第4話 必要とされるという錯覚
ラグネスの朝は早い。
港から届く荷の音、商人たちの呼び声、石畳を打つ馬蹄。
エリシア・フォン・ルーヴェルは、そのすべてを窓越しに聞きながら、机に向かっていた。
新しい帳簿。
まだ誰の手垢もついていない、真っ白な紙。
そこに記された数字は、王宮のものより荒れている。
だが――正直だった。
「……ここは、削れる」
小さく呟き、ペンを走らせる。
不要な委託費、慣例だけで続いてきた補助金。誰も悪意でやっていないからこそ、誰も止められなかった数字。
それを整えるのが、今の仕事だ。
控えめなノックが響いた。
「どうぞ」
扉を開けたのは、ヴァルド・グレインだった。
手には封蝋の施された書状が一通。
「王宮からだ」
短く、それだけ言って差し出す。
エリシアは封を切る前から、内容を察していた。
呼び戻し。あるいは、協力要請。
いずれにせよ、“今さら”だ。
書状は、予想以上に丁寧な文面だった。
『王国の財政運営に混乱が生じている。
速やかに王都へ戻り、これまで通り職務にあたられたい。
これは、王国のための要請である』
署名は、宰相ヘルムート。
エリシアは、しばらく無言で紙を見つめていた。
胸に湧いたのは怒りではない。虚しさでもない。
ただの確認だ。
「……“これまで通り”、ですか」
ヴァルドが眉を上げる。
「気に入らない言い方だな」
「ええ」
エリシアは書状を机に置いた。
「彼らは、私が“戻れば解決する”と思っている。でも、それは違います」
「違う?」
「はい。私がいなくなったから混乱したのではありません。
私に依存する仕組みを作ったまま、見ないふりをしていたからです」
数字を一人に集中させ、理解しようとしなかった。
その歪みが、今になって噴き出しただけ。
ヴァルドは、ふっと息を吐いた。
「王宮らしいな」
「王宮は、“人”を見ません。“役割”だけを見る場所です」
だからこそ、役割を外された瞬間、私は不要になった。
そして今、役割が足りなくなったから、呼び戻す。
「……では、答えは?」
ヴァルドは分かっていながら、聞いた。
エリシアは静かに立ち上がり、窓の外を見た。
港では、昨日決めた新しい動線に従って、荷が流れている。
少しずつだが、確実に。
「戻りません」
はっきりと、そう言った。
「王宮に必要なのは、私ではありません。
“私がいなくても回る制度”です」
それを作る気がないのなら、何度戻っても同じことの繰り返しになる。
ヴァルドは頷いた。
「なら、返事は俺から伝えよう」
「お願いします」
彼が部屋を出た後、エリシアは再び机に向かった。
新しい帳簿の余白に、短く書き込む。
『王宮要請:拒否』
それだけ。
その頃、王宮。
宰相ヘルムートは、返書を読み終え、深く椅子にもたれた。
「……拒否、だと」
第一王子レオンハルトは、苛立ちを隠さなかった。
「ふざけている。王国の命令だぞ」
「いいえ、殿下」
宰相は静かに言う。
「彼女は、もう“王国の人間”ではありません。
我々が切ったのです」
殿下は言葉を失った。
自分が下した決断。
それが、ここまで重い意味を持つとは思っていなかった。
「では、どうする」
宰相は目を閉じる。
「……制度を、理解するところから始めるしかありません」
それが、どれほど遅すぎるとしても。
一方、ラグネス。
エリシアは新しい改革案の頁をめくり、静かに息を吐いた。
王宮に戻らないと決めた瞬間、不思議と心は軽かった。
私は、捨てられたのではない。
選び直したのだ。
どこで、誰のために、数字を使うのかを。
――物語は、もう王宮だけのものではない。




