそれが、鞭打たれる強制収容所であろうと、三食が保証されたこの美しいハル・ハウスであろうと……社会から隔離され、普通ノーマルの生活のサイクルを奪われるということは、人間にとって『社会的死』を意味するのです」

「社会的、死……」

「障害があるから、貧しいからといって、特別な場所に隔離されるべきではない。どんな状態にあろうとも、朝起きて街へ行き、働き、愛する人と同じ場所で余暇を過ごす。誰もが当たり前に享受している『普通の(ノーマルな)生活』を送る権利がある」


 ミケルセンの瞳に、静かだが激しい炎が宿った。


「彼らをこの城に隔離するのではなく、彼らが街で普通に暮らせるように、外の社会の環境を変える。街の段差をなくし、偏見を取り除き、支援を家庭や地域に届ける。それこそが、真の福祉……『ノーマライゼーション』です」


 ノーマライゼーション。

 障害者を普通にするのではなく、障害者が障害を持ったまま、普通に暮らせる社会を作る理念。

 俺の異能『魂の織り目ソーシャル・ファブリック』の視界が、大きく揺らいだ。

 ハル・ハウスを覆っていた分厚い『白い繭』が、ミケルセンの言葉という鋭い刃によって切り裂かれていく。そして、その裂け目から、ハル・ハウスの住人たちの糸が、再び外の世界――灰燼街や王都の一般市民たちへと向かって、不器用ながらも力強く伸びようとし始めたのだ。


「……あなたの仰る通りだ。ミケルセン視察官」


 俺の後ろから、ジェーン・アダムスとメアリー・リッチモンドが歩み出てきた。

 ジェーンの表情には、深い自戒の念が浮かんでいる。


「私たちは、彼らを守ることに必死になるあまり、彼らから『社会の中で生きる権利』を奪おうとしていた。ハル・ハウスは彼らを一生閉じ込める終の棲家ではなく、社会へ戻るための『橋』でなければならないのに」

「気付いたのなら、まだ間に合います、アダムス女史」


 ミケルセンは、わずかに口角を上げて微笑んだ。


「王都の役人が企む隔離政策(コロニー化)を、徹底的に粉砕しましょう。彼らを施設に集めるのではなく、彼らが地域社会のただ中で生活するための支援制度。それを法制化させるのです。幸い、王都には制度設計の天才(ベヴァリッジ)が乗り込んでいると聞きます。彼に、この『ノーマライゼーション』の理念を組み込むよう、私からも働きかけましょう」


 それは、社会福祉の歴史における最大の転換点、「施設から地域へ」という脱施設化の号砲だった。

 メアリーが個人の痛みをすくい上げ、サミュエルが地域の連帯を作り、ジェーンが集団の力を社会へ向け、バイステックが支援の心を説いた。そして今、ミケルセンによって「すべての人々が、同じ社会で普通に暮らす」という究極の目標が設定されたのだ。


「トール君」


 ミケルセンが、俺の肩を軽く叩いた。


「君の眼に視える糸が、このハル・ハウスの中だけで完結するのではなく、世界中の人々と複雑に、そして美しく交じり合う日まで。私たちの戦いは終わらないのですよ」


 見上げれば、ハル・ハウスの尖塔の向こうに、長きにわたってこの街を覆っていた鈍色の雲の切れ間が見えた。

 そこから差し込む一筋の光が、中庭に座るグゼルの車椅子や、駆け回る孤児たちの影を、王都へと続く道に向かって真っ直ぐに伸ばしていた。

 誰もが、当たり前にそこで生きる。その『普遍の日常』を創り出すための戦いは、新たなフェーズへと足を踏み入れたのだった。


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