第38話 書き換えられる成果
王宮の広間は、久しぶりに明るかった。
「本日より、新運用方式を正式採用する」
第一王子レオンハルトの声が響く。名は出さない。設計者も明示しない。
「分散型判断方式の導入により、港湾事故率は改善傾向にある」
それは事実だ。だが、その方式は、市場で広がった模倣制度を基にしている。
「王国独自の改善策として、今後も推進する」
拍手が起きた。官僚たちは安堵している。成果が出た。批判を抑えられる。
広間の後ろのほうで、クレア・ミルトンは拍手をしなかった。手を叩かないでいると、叩いていない自分の手が急に重くなる。彼女は資料を持ち直して、それをごまかした。
執務室に戻り、彼女は発表資料を最初から読み込んだ。
「……数値は合っている」
事故率は確かに下がっている。だが、注記がない。途中で起きた混乱も、判断遅延も、資金繰りの危機も、すべて消えている。
消したのではない。最初から書く欄がなかった。欄のないものは、消す手間さえいらない。
彼女は記録帳を開き、公式発表の一行を写した。
『王国公式発表:分散型判断方式を採用』
そして、静かに追記する。
『出典:市場模倣制度 失敗事例:非公開』
書き終えてから、しばらくその頁を見ていた。
これで三冊目の、二十九頁だった。最初の一頁を書いたのは、宰相府で、公式の帳票には不要だと言われた日の夜だ。あのときは、いつか誰かに提出するつもりでいた。今はもう、提出する先を探していない。探すのをやめたのがいつだったか、思い出せなかった。
その夜、彼女は下宿で、机の上に二つのものを並べた。
一つは、監査局の辞表。書式どおりに書いてある。日付の欄だけが空いている。
もう一つは、記録帳の背に貼る表題の紙。まだ何も書いていない。
辞めれば、記録を続ける時間は増える。だが、王国の中で何が決まっているかは、二度と見えなくなる。外から見た記録は、正確ではあっても、遅い。
残れば、見える。だが、見えたものを書けば、いつか差し戻されるだけでは済まなくなる。
クレアは、辞表のほうを引き出しにしまった。破らなかった。日付を入れれば、いつでも出せる。
表題の紙は、貼らずに挟んでおいた。名前をつけると、それは形になる。形になったものは、探される。
「……まだ、名前はいい」
彼女は灯りを消した。
同盟でも、報告が届いていた。
「王国が、模倣制度を公式化しました」
アルノーは短く目を閉じた。
「……早いな」
管理派は即座に反応する。
「だから言ったのだ。主導権を握らねば、利用される」
「王国が成功すれば、制度の本流はあちらになる」
焦りが広がる。焦りは、判断を早くするのではなく、粗くする。
商会連合では、部下の報告にクロウフォード代表が短く頷いた。
「王国が公式化した以上、市場も追随します」
「だが、公開性はない」
「ええ」
「ならば、歪みは遅れて出る」
彼女はまだ動かない。動かないことに理由があるうちは、動かないほうが安い。
ハルフェンでは、ヴァルドが速報を持ち込んだ。
「王国が、成果を出しました」
「出しました、か」
エリシアは穏やかに答える。
「取り戻されるのでは」
「取り戻されません」
即答だった。
「形だけを採用すれば、最初は改善します」
「ですが」
「改善の理由が検証されない」
それは遅効性の歪みだ。
彼女は帳簿に書いた。
『王国:模倣制度を公式採用 公開性:なし 失敗記録:不明』
そして、もう一行。
『予測:短期的成功、長期的再発』
感情はない。怒りもない。ただ、分析だった。
ペンを置いてから、エリシアは一つだけ、分析ではないことを考えた。
王国の中に、この発表の裏側を書いている人間が一人はいるはずだ、と。いなければ、あの改善の数字はもっと雑になっている。
名前も、立場も分からない。分からないままでいい。分かってしまえば、こちらから連絡を取りたくなる。連絡を取れば、その人は王国の中で立場を失う。
彼女は灯りを落とした。王宮では祝宴が続いていた。誰も、改善がどこから来たのかを知らない。何が削られたのかも。
奪われたのは、名前だけだ。名前をつけていないものは、まだ、どこにも属していない。
クレアの辞表は引き出しに、表題の紙は挟んだまま。日付を入れればいつでも出せる、というのは、辞めない理由としてはかなり上等です。王宮では祝宴が続いていますが、あの改善の数字が雑になっていないのは、拍手をしなかった人が一人いるからです。次回、改善の裏で遅延が連鎖します。二度目に潰れる商会があり、エリシアはそこへ、名乗らずに行きます。




