第32話 戻ってこい、という言葉
王国からの使者は、昼前に到着した。華美ではない。だが、軽んじてもいない。
応接室には、必要最小限の人数しか通していない。エリシア・フォン・ルーヴェルは正面に座り、顔を上げたところで、わずかに動きを止めた。
「……マリアンヌ」
「お久しゅうございます」
財務局付き書記官、マリアンヌ・フェルゼン。深く一礼して、彼女は椅子に腰を下ろした。
一度目は、大広間だった。二度目は、ラグネスの執務室で、命じられてもいない写しを一枚だけ持ってきた。三度目が、名代としての訪問になる。
「殿下の名代として参りました」
「殿下は、ご自分でいらっしゃらないのですね」
「はい」
マリアンヌは、弁解しなかった。弁解の一行を用意してこなかった、という顔だった。
「殿下がいらっしゃれば、これは謝罪になります。謝罪は、条件になりません」
正確な答えだった。用件の前に、逃げ道を一つ閉じてきている。閉じ方が、二年前のこの人にはできなかった閉じ方だった。
「ご用件を」
「殿下は、貴女の知見を必要としておられます」
彼女は、慎重に言葉を選ぶ。選んでいるあいだ、視線は卓の上から動かない。
「改革は、修正の段階に入りました。今なら、やり直せます」
やり直せる。その言葉が、少しだけ空気を揺らした。二年前なら、聞かずに席を立っていたかもしれない。
「条件は?」
エリシアは、感情を挟まない。条件は、と先に訊いておくと、話が短くなる。
「王宮への復帰。正式な役職の付与。独立した発言権の保証」
どれも、かつて与えられなかったものだ。与えられなかったから、いま切り札になっている。切り札にした側は、そのことに気づいていない。
「そして」
マリアンヌは、一瞬だけ間を置いた。置いた長さが、王宮で会ったときより短い。
「……過去の扱いについて、殿下は遺憾の意を示されております」
謝罪ではない。だが、限界まで近い。沈黙が落ちる。
「確認ですが」
エリシアは、ゆっくりと口を開く。ここから先は、こちらが訊く番だった。
「制度の設計と運用は、王国の管理下に入りますね」
「入ります」
即答だった。入ります、と認めたことが、この使者のいちばん誠実なところだった。
「国家の枠組みの中でこそ、安定は保証されます」
その理屈は理解できるし、間違ってもいない。間違っていない提案のほうが、断るのは難しい。
「もし私が戻れば」
エリシアは続ける。
「制度は、王国の所有物になります」
「所有ではありません。国家の管理です」
「言葉の違いです」
静かな返答だった。マリアンヌは困ったように眉を寄せたが、引かなかった。引かないと決めて来ている。
「殿下は、本気でお考えです」
「ええ」
それは疑っていない。本気であることは、条件の中身とは関係がないというだけだ。
「ですが」
エリシアは、はっきりと言った。
「王国は、理解したのですか」
マリアンヌは、答えなかった。答えないことが、この人の返事の形だった。
数字は見た。失敗も見た。だが、なぜ止めたのか。なぜ修正しなかったのか。そこまで掘り下げたかと問われれば、王宮の誰も頷けない。
やがて、彼女は膝の上で手を組み直した。組み直してから、顔を上げるまでに間があった。
「あのとき、ラグネスで、貴女は私にお尋ねになりました」
声は落ち着いていた。落ち着かせるのに、たぶん一年かかっている。
「今年は私が間に合わせる。来年は、誰が間に合わせるのか、と」
「覚えています」
「まだ、答えられません」
マリアンヌは、まっすぐに言った。
「あれから一年、財務局におります。書式は少しずつ直しました。人も入れました。それでも、来年のことを聞かれたら、私は黙るしかありません」
エリシアは、視線を上げた。まだ、答えられません、と正面から言われたのは初めてだった。
「では、なぜ来たのですか」
「殿下のお言葉を、そのままお持ちするためです」
迷いはなかった。名代として、というのは、こういうことだったらしい。
「私の言葉は、足しておりません。足せるものが、まだありませんので」
これは条件ではない、とエリシアは思った。分かっていて、それでも返事が一拍遅れた。
「……検討いたします」
礼儀として、そう言った。即答しない。拒絶もしない。だが、答えはすでに出ている。
「はい」
マリアンヌは、静かに立ち上がった。椅子は、音を立てずに引かれた。
「お返事は、いただかなくて結構です」
扉の前で、彼女は一度だけ振り返った。振り返るとは、思っていなかった。
「ひとつだけ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「来年も、同じ書簡が北方から届いたら」
少しだけ、声が硬くなる。
「そのとき私は、何を作ればよいのでしょう」
エリシアは、しばらく彼女を見ていた。答えを渡すのは簡単だった。三行で済む。三行で済んでしまうから、渡してはいけない。
「作り方は、お教えしません」
「……はい」
「ですが」
エリシアは、続けた。
「間違えたら、記録してください。誰にも見せなくて構いません。捨てないでいただければ、それで」
マリアンヌは、何か言おうとして、やめた。代わりに、もう一度だけ深く頭を下げて、出ていった。
扉が閉まる。ヴァルドが、小さく息を吐いた。
「……揺れませんでしたね」
「揺れましたよ」
エリシアは、正直に答えた。
「戻れば、楽です」
守られ、肩書きがあり、責任の所在も明確になる。楽だというのは、比喩ではない。
「でも?」
「でも、壊れた時に、また消されます」
それが、王宮という場所だ。
その夜、エリシアは白紙の前に座った。だが、ペンは取らなかった。書くことがないのではない。書けば、答えになってしまう。
代わりに、彼女は帳面の頁を一つ戻した。糊で貼った切り抜きが、まだ少し波打っている。屋号と、店主の名と、長年の御礼という短い文。
この人は、来年を誰が間に合わせるのかを、誰にも訊かれないまま店を畳んだ。
彼女は灯りを落とし、窓の外の港を、しばらく眺めていた。
答えを三行で渡せてしまうから渡さない、という場面は、この作品の背骨のつもりで書きました。マリアンヌが持ってきた「まだ、答えられません」は、たぶんこの話でいちばん誠実な台詞で、そして何も片づいていません。舞台は同盟評議会へ移ります。アルノーが議事録の写しを一部、雑な置き方で机に置いていきます。




