第18話 答えを渡さない理由
夜の王都は、昼間よりも正直だった。
灯りの少ない通り、閉ざされた店先、遅くまで残る人影。改革の成果を示す数字とは裏腹に、街はどこか息を潜めている。灯りの数は、去年の同じ月より減っていた。数えた者はいない。
クレア・ミルトンは、人目を避けるように馬車に乗り込んだ。向かう先は王都の外。正式な訪問ではない。記録にも残らない。休暇の届けは、行き先の欄を空けて出した。
ラグネスに着いたのは、翌朝だった。
港の喧騒は王都と変わらない。だが、音の重なり方が違う。荷を待つ声と、荷を出す声が、噛み合っている。噛み合っている港の音を、彼女は初めて聞いた。
「……ここは、動いていますね」
思わず、そう口にしていた。
「数字が、人の動きと喧嘩していませんから」
背後から、穏やかな声が返ってくる。振り返ると、エリシア・フォン・ルーヴェルが立っていた。外套姿。肩書きのない姿だった。迎えに出たようには見えない。歩いていたところで会った、という立ち方だった。
「突然、すみません」
クレアは深く頭を下げた。
「公式ではありません。ただ、どうしても一度、話をしたくて」
「構いません」
エリシアは静かに頷いた。
二人は、港を見下ろす小さな休憩所に腰を下ろした。板の隙間から潮の匂いが上がってくる。屋根はあるが、壁は片側だけだった。
「王国で、改革が始まりました」
クレアは切り出す。
「表向きは順調です。基準値も達成しています」
「知っています」
エリシアは短く答えた。知っています、という返し方に、責める色は無い。
「ですが、現場で、説明されない切断が起きています。人も、流れも」
その声は震えていなかった。覚悟を決めた人間の声だ。ここへ来るまでに、何度も口の中で言い直してきた文だった。
「私は、何をすべきでしょうか」
その問いに、エリシアはすぐには答えなかった。港の鐘が鳴り、船が一隻、出港していく。鐘の音が消えるまで、二人とも黙っていた。
「……答えを求めるなら、私は適任ではありません」
「なぜですか」
「私が出せるのは、正解ではないからです」
クレアは戸惑ったように眉をひそめる。正解ではない、という言い方が、答えを断る口実に聞こえた。
「でも、あなたは……」
「制度を作る人間です」
エリシアははっきりと言った。
「作る側は、壊れ方も知っていなければなりません。だから、答えを渡しません」
「……それでは、私は」
「記録してください」
クレアの言葉を遮るように、エリシアは続けた。
「起きていることを、できるだけ正確に。数字にできない部分も含めて」
「それだけで、何が変わるのですか」
「すぐには、何も」
エリシアは穏やかに答えた。
「でも、記録がなければ、なかったことになります」
クレアは、はっとした。彼女が書いてきた、誰にも読まれない個人記録。あれは、無意味ではなかったのか。抽斗の底に、もう二年ぶんある。
「……あなたは、なぜ助けないのですか」
クレアは率直に聞いた。
「あなたなら、改革案の欠陥を指摘して、止めることもできるはずです」
エリシアは港の方へ視線を向けた。助けない理由を、彼女は言い慣れている。
「止めても、同じことが繰り返されます」
「どうして」
「王国が、理解したことにはならないからです」
彼女はゆっくりとクレアを見る。
「私は王宮にいた頃、何度も代わりに考える役を担いました。結果、どうなったか」
クレアは答えを知っている。
「私がいなくなった瞬間、崩れました。だから今は、考える責任を返しています」
沈黙が落ちる。クレアは膝の上で拳を握りしめた。考える責任を返す、という言い方の重さが、遅れて届いた。
「……私は、怖いです。正しいと思うことを記録して、それが何も変えなかったら」
「変えます」
エリシアは即答した。
「時間はかかります。でも、必ず誰かが拾います」
「誰が」
「それは、分かりません」
エリシアは少しだけ笑った。分かりません、と答えるのに、申し訳なさそうな顔をしなかった。
「制度は、人を選びませんから」
クレアは深く息を吸い、それから顔を上げた。
「……ひとつ、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「先日、宰相府の廊下で、財務局の書記官とすれ違いました。北方の督促が回っていないかと聞かれました」
エリシアの手が、わずかに止まった。北方の督促、という言葉が出るとは思っていなかった。
「その方は、名乗りましたか」
「いいえ」
「そうですか」
エリシアは、それ以上何も言わなかった。ただ、視線が一度だけ、北の空へ向いた。
「王宮にも、同じことをしている人がいるかもしれません」
クレアは言った。
「欄のないことを、どこかに書いている人が」
「いるでしょうね」
エリシアは静かに答えた。
「その人たちは、互いを知りません。知らないまま、同じ形の紙を作ります。それが後で揃うかどうかは、揃えようとする人間がいるかどうかで決まります」
クレアは頷いた。答えはもらえなかった。だが、進む方向は見えた。
「記録を、続けます」
「それで十分です」
二人は立ち上がり、それぞれの道へ向かう。王国へ戻る者と、どこにも属さない者。だが、していることは同じだった。
港の鐘が、もう一度鳴った。クレアは振り返らずに、乗合馬車の停留所へ歩いた。
助けない、と決めている主人公です。代わりに考えた結果を第2話で見ているからです。王都の議会で改革の是非が問われ、議論は始まる前に終わる――それが次の話。同じ日、レイデルで商会が一つ店を閉じ、王都の帳票には『自然淘汰 一件』と載ります。屋号を載せるのは、彼女です。ブックマークと評価は、拾われた記録の数だと思って数えています。




