第70話 相互透明性協定
帝国からの正式回答が届いたのは、期限の当日、朝のうちだった。
『条件付きで相互透明性協定を受諾』
会合室に、静かな緊張が走る。封を切ったのはアルノーで、切ってから一度、エリシアのほうを見た。
条文は慎重だった。主要三産業の依存率の公開、港湾収支の四半期報告、中規模団体の資本耐性の統計共有、緊急時開示の相互同意制。どの条項にも、期限と主語が書いてある。書いてあるということは、書かせた側が一度は疑ったということだ。
そして、五つ目。任意支出の一覧と、その見直し履歴。遅延公開の対象から外す、と但し書きがついている。
完全公開ではない。だが、片側だけでもない。片側だけでない状態には、まだ名前が付いていなかった。
「対称です」
ヴァルドが確認する。確認する声が、報告のときより少し高い。
「ええ」
エリシアは静かに頷いた。対称、という言葉を口に出したのは向こうが先だった。それでよかった。
共同管理案は、この協定と同時発効が条件となった。つまり、一方的な侵食はできない。帝国も、自らの構造を晒す。
王宮での調印式には、レオンハルトとイグナーツが並んだ。式は短く、参列は最小限だった。設計にあたった者の席は用意されていない。用意しないでほしいと、事前に一通だけ、宛名のない申し入れが回っている。誰が回したかは、王宮の誰も確かめなかった。
「透明性は、理想ではない」
王子が言う。
「均衡装置だ」
イグナーツが応じた。均衡、という言葉を、この日は否定しなかった。
「均衡は、抑止になる」
署名が交わされる。筆が止まった瞬間、港の鐘が鳴った。刻限どおりの鐘で、調印のために鳴らしたものではない。
その日の午後、ハルフェンでは初回の任意支出一覧が記録板に掲示された。掲示の作業そのものは、半日で終わった。集めるほうに、三週間かかっている。
王国側、十四項目。帝国側、十一項目。
両国とも、過去一年ぶんの見直し履歴の欄は、ほとんどが空白だった。空白の理由の欄には、どちらも同じことが書いてある。決裁を要しないため記録なし。同じ文言が二か国ぶん並ぶと、言い訳ではなく構造に見える。
「これでは、意味がありませんね」
ヴァルドが言う。掲示したばかりの欄を、彼はもう一度上から下まで読み直している。
「今年は、そうです」
エリシアは答えた。意味がない、という言い方を否定しなかった。今年は本当に意味がない。
「来年から、空白でなくなります」
彼女は南部第二港の行を探した。十四項目のうち、上から九番目にある。港湾再教育枠、当期分、見送り。理由の欄に、資金繰りのため、と一行だけ入っていた。
一行だけだが、去年にはなかった一行だった。書いた人間は、たぶん十分もかけていない。
夕刻、イグナーツが会合室に立ち寄った。帰国の前だという。外套を腕にかけたままで、椅子には座らなかった。
「五つ目は、こちらが折れた形になりました」
「そうでしょうか」
「そうです」
彼は言った。
「ですが、あの欄は、我が国の内側でも使えます。使えるものを持ち帰るのは、負けではありません」
「では、勝ちですか」
「いいえ」
イグナーツは首を振った。
「勝ち負けの欄は、あの様式にありません」
彼は一礼して出ていった。帰国の荷は、来たときと同じ大きさだった。
その夜、エリシアは『制度外記録』の一冊目を開いた。最初の頁の名前の下に、行が三つ並んでいる。日雇いの荷運び。再教育枠が第七項に入った。南部第二港、当期分見送り。
四つ目を書き足す。
『任意支出一覧、公開開始。理由欄に一行』
綴りは、閉じずに置いた。閉じてしまうと、次に開いたときに今日の続きだと分からなくなる。この人が戻ってくるかどうかは、まだ分からない。
分からないままでも、来年は去年と比べられる。比べられる形にしておくことだけが、こちらにできる全部だった。
署名の瞬間に鐘を鳴らしたのは作者の趣味です。書きたかったのは午後のほうで、王国十四項目、帝国十一項目、履歴の欄はほぼ空白。それでも一行だけ入った、という地味な勝ちです。次回、第三国から書簡が届きます。三通のうち二通が、同じ条項を先に読んでいます。南海公国が最初に切るのは、島の渡し船の補助。ブックマークと評価は、協定の署名欄の隣に、遅延公開なしで載せます。




