記憶のノイズ
風呂に入っていない日が、もう何日続いたのか思い出せなかった。
カーテンの隙間から差す朝の光が、まるで古い映像のフレームのようにチラついている。
机の上には飲みかけのボトル、薬のシート、そしてスマートコンタクトのケース。
イサナはぼんやりとそれらを見つめながら、独り言のように呟いた。
「……今日も、ゲームの続きをやるか」
ヘッドセットをかぶり、ログイン。
いつもの草原。
けれど何かが違う。
風の音が微かに反転していた。
葉擦れの音が逆再生されるように響く。
キャラクターたちの動きもわずかに遅延している。
世界全体が、“思考のノイズ”に包まれているようだった。
NPCが通り過ぎる。
そのうちの一人が、イサナのキャラに向かって呟いた。
「坊やも、ワシらと同じじゃな……」
その瞬間、映像が乱れた。
視界全体がモザイク状に歪み、草原が黒い波のように崩れていく。
イサナは慌ててヘッドセットを外した。
だが、外の世界もノイズに包まれていた。
モニターの中の映像と、現実の部屋が、同じリズムで揺れている。
……ガガッ……ジ……ザー……
電気ノイズのような音が鼓膜の奥で鳴っていた。
「……なんだ、これ……?」
コンタクトの表示が自動的に点滅し視界の右上に文字が浮かぶ。
【記憶干渉を検知】
【制御を継続しますか?】
イサナは理解できないまま手を伸ばしてスイッチを切る。
だがそれは視界の中にあり実体がない。
まるで、現実そのものがUIに書き換えられていくようだった。
夕方。
外に出ると空気が異様に静かだった。
街の人々はいつも通りスマートコンタクト越しに情報を見つめている。
だがどこか映像を再生しているような不自然さがあった。
イサナの足は自然と本屋へ向かっていた。
ガラス戸の前に立つ。
営業中の札はかかっているが店内は暗い。
中に入るとカウンターの奥に一冊だけ取り残された本があった。
古びた装丁。
背表紙には薄く金文字で刻まれている。
『世界の真実と命の意味』
手を伸ばすと指先が微かに痺れた。
静電気のような刺激いやそれはもっと内側神経に触れるような痛みだった。
ページを開いた瞬間視界が白く弾ける。
ザザ……ザー……ッ。
無数の声が重なって聞こえた。
男も女も子供も老人もすべての声が“同じ言葉”を繰り返している。
「異端者が!」
「神の使いのつもりか!」
「我らは平穏を求める者」
目を閉じても音が消えない。
むしろ脳の中に直接響く。
その音が映像を連れてきた。
焼けた街。
空を覆う黒い光。
逃げ惑う人々。
そして誰かの声が頭の奥で囁いた。
「考えることはやめるんだ」
イサナは息を飲んだ。
見たこともない景色なのに懐かしい。
涙がこぼれる理由がわからなかった。
大勢の人が争っているかのようだった。
気がつくと部屋の床に倒れていた。
白紙のページに文字の一部が浮かび上がっている。
『PROTOKODE』
テレビの画面が勝手に点灯した。
そこに映っていたのは診察室の老人の顔。
白く濁った瞳が画面越しにイサナを見ていた。
そして口がゆっくりと動く。
「おかえり、坊や」
画面が弾け部屋の灯りが落ちた。
暗闇の中窓の外に並ぶ街灯が一瞬、星座の形を描く。
ノイズがその輪郭をなぞり声にならない囁きが流れ込む。
「観測が始まる」
イサナの瞳に、ノイズ混じりの光が反射する。
それは恐怖ではなかった。
理解の予感だった。




