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『PROTOKODE』  作者: Calva
1/8

静かな違和感

 曇り空の朝だった。


 春にしては肌寒く、街を歩く人々はそれぞれ無機質な表情でスマートコンタクトの奥に映る情報をぼんやりと追っていた。

 2030年、東京。技術は進歩していたが、空気の重たさだけは昔と変わらなかった。


 


 イサナは、いつもの精神科クリニックの待合室にいた。

 黒いTシャツに黒いスエット。服装に個性はなく、まるで街の背景に溶け込むかのような佇まい。

 彼は定期的に“思考安定剤”を処方されていた。

理由は「過剰思考傾向症」。

 簡単に言えば、「考えすぎる病気」だった。


 


 待合室は静かだった。流れるBGMはどこか安らぎを装っていたが、心には届かない。

 ふと視線を横に移すと、一人の老人が座っていた。

 イサナよりもずっと年老いていて、目を閉じたまま本を膝に置いている。

 その表紙には、古びた金色の文字でこう書かれていた。


 『世界の真実と命の意味』


 


 イサナはそのタイトルに、無意識に眉をひそめた。

 “命の意味”

この世界でそれを考えることは、治療対象だった。


 


 「……この世界の真実に辿り着く前に、ワシの命はもう尽きるのかのう……」

 「……まあ、この間違った世界でも、幸せの幻想を感じられたことには感謝じゃ」


 


 隣から、まるで独り言のように老人の声が聞こえてきた。

 言葉は静かで、何の感情も込められていないように聞こえたが、それでもイサナの心に深く刺さった。


 


 イサナは思わず、老人の顔を見た。

 白く濁った瞳が、こちらを静かに見返してくる。

 数秒の沈黙のあと、老人はゆっくりと口を開いた。


 


 「……坊やも、ワシらと同じじゃな」


 


 イサナはその言葉の意味を理解できずに、ただ瞬きをした。

 直後、柔らかな声が待合室に響く。


 


 「イサナさん、診察室へどうぞ〜」


 


 彼は立ち上がり、機械的な足取りで診察室へ向かった。

 老人の言葉が、頭の中で何度も反響していた。


 


        坊やも、ワシらと同じ。


 


 まるで、それが何かを証明するような言葉だった。


 


 診察室のドアが閉まる音がした。


 


 白く清潔な部屋。窓はなく、時計の秒針の音だけが静かに響いている。

 向かいに座るのは中年の医師。優しげな表情と落ち着いた声の持ち主で、イサナの担当になってもう3年になる。


 


 「最近、なにか悩んだことはあるかい?」

 「また、考えすぎてしまったこととか」


 


 その問いに、イサナは少し間を置いた。

 そして、まっすぐに医師の目を見ながら言った。


 


 「……なぜ、人は生きているんでしょうか」


 


 医師は一瞬だけ目を細める。だがすぐに、慣れたように微笑んで答えた。


 


 「それは、幸せを探すためだよ。

 誰もが、何かしらの喜びや愛を見つけるために生きているんじゃないかな」


 


 イサナは首をかすかに傾けた。そして、言葉を継ぐ。


 


 「でも……もしこの世界が存在しなければ、痛みも苦しみもないですよね」

 「それなのに、なぜ人は生まれ続けるんですか?」

 「人だけじゃない。動物も、魚も、虫も……生まれた瞬間から、誰かに食べられる運命にある」

 「それが、何億年も続いてるんです」


 


 医師の表情から、わずかな緊張が抜け落ちた。


 


 イサナは、止まらなかった。


 


 「もし、幸せのために生きるとして……なぜ“痛みを伴う設計”なんですか?」

 「幸せを得るために、なぜ苦しみを必要とするんですか?」

 「最初から生まれてこなければ、そんなもの感じずに済んだのに」

 「幸せも、不幸も、感じないままでいられたのに」


 


 室内の空気が、すっと冷たくなった気がした。

 医師は優しい笑顔を崩さず、静かに何かをメモしている。


 


 「……イサナくん、それはちょっと“深く入り込みすぎてる”かもしれないね」

 「今日は少し薬を増やそうか。しっかり休んで、あまり考え込まないように」


 


 イサナは、言葉を失ったまま、視線を落とした。

 医師の笑顔は、まるで厚い壁のように正論を押し返してくる。


 


 その時、イサナの中で何かが“音もなく”壊れた。


 


 見えない思考の檻に、気づかないふりをしていた時間が長すぎた。


 


 アパートに戻ったイサナは、無言でモニターの前に座った。

 電源を入れ、ヘッドセットを手に取る。

 ログインしたのは、いつものMMORPG。仮想世界の草原に、自分のキャラが現れる。


 


 頭の中では、あの老人の言葉がまだ響いている。


 


        坊やも、ワシらと同じじゃな。


 


 ヘッドセットから、フレンドの声が飛び込んできた。


 


 「……あ、入ってきた。おつかれー」


 


 中性的な声色。数年来の仲間だが、顔も本名も知らない。

 それでも、画面越しのこの空間では、誰よりも自然体でいられる存在だった。


 


 「今日さー、放置狩りしてたのにさ、キャラのバックがいっぱいで止まってたんだよね」

 「マジで意味ない時間だったわ、最悪」


 


 「……そっか。災難だったね」


 


 何気ない会話。日常の延長。

 だが、心はそこにいなかった。


 


 仮想空間の空が、どこか“異様に青く”見える。

 音楽も、風の揺れも、何かがズレていた。


 


        坊やも、ワシらと同じ。


 


 テレビがニュース番組に切り替わっていた。


 


 「急増!精神疾患?“考えすぎる病気”が若者を蝕む」


 


 キャスターが笑顔で語る。


 


 「最近は、精神科に足を運ぶ若者が本当に増えてますね〜」

 「昔、スマートフォンが普及したときの“情報過多ストレス”に近いですかね?」


 


 「今は、脳に直接インターネットを受信できますからね。

 記憶に直接“情報”が流れ込む時代です」


 


 「知る必要のない情報まで記録されてしまうのが問題なんですよね」


 


 「なかには、“他人の記憶のようなものが見える”という報告もあって――」

 「まるで、誰かの夢をのぞいてしまったかのような体験ですよ」


 


 「この“過剰思考症”、ある種の“無意識汚染”かもしれません。

 人類を不安定にする可能性があるという専門家もいます」


 


 「薬物中毒のような状態に近いという説もありますね〜」


 


 イサナはリモコンで音量を下げた。

 ニュースの音声が静かになっても、言葉の残響だけが脳裏に残る。


 


 ジジッ……ッ、ジ……ザー……ッ……


 


 画面が一瞬、ノイズを走らせる。


 


 視界が切り替わった。そこは、宇宙。


 黒く広がる虚無の中、ひとつだけ小さく光る青白い惑星。

 それは、地球のように見えた。


 カメラのような視点が、宇宙船の中からその星をじっと見つめている。

 言葉も音もない。ただ、その視点だけが存在している。


 


 この映像は

 誰のものでもない。誰に向けられたものでもない。


  ただ、「あなた」にだけ届いている。


 それが何を意味するのか。

 今はまだ、誰にもわからない。


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