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私の心は金の波  作者: 日野真春
番外編2-昔話と後日談ー
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順序がずれたため、割り込み投稿をしています。

 


 項垂れた背中が扉の向こうに消えると、部屋の中が暗くなった気がして、馬鹿ね、と一人こぼした。ジルを拒絶するのはとても簡単だ。彼は素直で、不思議と心が通じることがあって、アンの微笑の違いを見分けていた。帰ってほしいと口にすれば、当然逆らわない。


 分かっていたはずだった。貴族としての自分でなければならないことも、いずれ首都に戻ることも。心の向くままに、ジルと家族になれば、掴みかけている研究者としての未来はないことも。

 学会は、社交界とは別とはいえ、大部分を担うのは継嗣ではない貴族の男性で、平民上がりの者も少なくはないが、いずれは多数派に飲まれていくことが多い。ゆえに、女性であればどこかで常に貞淑であれという風潮がある。理解ある夫を得るか、結婚をしないのなら学院で、生涯過ごすことになるのだ。


 片づけをする暇はなかったせいで、カップもティポットもそのままだ。いつもなら、手際よくジルが片づけていく。茶かすの残った食器を、ひとまず水の張ったたらいに沈め、テーブルに戻った。


 足が痛かった。痛みに手を当てれば、治りかけたはずなのに熱を帯びている。ここ数日は無理せず、庭と畑の作業はノーラやサリー――ジルの姉――に任せていた。どれだけ、自分は立ち尽くしていたのだろうと、自嘲の念が浮かんだ。


 痛かったのは、足ではなかった。

 ジルの中に、アンがいなかった。彼にとってアンは、手ずから囲って育てる草木でなく、遠くから眺める美しい花――なんとも的確に、二人の関係を表していた。突きつけられた事実に、痛みを覚えるより、すべてが消えて真っ白になっていた。


「……馬鹿ね」


 アンの心が変わったところで、ジルには何の影響もない。当然のことであり、いきなり泣き出したアンにジルがうろたえるのも、分からないと訴えるのもそうだ。

 自分の恋と夢を天秤に乗せるよりも前に――彼にとっては、自分は『薬草師』のままである事実に、打ちのめされた。


 温室に訪れて、植物の名前や特色を尋ねられて本を片手に調べたアンを、心の底から褒め称えたジルは、小さなお嬢様が読書にふける横で、感心と尊敬のまなざしを向けていたときと同じ目をしていた。

 今日まで、ずっと変わらない。


 ノーラもサリーも、いつの間にかアンを村の『薬草師』として扱い、定着していた。村に馴染んだともいえるが、どこかで彼らと同列ではなかった。

 それは染みついた言動や価値観のせいだと察するものがあった。人にものを頼むことに抵抗がないのも、断られることに不慣れなことも、貴族として育ったアンには身にしみこんで変わりようがなかった。


 野ばらには、触れてはならない。離れた場所で、そっと見守るもの。


 まさしく、ジルがアンへ接する時と同じだった。

 ならば変化を求めてジルに伝えればと考えて……アンにはまだ、研究を捨てる決心ができない。


 結局、自分の首を己で絞めているだけだ。


 ジルの言葉通り、別れを告げて首都へ戻れば、アンが望んだ未来にまっすぐに進める。むしろ、両親に居場所が暴露された以上、この村にとどまれば強引に連れ戻される可能性さえある。その先は、きっと今以上にアンにとって暗い場所だ。

 けれど、過去に切望した未来は、今の痛みを和らげるどころかいっそう強くして、アンをこの場所に縫い留める。


 ばかね、というつぶやきに、嗚咽が混じった。止まった雫がまた落ちてきて、テーブルの上に沁みを作る。


 バタバタ、と外から音がした。窓を、大粒の雨粒が叩く音だ。

 薄暗い部屋の中で、ざあざあと振り続ける雨が、アンの気持ちを一層押し込めた。うつむいたまま、しばらく驟雨に耳を傾ける。


「――」


 閉じ込められた一室の中は、牢獄じみていて笑えない。自由になれない、ならないことが多すぎた。

 しばらくしてから、止む気配のないことに押されて、立ち上がった。ぴかり、と光ったのは、遠雷だ。落ちる距離ではないだろうが、雨戸を閉めておくに越したことはない。


 タオルを用意して、窓を開けた途端に、絶句した。


「――ジル!」

「へ?」


 ずぶぬれになったジルは、泥にまみれてひどいありさまだった。まさか倒れたのかと、慌てて外に出て横に膝をつく。


「とにかく、家に入って」


 雨の中では診察もままならないと、腕を取ったが、ジルは動かなかった。よほど重症なのかと顔をのぞき込んで、ぎょっとする。

 目が、腫れあがっていた。アンもまぶたが重いが、ジルほどではない。おそらく泣いた後、手に土がついたまま擦ったのだろう、と想像がついた。


「ずっと、ここにいたのですか」

「ああ……すんません」


 一人で帰りますから、とジルが言う。だがまるきり動きそうにない。つい、すべて忘れて呆れたため息をこぼしていた。


「その顔ではほとんど前が見えないでしょう。無理ですよ」

「いやでも……今日は帰らないと」

「何を愚かな。事情が変わっています。あなたは今けが人です」


 少々違うが、きっぱりと断言するとジルが悄然と肩を落とした。さあ、と伸ばした手は、今度こそ力強く握り返された。


 玄関で怪我の有無を確認し、ざっと水分を拭き取った。上着だけは脱いでもらい、たらいと漏斗で、目の洗浄をする。あいにくと目薬はない。作るにはハーブを煮出すところから始める必要があるため、先にお湯を沸かして清潔なタオルを用意し、体を拭くように言いつける。


 もちろん、男物の着替えもない。仕方ないので毛布を渡し、衣服は手洗いすることにした。残念ながら、綺麗に元通りになるとは到底思えなかった。


 バタバタと駆け回るうちに、いろんなことが吹き飛んだ。昼間と同じ椅子に座って小さくなっているジルは大きな子供だ。

 最後に作った目薬で再度洗浄し、まぶたに冷たいタオルを置く。


 ここまでだと思ったとたん、どっと疲れが押し寄せた。椅子に座り込んで、机に肘をついて指先を額に当てる。頭痛はしないが、眉間をほぐさないと、怖いと言われそうな気がした。


 雨はとっくに上がって、外は夜の闇に包まれていた。


 薬草師様、と弱弱しく呼ばれて、とっさに泣かないでくださいね、と釘をさしていた。はい、と素直だが、消えそうな返事が来る。


「これ、外しても……」

「どうぞ。ぬるければ替えてきます」


 支えの手を外してから、ジルがまぶたを開く。腫れはそれなりに引いたが、白目は真っ赤に充血したままだ。しばらくは辛いだろう。


「すんません、こんな、つもりじゃ……なくて」

「いえ……」


 迷惑をかけたと身を縮めるジル。アンとて、ジルが帰る心づもりであったことを疑ってはいない。ただ、時折意思と体が一致しないことも、よく知っていた。そんな時は、問いかけてもすぐには答えが出ないことも。

 黙って待っていると、どうしても昼過ぎの一件がよみがえってくる。気まずさを顔に出さないよう、あえて立ち上がって洗濯済みのシャツを手に取った。火のある暖炉の前に干したそれは、着られる程度には乾いていたため、毛布と引き換えに着替えを促す。


 腕を袖に通しながらも、ジルの目は半分閉じて考え続けていた。

 椅子に座り込んでから、分からねえんで、とようよう絞り出す。


「何が、でしょう」

「一番いい方法です」


 素早い答えだった。おそらくは家の外で、ずっと考えていたのだろう。


「一番いい方法?」

「ええ……」


 泣かないように、と言ったのに、今のジルはどう見ても半泣きだった。


「薬草師様が、笑っていられる方法です」

「……」


 首都に帰れといったのはジルだった。結婚するとほのめかされて、泣きそうになったのもジルだ。流れた涙に、硬直するしかなかったのもジル。


 俺はなんも出来ねえんで、とつぶやく。


「恩返しだって、何でもするって言ったところで……文字やらお茶やら、新しい花の名前だって、喧嘩しちゃいけねえことだって教わってばっかでさ……頭はよくねえし、薬草師様のご実家の事も知らねえ。だけどさっき、これだけは分かったんでさ」


 両手を見ながら、ジルが項垂れる。汚れこそ落としたが、細かな傷や固い皮膚に覆われた手のひら。この手は、細い茎を手折らないよう、力の加減を学んできた。


 だから、もう一度。


「俺は、あんたに泣かれるのが一等辛い」

「……」

「だから、教えてほしいんでさ」


 薬草師様、とジルがアンを見上げる。見上げる、と錯覚するようなすがる視線だった。


「俺は……どうすれば、あんたに一等いいことができますでしょうか」

「……」


 青と茶色の視線がぶつかって、どちらもそのまま動けなくなった。


 眩暈がした。アンにとって都合の良い夢であり、悪夢であるような言葉だ。

 このまま縋り付いてしまえば、きっとジルはアンの望み通り、その両手を差しのべるだろう。

 ああでも、と自分の中の声が体を縛った。

 アンの中にさえ答えがないのに、衝動で動くことを自分自身が許さない。両手をそっと組んで、戒めた。


 私も、と震えないように注意しながら口を開く。


「あなたの一番いいようにしたいのですよ、ジル」


 精一杯の虚勢と真実を混ぜた答えに、目を瞬いてから、なんだ、とジルが肩の力を抜いて笑み崩れた。


「そりゃ簡単でさぁ。あんたが笑っていてさえくれりゃいいんですよって」

「……ジル、分かっていますか?」


 恥ずかしさで、アンの顔に熱が集まった。ジルが鈍くて助かっている。

 はい? と不思議そうに首をかしげるこの男には、迂遠な質問は通じない。アンはそれでも一時躊躇ってから、口を開いた。


「あなたの口ぶりはまるきり、私への告白のようです」

「……」

「勘違いなら謝りますが」

「……」


 ひどく事務的な――平静を保とうとした結果である――アンへの反応は、見事な百面相だった。困惑を浮かべつつ、耳の端は赤い。すぐに、くしゃりと顔をゆがめて、半笑いになった。けれど、付き合いの長いアンには、泣き顔に近いように感じた。自分とはひどく対照的だ。


「ああ……そうだ。まったく、その通りで」


 ええほんとに、とジルが一人こぼす。


「ジル」


 複雑に入り混じった感情のままに呼ぶと、すんません、と消えそうな声を絞り出した。


「……別段、無理にこじつけなくとも」

「そうじゃねえんです」


 ゆるゆると首を振る。


「あんたがいるときは、花の事よりあんたが先だもんな」

「――」


 花々や草木を助けて、美しく育て咲かすのがジルの役目。けれどアンに両手を差し伸べたところで、さほど役に立ちはしない。むしろ、ままならない感情のせいで、一度は加減を間違えた。

 自覚したのは、衝動を抑えきれなかったあの時。自分は単純だから、体は正直だ。けれどもっと前から、見ない振りをしていた気がする。


 認めてしまうことは、恐ろしかった。

 心が動くと、体は途端に制御を失った。

 傷つけてしまいそうで、距離を取りたくなるのに、足はいっかな動かない。


 今もまた、がたりと立ち上がってアンの前に立っていた。


 アンの茶色い瞳の前で、触れないように手を伸ばす。


 無骨な指が、躊躇いながらゆっくりと動く。その手に、同じくらいゆっくりと、アンの白くて細い伸びて――



 荒々しいノック音に、弾かれた。


 こぶしで木の扉を三度。その後に続いた静かな声に、アンの背筋が凍り付いた。


「――そこにいるのは分かっている、アン・スティリー」





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