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オリヴィアと二人の使用人の間には、暗黙の内に不文律があった。
一つ、ウィルコットの家族の話はしないこと。
一つ、ウィルコットの領地の話はしないこと。
一つ、ウィルコットの政治の話はしないこと。
最後が、オリヴィアがそっと一つの窓を見上げることに、気づかないふりをすること。
張り詰めた空気と、壁一枚を隔てた向こうで起こる事柄とに、薄膜を張るための不文律だった。
脆く、儚く、いつか壊れることが見え透いていながら、決して誰も口にしない。
楽園と呼ぶにはあまりにもささやかで、他愛ない日常。
それは、オリヴィアの所有する小さな村で、小麦の研究が始まってからも変わらず、事務的な時以外に公爵家の名は一切出ないまま、二年の月日が経った。
扉を開けた先で、机にうつ伏す男に、部屋に入ってきた人物は苦笑した。
春を迎えた日々は、とても忙しい。新芽の季節でもあるし、丹精込めた草花を荒らす虫たちが這いだす季節でもある。小麦についての作業も増える。一日中熱心にあちこちで働きまわった男が、疲れ切って眠りこけている――のではない。
がちゃりとあえて音を立てて扉を閉めれば、起き上がった相手は、目をはらしていた。
「……男前が台無しですよ、庭師殿」
「薬草師様……だって、だってよう」
ぐす、と鼻をすする。畳んだ手巾を差し出せば、ぐいぐいと顔をこすった。
「あんまりじゃねえですか。お嬢さんの育てた麦が……お国に持ってかれちまうなんて」
「仕方ありません。旦那様のお決めになったことですよ」
「それにしたって、七日後には、なんてえれえ急な話だ。お嬢さんもびっくりなさっていたじゃあないですか」
あんなに毎日頑張ってらしたのに、とまた泣き出してしまう。真っ直ぐ過ぎて、苦笑するよりなかった。
全て的を射ているが、さほど悪い事態ではないと薬草師は読んでいた。むしろ、事業を拡大するにあたり、ウィルコットの名のもとだけに置かれるよりは、ましである。
だが、男が泣いているのはそんな小難しい理由ではない。ひとえに、お嬢様の頑張りが横取りされてしまった、という、ただそれだけだ。
ならば、自分はとても良い話を持ってきたことになる。
「そう泣かなくても、お嬢様はこれからもずっと研究をお続けになります」
「へ?」
「委託先である学院へのご入学がお決まりになりましたから。きっと、あちらでも素晴らしい成果を上げてくださいますよ」
「……」
ぽかん、としたまま飲み込めないでいる男に、もう一度丁寧に事情を説明する。特例として、その能力を請われたオリヴィアが学院の一員になったこと、設立される研究機関への所属が決まっていること。当然、今まで以上に研究に中心となる事。
終われば、ぱっと男が笑顔になった。
「さすがはお嬢さんだ。ええ、ええ。そーでしょうとも。お嬢さんがいなくっちゃ、お話にならないって事ですよ!」
鼻高々に宣言するが、聞いているのは薬草師だけだ。ついさきほどまでの号泣はさっぱり消えてなくなった。赤子のようである。
ぐいぐい、ともう一度顔をぬぐって、男は学院へ持って行ってほしい物をぶつぶつと考え始めた。土や肥料、道具に服。いつ出立するとも告げないのに、気が早い。
手放しで喜ぶ男とは違い、薬草師には明らかに陰りがあった。
「庭師……いえ、ジル」
名前を呼ぶと、はあ、間抜けた返事が来た。面食らった男は、そわそわした気分が吹っ飛んでしまったらしい。それほど、薬草師の声は固かった。
「あなたはまだ……ここで働き続けるおつもりですか?」
「――」
この言葉の裏の意味を取れないほど、ジルは愚かではなかった。しゅん、と目に見えて力をなくして、肩を落とした。
薄膜の上に乗った日常。要であるオリヴィアがいなくなれば、当然、消えてなくなる。彼女のささやかな望みを叶えるのと引き換えに、自分たちが守られていると、嫌というほど見聞きしていた。
ジルは覚えている。この屋敷に花壇を作りに来た時、年かさの職人や世間に通じた者ほど、暗い表情で俯き、何とか逃れようとしていた。手抜きも出来ず、死ぬ気で働いて工期を短くし、さらに一人残れと請われた時には、誰もが頑として首を縦に振らなかった。
親方の目が、一人ずつめぐっていくうちに、自分が最後になるのに気付いた時、ならいいか、と受け入れた。独り身で、家族とはつかず離れず、姉家族が両親のそばにいれば安心だ。自分が例え早死にしたところで、困ることはない。出来るなら仕送りを続けて、楽をさせてやりたかったが、運が悪かったのだと。
ところが蓋を開けてみれば、地獄を見るどころか、大人びた美しい少女に、好きなだけ自由に庭いじりをすればいいと言われ、給料は破格、さらに帰省の際には旅費と手土産もつくという事態。おまけに後からできた仕事仲間は、お嬢さんとよく似た美しく賢い女性で、夢にさえ見たことがない毎日だった。
ただ、どんな花も、新しい季節も、小さな少女を満面の笑みにすることは叶わなかった。主には、決して振り払えない影があった。
「……俺は、どこにも行かれませんで」
「しかし」
「故郷に帰ったって、仕事はねえし、紹介状が無きゃ、この辺でちゃんと働くってわけにはならんですし」
普通は仕事を辞める時にもらえるはずだが、ここの事情は他とは異なる。オリヴィアと公爵の折り合いは、はっきり言ってしまえば良くない。可能性は低かった。
それに、と暗くなった窓の外をジルは見遣った。今日は小麦のある村に泊まり込みで、ここは作業小屋の一つだ。月明かりの下のまだ青い麦は、これからが正念場だった。
「お嬢さんに、俺はまだお別れしたくねえんでさ」
小さな世界に閉じ込められた少女が、飛び出して行った先で笑顔を手に入れてくれればいい。自分の花では叶わなかった事を、誰かが成し遂げてくれるのを、せめて見届けたかった。
たくさんの幸せをくれたお嬢さんに、出来ることがないとしても。
「俺はここに残ります」
「……」
「それに、薬草師様だってお辞めにならんのでしょう?」
平静と変わらない口調と、くしゃりと笑った顔が、決意の固さを表していた。薬草師は、説得の言葉を飲み込むしかなかった。見抜かれた上に、あまりにも普段通りすぎて、勢いを削がれてしまったせいである。
「あなたなら、どこでだってやっていけそうですよ」
「そらお互い様だ。俺はカツカツでいいなら日雇いで、薬草師様は旅医者でも町医者でもなれんでしょうに」
ははは、と声をあげたジルが、そのまま、ふぁあとあくびをする。うん、と伸び上がってそのまま、夜空を見上げた。
やけに明るい夜空には、見事な真円の月があった。
「ああ……月が綺麗だ」
「ええ、全くです」
どんな時でも、変わらない。二年のうちに、随分と背が伸びた少女にも、月が美しく映ればいいと、薬草師は願った。




