第28話 断るという決断
夕方の風は、まだ夏の匂いを残していた。
クレア・ミルトンが下宿に戻ると、扉の下に封筒が差し込まれていた。差出人は、アウレリア学術院。文面は簡潔だった。
『記録の保全について、協力を申し出たい』
署名はなかった。だが、誰の手かは分かる。
「……拾われた」
声に出してから、少しだけ笑った。必ず、誰かが拾う。いつだったか、あの人はそう言った。答えを渡さず、考える責任だけを返して。
クレアは、封筒を机に置き、しばらくそのまま座っていた。
受けても、身分は変わらない。給料も出ない。肩書きも、公印も付かない。ただ、書いたものが内部資料にならない。
それだけだ。それだけが、欲しかった。
その夜、彼女は新しいノートを開いた。表紙に書く。
『制度外記録:王国』
肩書きも、公印もない。ただ、事実だけを書く。これは仕事ではない。評価も、報酬もない。
最初の頁に、地下倉庫で見た三行を写した。停止と廃業が別の帳票に載ること。両方を見た人間だけが同じ店だと分かること。そこまで書いて、彼女は少し考えてから、屋号のあとに横線を引いて空欄を作った。
この店の主が今どこにいるのかを、彼女は知らない。知らないままの欄を、埋まらないまま残しておく。
「……これが、私の役割ですね」
彼女は、ペンを走らせた。王国の外に立つ者として、王国を記録する。それは孤立ではない。立場の変更だ。
同じ週。ハルフェン郊外の古い倉庫では、別の名簿が作られていた。といっても、紙は一枚きりだ。
「五人で足りますか」
ヴァルドが、その一枚を差し出す。
「足ります」
エリシア・フォン・ルーヴェルは、名前の並びを上から順に見た。港湾管理、流通の差配、荷役の頭。それに、学術院の研究補助が一人。
「この方は?」
「王都から紹介がありました。監査局に、記録を続けている方がいるそうで。その方の推挙です」
ヴァルドは、少しだけ間を置いた。エリシアは、名簿から目を上げなかった。
「……そうですか」
それ以上は聞かない。聞けば、名前が要る。
もう一度、上から下まで目を通した。五人とも、今この港で働いている人間だ。当たり前のことだが、当たり前だと気づくのに少しかかった。
去年この港を離れた人間の名前が、一つもない。
「では、この五人で」
翌日、倉庫に集まったのは、たしかに五人だった。一番若いのはエミルという港湾管理者で、二十歳そこそこ、船の入りを差配して三年になるという。
「あの」
名簿を配り終えたところで、彼が手を挙げた。
「ここには、所属を書かないんですか」
「書きません」
「肩書きも?」
「外してください」
エミルは、名簿を裏返し、また表に戻した。
「……外したら、俺は何なんですか」
誰かが手を止めた音が、やけに大きく響いた。問いは素朴だった。だからこそ、誰も笑わなかった。
「今日から五日間、荷を止めないための判断をする人です」
エリシアは、そう答えた。
「それだけです」
「それだけ、ですか」
「はい」
エミルは、しばらく黙っていた。それから、名簿の自分の欄から、港湾管理局の名を線で消した。
「……消しました」
「ありがとうございます」
「褒めるところですか、そこ」
彼がぼそりと言い、誰かが小さく笑って、空気がほどけた。
夜。エリシアは、鍵を返しに来た管理人と短く言葉を交わし、倉庫の戸を閉めた。
王都では、ひとりが記録を始めている。ここでは、五人が名前を外した。どちらも、王国の帳簿には載らない。
断るという決断は、何かを失うことではなかった。
自分が、どこに立つかを、ようやく選んだだけだ。
名簿から所属を線で消したエミルの「外したら、俺は何なんですか」は、この作品でいちばん素朴で、いちばん答えにくい問いだと思っています。次回、名もなき試運転の初日。届いた麦の前で、判断していい人間がこの場にいると誰も思っていない半刻が来ます。ブックマークと評価は、試運転の記録の余白に書き足させていただきます。




