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『PROTOKODE』  作者: Calva
2/8

記憶のノイズ


 何日も風呂に入っていない。


 そんな自覚がありながらも、イサナは今日も椅子に座り、電源を入れた。

 黒いTシャツの裾は少しよれていて、空気清浄機が回る部屋には、湿気とともに小さな生活音だけが漂っていた。


 「……今日もゲームの続きをやるかー」


 呟く声は誰にも届かず、ただ部屋の空気に溶けていった。

 



 ログイン音が、耳に馴染んでいるはずの起動音に微かに違和感を混ぜて響いた。

 イサナはそれに気づいたが、特に深く考えずに画面へと視線を向けた。


 


 アバターが草原の真ん中に立っている。青空、そよぐ風、NPCの声。いつもと変わらない。

 だが、その「変わらなさ」すら、どこかよそよそしく感じられた。


 


 「……あ、イサナ? おつかれー」


 


 ヘッドセットから、いつものフレンドの声が届く。

 イサナは反応を返しながら、キャラクターを街へと走らせた。


 


 「さっきさ、変なバグ出たんだよね。

 街の端にいるNPCが、急にこっち見てさ……」


 


 「……なんて?」


 


 「……“わしらと同じじゃな”って。繰り返してた。何回も」

 「ワシらと同じじゃな……ワシらと同じじゃな……って。

 だんだん声が機械音っぽくなって、消えた」


 


 イサナの指が止まった。


 


 あの老人の言葉。あの静かで、決定的な一言。

 まさかゲームの中で、それを再び聞くことになるとは思っていなかった。


 


 そのとき、画面の端にシステムログが流れた。


 


 [記録にない言語データを検出しました。ログ保存に失敗しました。]


 


 視界の奥が、一瞬グラついた。

 ノイズのような映像が脳裏をかすめる。

 宇宙。無音。船の窓。小さく見える青い星。


 


 「イサナ? 大丈夫?」


 


 フレンドの声が、遠くから響いてきた。

 彼は、答えようとして口を開いたが、言葉が出てこなかった。


 


 “坊やも、ワシらと同じじゃな”


 


 まるで、自分の中に刻まれている記憶が、ゲームの世界に侵食してきたようだった。




 ログアウトしたあとも、イサナの心拍は静まらなかった。

 部屋の中はいつも通りだった。

 遮光カーテンの向こうには、時間だけが確かに流れている。


 


 椅子にもたれながら、イサナは目を閉じた。

 脳裏に焼きついていた――あの老人の言葉。


 


 “坊やも、ワシらと同じじゃな”


 


 そして、ゲームの中でフレンドが聞いたという全く同じ台詞。


 


 あれは偶然だったのか?

 偶然だとして、なぜその言葉が再び現れたのか?

 自分の記憶が、勝手に何かを結びつけているだけなのか?


 


 いや、違う。

 あの瞬間、自分の中で何かが“合致した”感覚があった。

 説明できない一致。偶然とは思えない精度で。


 


 イサナは、ゆっくりと顔を上げた。

 部屋の天井を見つめながら、ぽつりと呟く。


 


 「……もしかして、あのじいさんに、何かされた……?」


 


 考えれば考えるほど、可能性が浮かび上がってくる。


 


 会話に何かの“暗示”が含まれていたのか。

 老人が持っていたあの本……“世界の真実と命の意味”。

 あの本を一瞥したとき、確かに何かが脳に引っかかった感覚があった。


 


 あの本を触ってはいない。開いてもいない。

 それなのに――思考が、勝手に加速している。


 


 「……なんだこれ……」


 


 胸の奥に、じわじわと黒いノイズが広がる。

 疑い、恐れ、不安。

 すべてが現実の中にひそむ“説明のつかない何か”に、ゆっくりと侵されていく。


 


 イサナは立ち上がり、洗面所の鏡を見る。

 そこに映るのは、自分の顔。いつも通り。

 けれど、その目の奥にある何かが、かすかに揺らいでいた。


 


 「……もし本当に、“何かされた”としたら」


 


 その仮説に、根拠はない。だが、感覚だけが妙に確かだった。

 そして、その感覚こそが、イサナの中の“もう一人の自分”を目覚めさせていた。



 大通りの街灯が、濡れたアスファルトを照らしている。

 夜風が黒いTシャツの裾を揺らした。


 


 ビルの谷間にぽつんと残された、古い書店。

 デジタル化の波に取り残されたその店に、イサナは足を踏み入れる。


 


 カラン、とドアベルが鳴る。

 中は無人のように静かだった。


 


 床の軋みが、小さく響く。

 本棚に並ぶ背表紙は、どれも年季が入っていた。


 


 店の奥にはレジカウンターがある。

 その背後、ガラス張りの小さな棚に、ひときわ古びた一冊の本が立てかけられていた。


 


 『世界の真実と命の意味』


 


 間違いない。あの老人が持っていた本だ。


 


 イサナは息を呑んだ。

 他の本とは違い、それはあたかも“誰かに見つけられるのを待っていた”ように、静かにそこに置かれていた。


 


 カウンターの上には、“店主はしばらく外出中”とだけ書かれた紙が置かれている。


 


 人の気配はない。けれど何かが、イサナをそこに導いたような感覚だけが確かだった。


 


 彼はそっとカウンターの奥に手を伸ばす。

 ガラスは開いていた。鍵はかかっていない。


 


 指先が本に触れた瞬間、空気がふっと揺れた。


 


 カバーは古びていたが、文字は鮮明だった。

 裏表紙を返すと、そこに一文が記されていた。


 


 「また会おう、プロトコード」


 


 イサナは、息を飲んだ。

 手の中の本が、かすかに震えているように思えた。


 


 それは錯覚か、あるいは……。

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