第31話 逃げ場のない場所
朝、机の端の封書は、まだ封を切られていなかった。同盟評議会の議長名。厚手の紙。昨日から、そこにある。
そして今朝、その隣に二通が並んだ。
「……揃いましたね」
ヴァルドが、低く言う。王国の紋章、隣国アウレリア学術院の簡潔な書式。三通とも、紙の厚みが違った。厚い順に、値段の高い順でもある。
「同じ週に、というのは偶然ですか」
「いいえ」
エリシア・フォン・ルーヴェルは、淡々と答える。偶然ですか、と訊かれて、間を置かなかった。
「様子見が終わった、ということです」
これまでは、観測と評価と試算の段階だった。だが今は違う。奪いに来ている。奪いに来る側は、同じ週に動く。最初に開いたのは、王国からの書簡だった。
『貴女の知見を、王国の再建に活かしたい』
文面は、以前よりも慎重だ。命令でも、圧力でもない。だが、行間ははっきりしている。戻ってこい、と書いてある。書いていないことが書いてあるのは、書いた人間が上手いからだ。
「……条件は、後出しですね」
エリシアは、短く言った。後出し、という語を、責める調子では言わなかった。
「名誉回復、地位、発言権。全部、向こうの都合で調整できます」
次に、同盟評議会。ようやく封を切ると、要点は一行で済んでいた。
『暫定的な制度管理枠の設置を提案する』
管理という語だけが、他の言葉より重く沈んでいる。暫定的、という前置きが付いているぶん、余計に重い。
「善意ですね」
ヴァルドが言う。善意ですね、という言い方に、皮肉の色は無い。
「ええ」
否定はしない。そこが厄介なのだと、彼女は思った。
「だからこそ、厄介です」
最後に、学術院。こちらは、二行しかなかった。
『観測を続けたい 失敗も含めて』
エリシアは、少しだけ視線を止めた。
「……この方だけは、違いますね」
「どういう意味です」
「奪うつもりがない」
三通を、机に並べる。それだけでも、十分に多い。そして昼過ぎ、四通目は紙で来なかった。
「クロウフォード代表がお見えです」
取次の声に、ヴァルドが眉を上げた。
「……ご本人が?」
商会連合の実務を握る人物が、書状ではなく足を運んでいる。それが答えのようなものだった。
応接室に通されたクロウフォードは、椅子に座るなり本題に入った。
「率直に申します」
挨拶は、それだけだった。
「試運転の記録を拝見しました。五日で三十七件の判断。うち、上へ伺いを立てたものが、ゼロ」
「よくご存じですね」
「調べました」
クロウフォードは、悪びれない。手袋の指先を揃えながら、続けた。
「三十七件のうち一件、差出人の欄が空のまま受けておられますね。受領者の名だけを書き入れて」
「書いたのは、本人です」
「規約違反では」
「規約に、その欄がありませんでした」
エリシアは、静かに答えた。
「ですから、違反にもなりません。今は、そういう状態です」
クロウフォードは、しばらく彼女を見ていた。それから、視線を書類のほうへ戻した。
「あれは、売れます」
その言い方に、エリシアはわずかに目を細めた。
「売る、ですか」
「言葉を選ぶなら、独占実施権です。五年。同盟域内の港湾に限ります。設計の改定は貴女が握ったままで構いません」
彼女は、手袋を外しながら続けた。
「対価は、貴女が今後一切、資金の心配をしなくてよくなる額です」
条件は、明快だった。無理も、脅しもない。
「悪い話ではないでしょう」
「ええ」
エリシアは、認めた。
「悪くありません。ですが、その五年のあいだ、外の人間は同じことを試せません」
クロウフォードの手が、一瞬止まる。
「……そこですか」
「そこです」
沈黙が落ちた。やがてクロウフォードは小さく笑い、手袋を嵌め直した。値をつけられない相手に会ったときの笑い方だった。
「貴女、商売には向いておられませんね」
「数字は、得意です」
「そういう話ではないのですが」
立ち上がりながら、彼女は言った。
「今日は、お返事をいただきに来たのではありません。先に来ておきたかっただけです。紙より、人のほうが早いので」
扉が閉まる。午後、応接室には誰も通さなかった。返事も、出さない。だが、外では噂が動き始めている。制度設計者を巡って各国が動いている。どこが押さえるかで、流れが変わる。
エリシアは、その声を遮るように窓を閉めた。
「……逃げられませんね」
ヴァルドが、率直に言う。
「ええ」
エリシアは、静かに答えた。
「ここは、もう個人の場所ではありません」
王宮に戻ることもできる。同盟に身を預けることもできる。商会と組めば、安全も保証される。だが、どれも、制度を誰かのものにする選択だ。
その夜、エリシアは帳簿ではなく、白紙を一枚取り出した。見出しも、名前も書かない。ただ、中央に一行。
『ここは、誰のものでもない』
それは宣言ではない。防衛線だ。奪われる前に、奪えない形にする。彼女はペンを置き、深く息を吸った。世界は、選べと言っている。
だが、エリシア・フォン・ルーヴェルは知っている。選ばない、という選択こそが、この状況で唯一の能動だということを。
逃げ場は、ない。だが、渡すつもりも、なかった。
選ばないことが唯一の能動、と言われて納得できるかどうかは、たぶん読者の側で分かれると思います。作者は半分納得して、半分は「それは持久戦の別名では」と思いながら書いています。次回、王国の使者が来ます。名代として扉をくぐるのは、命じられてもいない写しを一枚だけ持ってきた、あの書記官です。




