第27話 王国の手紙
封筒は、机の中央に置かれていた。
王国監査局の公印、厚手の紙、丁寧な書式。それだけで、内容は察せられる。
「……来ましたか」
クレア・ミルトンは、椅子に腰掛けたまま、しばらく手を伸ばさなかった。逃げていたわけではない。読む前から、意味が分かっていたからだ。
封を切る。
『王国改革検証特別チームへの参加を命ずる』
文面は礼儀正しく、評価の言葉も並んでいる。現場理解に長けた人材として期待する。将来的な昇進も視野に入れる。誰が読んでも栄転だった。
「……管理下に戻す、ということですね」
クレアは、静かに息を吐いた。
検証チーム。名目は改革の改善だが、実態は分かりやすい。外に出た視点を、もう一度囲い込む。
午後、上司に呼ばれ、簡単な説明があった。
「期待されているんだよ、君は。若くして、ここまで現場を見てきた人材は貴重だ」
柔らかな口調だった。だからこそ、断る足がかりがどこにもない。
「……検証内容の独立性は、保たれますか」
クレアは、率直に聞いた。上司は一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから、事務的な声に戻った。
「最終判断は、王宮だ」
それが、すべてだった。
同じ日の午後。ハルフェンの執務室では、エリシア・フォン・ルーヴェルが一通の書状に署名を入れていた。宛先は、アウレリア学術院。
「……記録の保全、ですか」
ヴァルドが、書面を覗き込む。
「ええ」
「対象が書かれていませんね」
「書けません」
エリシアは羽根ペンを置いた。
「名前を出せば、その人が困ります」
王国監査局に、記録を続けている人間がひとりいる。誰の指示でもなく、評価もされず、それでも書いている。
数字の動きを追っていれば、いるということだけは分かる。
「もし、その方が断らなかったら」
「そのときは、この書状は届きません」
エリシアは、封をした。
「拾うかどうかは、私が決めることではありませんから」
王都。帰り道の街は、いつも通りに見える。だが、クレアには分かる。この静けさは、考えないことで保たれているものだ。
下宿に戻り、彼女は机に向かった。個人記録帳。もう何冊目か分からない。新しい頁を開いて、短く書く。
『王国より検証チーム参加要請 条件:独立性なし』
ペンを置き、しばらく動けなかった。この要請を受ければ、生活は安定する。発言権も、肩書きも得られる。
だが、書いた記録は内部資料になる。公開も保存も王国の判断次第で、つまりそれは、消せる記録だ。
「……エリシア様なら」
ふと、あの穏やかな声が浮かんだ。答えは渡さない。考える責任のほうを返す。あのやり方は、いま思えば親切ではなかった。親切ではないから、まだ効いている。
クレアは、ゆっくりと立ち上がった。
夜。彼女は、短い返書を書いた。
『光栄ではありますが、今回は辞退いたします』
理由は書かなかった。書けば議論になる。そして議論は、調整という名で潰される。
翌日、返書を提出した時、上司は驚いた顔をした。
「本気か?」
「はい」
それ以上、言葉は交わされなかった。
手続きは淡々と進んだ。懲罰はない。評価が下がるわけでもない。
ただ三日後の朝礼で、人事担当官が事務的に告げた。
「ミルトン主事は、当面、重要案件から外れます」
誰も理由を言わず、クレアも聞かない。噂だけが早かった。
なぜ断った。昇進を棒に振るとは。誰も責めないが、誰も理解もしない。
その日の夕方。クレアは、監査局の地下倉庫へ降りた。廃棄予定の旧帳票、制度改定前の記録。誰も見向きもしない紙の山だ。
埃を払うと、綴じ紐の色が年ごとに違うのが分かった。表に出なかった数値。途中で消えた試算。判断されなかった案。
無価値なのではない。都合が悪かっただけだ。
膝の高さまで崩して、彼女は手を止めた。市場動向の月報の綴りが出てきた。半年前、自分が上司に読み上げた月だ。
『加工業者 停止 三件』
その三行の一つに、覚えのある屋号がある。ハウレル商会。停止の欄に載った同じ週、地方紙の隅には廃業の告知が出ていた。
停止と廃業は、別の帳票に載る。同じ店だと分かるのは、両方を見た人間だけだ。そして両方を見た人間は、そのことをどこにも書かなかった。
「……ここに、残っている」
クレアは、その場に膝をついた。残っているのに、繋がっていない。繋げる欄が、この局のどの様式にもない。
重要案件から外れるということは、この山に一日中いられるということでもある。
彼女は、一番上の綴りを引き抜いた。
栄転という言葉は、字面がいちばん綺麗なときほど疑ったほうがいい、というのが作者の持論です。クレアが返書に理由を書かなかったのは、理由を書くと相手に反論の場所を渡してしまうから。彼女の下宿の扉の下に、署名のない封筒が差し込まれるのは、次の夕方です。差出人が誰かは、読者の皆さんのほうが先に知っています。




