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私の心は金の波  作者: 日野真春
番外編2-昔話と後日談ー
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2





 オリヴィアと二人の使用人の間には、暗黙の内に不文律があった。


 一つ、ウィルコットの家族の話はしないこと。

 一つ、ウィルコットの領地の話はしないこと。

 一つ、ウィルコットの政治の話はしないこと。

 最後が、オリヴィアがそっと一つの窓を見上げることに、気づかないふりをすること。


 張り詰めた空気と、壁一枚を隔てた向こうで起こる事柄とに、薄膜を張るための不文律だった。

 脆く、儚く、いつか壊れることが見え透いていながら、決して誰も口にしない。

 楽園と呼ぶにはあまりにもささやかで、他愛ない日常。

 それは、オリヴィアの所有する小さな村で、小麦の研究が始まってからも変わらず、事務的な時以外に公爵家の名は一切出ないまま、二年の月日が経った。


 扉を開けた先で、机にうつ伏す男に、部屋に入ってきた人物は苦笑した。

 春を迎えた日々は、とても忙しい。新芽の季節でもあるし、丹精込めた草花を荒らす虫たちが這いだす季節でもある。小麦についての作業も増える。一日中熱心にあちこちで働きまわった男が、疲れ切って眠りこけている――のではない。


 がちゃりとあえて音を立てて扉を閉めれば、起き上がった相手は、目をはらしていた。


「……男前が台無しですよ、庭師殿」

「薬草師様……だって、だってよう」


 ぐす、と鼻をすする。畳んだ手巾(ハンカチ)を差し出せば、ぐいぐいと顔をこすった。


「あんまりじゃねえですか。お嬢さんの育てた麦が……お国に持ってかれちまうなんて」

「仕方ありません。旦那様のお決めになったことですよ」

「それにしたって、七日後には、なんてえれえ急な話だ。お嬢さんもびっくりなさっていたじゃあないですか」


 あんなに毎日頑張ってらしたのに、とまた泣き出してしまう。真っ直ぐ過ぎて、苦笑するよりなかった。

 全て的を射ているが、さほど悪い事態ではないと薬草師は読んでいた。むしろ、事業を拡大するにあたり、ウィルコットの名のもとだけに置かれるよりは、ましである。

 だが、男が泣いているのはそんな小難しい理由ではない。ひとえに、お嬢様の頑張りが横取りされてしまった、という、ただそれだけだ。

 ならば、自分はとても良い話を持ってきたことになる。


「そう泣かなくても、お嬢様はこれからもずっと研究をお続けになります」

「へ?」

「委託先である学院へのご入学がお決まりになりましたから。きっと、あちらでも素晴らしい成果を上げてくださいますよ」

「……」


 ぽかん、としたまま飲み込めないでいる男に、もう一度丁寧に事情を説明する。特例として、その能力を請われたオリヴィアが学院の一員になったこと、設立される研究機関への所属が決まっていること。当然、今まで以上に研究に中心となる事。


 終われば、ぱっと男が笑顔になった。


「さすがはお嬢さんだ。ええ、ええ。そーでしょうとも。お嬢さんがいなくっちゃ、お話にならないって事ですよ!」


 鼻高々に宣言するが、聞いているのは薬草師だけだ。ついさきほどまでの号泣はさっぱり消えてなくなった。赤子のようである。

 ぐいぐい、ともう一度顔をぬぐって、男は学院へ持って行ってほしい物をぶつぶつと考え始めた。土や肥料、道具に服。いつ出立するとも告げないのに、気が早い。

 手放しで喜ぶ男とは違い、薬草師には明らかに陰りがあった。


「庭師……いえ、ジル」


 名前を呼ぶと、はあ、間抜けた返事が来た。面食らった男は、そわそわした気分が吹っ飛んでしまったらしい。それほど、薬草師の声は固かった。


「あなたはまだ……ここで働き続けるおつもりですか?」

「――」


 この言葉の裏の意味を取れないほど、ジルは愚かではなかった。しゅん、と目に見えて力をなくして、肩を落とした。


 薄膜の上に乗った日常。要であるオリヴィアがいなくなれば、当然、消えてなくなる。彼女のささやかな望みを叶えるのと引き換えに、自分たちが守られていると、嫌というほど見聞きしていた。


 ジルは覚えている。この屋敷に花壇を作りに来た時、年かさの職人や世間に通じた者ほど、暗い表情で俯き、何とか逃れようとしていた。手抜きも出来ず、死ぬ気で働いて工期を短くし、さらに一人残れと請われた時には、誰もが頑として首を縦に振らなかった。

 親方の目が、一人ずつめぐっていくうちに、自分が最後になるのに気付いた時、ならいいか、と受け入れた。独り身で、家族とはつかず離れず、姉家族が両親のそばにいれば安心だ。自分が例え早死にしたところで、困ることはない。出来るなら仕送りを続けて、楽をさせてやりたかったが、運が悪かったのだと。


 ところが蓋を開けてみれば、地獄を見るどころか、大人びた美しい少女に、好きなだけ自由に庭いじりをすればいいと言われ、給料は破格、さらに帰省の際には旅費と手土産もつくという事態。おまけに後からできた仕事仲間は、お嬢さんとよく似た美しく賢い女性で、夢にさえ見たことがない毎日だった。


 ただ、どんな花も、新しい季節も、小さな少女を満面の笑みにすることは叶わなかった。主には、決して振り払えない影があった。


「……俺は、どこにも行かれませんで」

「しかし」

「故郷に帰ったって、仕事はねえし、紹介状が無きゃ、この辺でちゃんと働くってわけにはならんですし」


 普通は仕事を辞める時にもらえるはずだが、ここの事情は他とは異なる。オリヴィアと公爵の折り合いは、はっきり言ってしまえば良くない。可能性は低かった。


 それに、と暗くなった窓の外をジルは見遣った。今日は小麦のある村に泊まり込みで、ここは作業小屋の一つだ。月明かりの下のまだ青い麦は、これからが正念場だった。


「お嬢さんに、俺はまだお別れしたくねえんでさ」


 小さな世界に閉じ込められた少女が、飛び出して行った先で笑顔を手に入れてくれればいい。自分の花では叶わなかった事を、誰かが成し遂げてくれるのを、せめて見届けたかった。


 たくさんの幸せをくれたお嬢さんに、出来ることがないとしても。


「俺はここに残ります」

「……」

「それに、薬草師様だってお辞めにならんのでしょう?」


 平静と変わらない口調と、くしゃりと笑った顔が、決意の固さを表していた。薬草師は、説得の言葉を飲み込むしかなかった。見抜かれた上に、あまりにも普段通りすぎて、勢いを削がれてしまったせいである。


「あなたなら、どこでだってやっていけそうですよ」

「そらお互い様だ。俺はカツカツでいいなら日雇いで、薬草師様は旅医者でも町医者でもなれんでしょうに」


 ははは、と声をあげたジルが、そのまま、ふぁあとあくびをする。うん、と伸び上がってそのまま、夜空を見上げた。


 やけに明るい夜空には、見事な真円の月があった。


「ああ……月が綺麗だ」

「ええ、全くです」


 どんな時でも、変わらない。二年のうちに、随分と背が伸びた少女にも、月が美しく映ればいいと、薬草師は願った。






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