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まくり上げた袖からは、太い腕が伸びていて、腕も手も、服も土の色が付いている。黒い髪はくしゃくしゃに跳ねてまとまりがない。日に焼けた顔は、今はただ驚いて固まっている。
オリヴィアの方も、とても驚いた。なぜなら、まるで数年前の記憶そのままの姿で、同じ庭にいたのだから。
彼はいつも、作業に夢中になると汚れも疲れも無視して花や木々に夢中になった。暗い中でも作業がしやすいように、特注のカンテラさえ作ったほどだ。
「ジル?」
「あ……?」
名前を呼べば、きょろきょろとあたりを見回して、己を指さした。オリヴィアは間違ったかと記憶を探るが、優秀な頭脳はきちんと彼の名前を憶えていた。
「あなた、ジルでしょう? 庭師のジル」
「は、あ。はい……」
「久しぶりねって言って……わかるかしら?」
彼はもう大人だったから、変わった所はない。数年の時間で、年を重ねたという印象もない。本当にそのままだ。けれど、自分は彼に十五の時から会っていない。背が伸びたのはほんの少しだが、成長のせいで幼いオリヴィアと結びつかないのか、もしくは忘れられてしまったのかと、心配になった。
だが、恐る恐ると言った口ぶりで、オリヴィア、お嬢さん、と呼ばれて、嬉しくなった。
「ええ、オリヴィアよ」
「はあ……あ、すいません。こんな格好で」
「大丈夫。前と変わらないわ」
「へえ……あ、そうですかね」
どうもまだ飲み込めていないのか、ジルの反応は鈍い。手に付いた土をズボンでこすってはいけないと、何度も注意されていたが、まだ癖は直っていないようだ。
「その、お嬢さん、なんですよね?」
「ええ」
「あの……消えていなくなったりはしませんよね」
「もちろんしないわ」
「夢だとか、実は妖精だったりしませんかね」
よく分からないが、こうして妖精だと呼ばれたのは二度目だ。昼前のこの時間で、ジルが酔っている様子もない。至極生真面目なのだが、思わずオリヴィアは微笑んでしまった。
「なんなら、手を握ってみる?」
右手を差し出せば、またしても目が丸くなった。だが、今度は意を決した顔で、そっと大きな手が、オリヴィアの右手を握る。最初は、指先を、次は、両手で包まれた。脆い細工物を扱うように、繊細な触れ方だ。
「お嬢さん、あんた……」
ふいに、ぽたり、と雫が落ちてきた。唐突な雨、ではなかった。空は見事に晴れている。涙だと悟って、オリヴィアはジルを見上げた。
「ジル……?」
「あんた、笑えるようになったんだな」
「――」
笑いながら泣くジルに、オリヴィアは虚を突かれた。笑えるようになった、なんて――つまり、昔は。
記憶を探っても、どんなに細かな場面でも、彼らの前でさえ――自分は笑顔を浮かべたことがないと、ひどく今更に気が付いた。
表情が動かないのは、昔からだと思っていた。でも、今は違うのだと――目の前のジルに教わって、心がざわめいた。
透明な雫は、止まることなく地面に染みを作る。オリヴィアは持っていた手巾を取り出して、ジルの目元に当てた。すんません、と謝りながら、へへ、とジルが笑う。
強引に袖で拭おうとするから、土がついているから駄目だとなだめて、渡した手巾を再度押し付ける。背の高いジルは、わざわざ屈みこんで言われるがままに大人しくしていた。
まるで、大きな子供だ。こんな人だったかしら、と考えて……かつて、踏み込まないように保っていた距離がないのだと思い知って、動揺した。
自分はいつの間にか、過去の慎重さを失くしていたのだ。
ぐらりと揺れたのは、地面か、自分か。
おっと、と小さな声とともに、たくましい腕がオリヴィアを受け止める。見上げれば、心配を顔いっぱいに浮かべたジルがいた。目元が赤いのに、もう子供っぽさはどこにもない。
「歩きすぎましたかい? なんなら、人を呼んできますが」
「いいえ。大丈夫」
「すぐそこに、ベンチがありますから、一旦お座りになってはどうです?」
強く固辞するのは気が引けてオリヴィアは案内のままにベンチに座った。すぐそばに、井戸はあるけど容れ物が無い、と狼狽えるジルに、いいから隣に座って欲しいと半ば強引に腰掛けさせた。
ようやく、ここで彼本来の、底抜けの明るさが戻ってきた。
シシリーあたりがいれば、無遠慮だとはたかれそうなほど、上から下までオリヴィアをじっと見てから、ぱっと破顔する。
「いやあ……さっきから思っとったんですが」
「なにかしら」
「えらい別嬪になりましたなあ、お嬢さん」
「え、あ……ありが」
「今日はお庭を見にいらしたんで? 旦那様、あ、サイラス様ですよって、にお会いになったんでしょう? てっきりお二人でいらっしゃるかとばかり……お一人だと、余計に人には見えませんな。前は怖い顔した天使様のようでしたけど」
「……」
「お小さいお嬢さんがあんまり賢いんで、俺はもうびっくりでしたよ。俺がガキの頃にゃ字も書けねえ、喧嘩ばかりで、本なんざ開いたこともねえのに、お嬢さんときたら晴れても雨降っても読書読書、時々お出かけ、ってなもんでしたし。今は何をお読みですかい」
「その、スティリー女史の『博学史論』を」
「あ、聞いても分からんのでした」
はは、とジルが笑う。
返事に困って、オリヴィアは瞬いた。他意は全くないのだろうが、声が大きいのと、どんどん出てくる言葉に圧倒されるしかない。そのうち、今日もいい天気ですね、から見頃の花、育てる苦労話、と聞き役に徹するうちに……ジルの腹の虫が、昼時を告げた。
照れた様子もなく、昼ですな、とジルがバスケットを持ってくる。
いきなり始まってしまった昼食に、さすがに拙いのではないかと遮ろうとした時、あ、とジルが遠くを見て手を振った。
「旦那様! いいとこにいらした!」
どきり、とオリヴィアの心臓が跳ねた。ゆっくりと振り返って……サイラスが一人であることにほっとしたのもつかの間――あの、社交用の仮面を張り付けていることに、体が固くなった。




