第2話 彼女がいない会議
エリシア・フォン・ルーヴェルが王宮を去った翌朝。
財務局の会議室には、異様な空気が漂っていた。
長机の中央に積み上げられた書類。未整理の帳簿。修正の赤線が何重にも走る予算案。
それらを前に、財務官と補佐官たちは誰一人として口を開けずにいた。
「……まずいな」
最初に声を出したのは、財務官長のラウルだった。
彼は額に滲む汗を、布で何度も拭っている。
「北方辺境防衛費の第二案だが……数字が、合わん」
「そんなはずは……」
補佐官の一人が反論しかけ、言葉を詰まらせた。
帳簿をめくる指が、止まる。
「一次案との差額が説明できない。輸送費が……いや、倉庫管理費が、ここで二重計上されている?」
「違う、それはエリシア様が――」
その名前が出た瞬間、会議室が静まり返った。
誰もが無意識に、空いている一席を見る。
いつもそこにあった、地味な木製の椅子。目立たず、だが確実に全体を支えていた席。
「……彼女は、どこまで把握していた?」
ラウルの声は低かった。
「すべて、です」
答えたのは、若い書記官のマリアンヌ・フェルゼンだった。
一晩眠っていないのだろう。目の下に濃い影がある。
「倉庫ごとの保管日数、輸送路の遅延率、季節ごとの穀物消費量……すべて、エリシア様の整合表にまとめられていました」
「では、それを出せば――」
「ありません」
マリアンヌは、はっきりと言った。
「原本も控えも、エリシア様が管理していました。財務局には、参照用の抜粋しか残っていません」
沈黙。
誰かが、喉を鳴らした。
「……つまり」
ラウルは言葉を選びながら、続ける。
「我々は、設計図のない建物を補修しようとしている、ということか」
答えはなかった。
否定できる者が、いなかったからだ。
そこへ、勢いよく扉が開いた。
「どうなっている!」
第一王子レオンハルトの声だった。
珍しく、苛立ちを隠していない。
「第二案が提出されていないと聞いた。どういうことだ」
ラウルは立ち上がり、深く頭を下げる。
「殿下。現在、再計算を――」
「再計算? 三日後が期限だぞ。なぜ間に合わない」
殿下の視線が、空席に向く。
「……ルーヴェル嬢は?」
一瞬の沈黙。
誰もが答えを知っているのに、口に出せない。
「……昨日の件で、王宮を離れられました」
マリアンヌが、かすれた声で答えた。
レオンハルト殿下は眉をひそめる。
「だから何だ。彼女一人いなくなったところで、国の予算が止まるはずがないだろう」
その言葉に、誰も反論しなかった。
反論できなかった。
代わりに、会議室の奥から、兵站担当官が一歩前に出る。
「殿下……穀物の輸送計画についても、問題が出ています」
「何だ」
「西部倉庫の在庫が、想定より二割少ない。原因が分からない」
「それくらい、現場に確認すればいいだろう」
「確認はしました。しかし……在庫調整は、ルーヴェル嬢の整合表を前提に組まれていたのです」
殿下の顔色が、僅かに変わった。
「……どういう意味だ」
「彼女の表には、“不足が起きる前提”での迂回ルートが組み込まれていました。我々は、その存在すら――」
言葉は、続かなかった。
それ以上言えば、殿下の判断そのものを否定することになる。
レオンハルト殿下は、しばらく黙り込んだ。
そして、低く言った。
「……彼女を呼び戻せ」
ラウルが一瞬、目を見開く。
「殿下。しかし、婚約は――」
「関係ない。今は王国の問題だ」
その言葉を聞きながら、マリアンヌは胸の奥が冷えるのを感じていた。
――違う。
問題は、そこではない。
エリシア・フォン・ルーヴェルは、命じられて戻るような人ではない。
必要とされない場所に、留まることもしない。
彼女は、自分の価値を知っていない。
だが、自分が“役に立てる場所”は、誰よりも正確に理解している。
「殿下」
マリアンヌは、意を決して口を開いた。
「エリシア様は……数字のために働く方です。地位のためではありません」
レオンハルト殿下は、彼女を睨んだ。
「何が言いたい」
「彼女を呼び戻すのなら――理由が必要です」
「理由?」
「はい。“必要だから”では、足りません」
殿下は言葉を失った。
彼にとって、必要とされるのは常に自分の側だったからだ。
その頃。
王都から少し離れた街道を、一台の馬車が進んでいた。
窓の外に広がるのは、まだ冬の名残を残す畑と、静かな村々。
エリシア・フォン・ルーヴェルは、膝の上の帳簿に視線を落としていた。
「……予想より、早いわね」
独り言のように呟く。
数字は正直だ。
人の感情より、ずっと。
王宮が混乱するまで、三日。
――いいえ、一日で十分だったらしい。
彼女はペンを取り、新しい頁に静かに書き込んだ。
『想定外:王宮側の対応速度、極めて遅い』
それは、復讐ではない。
ただの記録だ。
エリシアは窓の外に目を向け、淡く微笑んだ。
自分がいない世界が、どう動くのか。
その答えは、もうすぐ向こうからやって来る。




