記憶のノイズ
何日も風呂に入っていない。
そんな自覚がありながらも、イサナは今日も椅子に座り、電源を入れた。
黒いTシャツの裾は少しよれていて、空気清浄機が回る部屋には、湿気とともに小さな生活音だけが漂っていた。
「……今日もゲームの続きをやるかー」
呟く声は誰にも届かず、ただ部屋の空気に溶けていった。
ログイン音が、耳に馴染んでいるはずの起動音に微かに違和感を混ぜて響いた。
イサナはそれに気づいたが、特に深く考えずに画面へと視線を向けた。
アバターが草原の真ん中に立っている。青空、そよぐ風、NPCの声。いつもと変わらない。
だが、その「変わらなさ」すら、どこかよそよそしく感じられた。
「……あ、イサナ? おつかれー」
ヘッドセットから、いつものフレンドの声が届く。
イサナは反応を返しながら、キャラクターを街へと走らせた。
「さっきさ、変なバグ出たんだよね。
街の端にいるNPCが、急にこっち見てさ……」
「……なんて?」
「……“わしらと同じじゃな”って。繰り返してた。何回も」
「ワシらと同じじゃな……ワシらと同じじゃな……って。
だんだん声が機械音っぽくなって、消えた」
イサナの指が止まった。
あの老人の言葉。あの静かで、決定的な一言。
まさかゲームの中で、それを再び聞くことになるとは思っていなかった。
そのとき、画面の端にシステムログが流れた。
[記録にない言語データを検出しました。ログ保存に失敗しました。]
視界の奥が、一瞬グラついた。
ノイズのような映像が脳裏をかすめる。
宇宙。無音。船の窓。小さく見える青い星。
「イサナ? 大丈夫?」
フレンドの声が、遠くから響いてきた。
彼は、答えようとして口を開いたが、言葉が出てこなかった。
“坊やも、ワシらと同じじゃな”
まるで、自分の中に刻まれている記憶が、ゲームの世界に侵食してきたようだった。
ログアウトしたあとも、イサナの心拍は静まらなかった。
部屋の中はいつも通りだった。
遮光カーテンの向こうには、時間だけが確かに流れている。
椅子にもたれながら、イサナは目を閉じた。
脳裏に焼きついていた――あの老人の言葉。
“坊やも、ワシらと同じじゃな”
そして、ゲームの中でフレンドが聞いたという全く同じ台詞。
あれは偶然だったのか?
偶然だとして、なぜその言葉が再び現れたのか?
自分の記憶が、勝手に何かを結びつけているだけなのか?
いや、違う。
あの瞬間、自分の中で何かが“合致した”感覚があった。
説明できない一致。偶然とは思えない精度で。
イサナは、ゆっくりと顔を上げた。
部屋の天井を見つめながら、ぽつりと呟く。
「……もしかして、あのじいさんに、何かされた……?」
考えれば考えるほど、可能性が浮かび上がってくる。
会話に何かの“暗示”が含まれていたのか。
老人が持っていたあの本……“世界の真実と命の意味”。
あの本を一瞥したとき、確かに何かが脳に引っかかった感覚があった。
あの本を触ってはいない。開いてもいない。
それなのに――思考が、勝手に加速している。
「……なんだこれ……」
胸の奥に、じわじわと黒いノイズが広がる。
疑い、恐れ、不安。
すべてが現実の中にひそむ“説明のつかない何か”に、ゆっくりと侵されていく。
イサナは立ち上がり、洗面所の鏡を見る。
そこに映るのは、自分の顔。いつも通り。
けれど、その目の奥にある何かが、かすかに揺らいでいた。
「……もし本当に、“何かされた”としたら」
その仮説に、根拠はない。だが、感覚だけが妙に確かだった。
そして、その感覚こそが、イサナの中の“もう一人の自分”を目覚めさせていた。
大通りの街灯が、濡れたアスファルトを照らしている。
夜風が黒いTシャツの裾を揺らした。
ビルの谷間にぽつんと残された、古い書店。
デジタル化の波に取り残されたその店に、イサナは足を踏み入れる。
カラン、とドアベルが鳴る。
中は無人のように静かだった。
床の軋みが、小さく響く。
本棚に並ぶ背表紙は、どれも年季が入っていた。
店の奥にはレジカウンターがある。
その背後、ガラス張りの小さな棚に、ひときわ古びた一冊の本が立てかけられていた。
『世界の真実と命の意味』
間違いない。あの老人が持っていた本だ。
イサナは息を呑んだ。
他の本とは違い、それはあたかも“誰かに見つけられるのを待っていた”ように、静かにそこに置かれていた。
カウンターの上には、“店主はしばらく外出中”とだけ書かれた紙が置かれている。
人の気配はない。けれど何かが、イサナをそこに導いたような感覚だけが確かだった。
彼はそっとカウンターの奥に手を伸ばす。
ガラスは開いていた。鍵はかかっていない。
指先が本に触れた瞬間、空気がふっと揺れた。
カバーは古びていたが、文字は鮮明だった。
裏表紙を返すと、そこに一文が記されていた。
「また会おう、プロトコード」
イサナは、息を飲んだ。
手の中の本が、かすかに震えているように思えた。
それは錯覚か、あるいは……。