静かな違和感
曇り空の朝だった。
春にしては肌寒く、街を歩く人々はそれぞれ無機質な表情でスマートコンタクトの奥に映る情報をぼんやりと追っていた。
2030年、東京。技術は進歩していたが、空気の重たさだけは昔と変わらなかった。
イサナは、いつもの精神科クリニックの待合室にいた。
黒いTシャツに黒いスエット。服装に個性はなく、まるで街の背景に溶け込むかのような佇まい。
彼は定期的に“思考安定剤”を処方されていた。
理由は「過剰思考傾向症」。
簡単に言えば、「考えすぎる病気」だった。
待合室は静かだった。流れるBGMはどこか安らぎを装っていたが、心には届かない。
ふと視線を横に移すと、一人の老人が座っていた。
イサナよりもずっと年老いていて、目を閉じたまま本を膝に置いている。
その表紙には、古びた金色の文字でこう書かれていた。
『世界の真実と命の意味』
イサナはそのタイトルに、無意識に眉をひそめた。
“命の意味”
この世界でそれを考えることは、治療対象だった。
「……この世界の真実に辿り着く前に、ワシの命はもう尽きるのかのう……」
「……まあ、この間違った世界でも、幸せの幻想を感じられたことには感謝じゃ」
隣から、まるで独り言のように老人の声が聞こえてきた。
言葉は静かで、何の感情も込められていないように聞こえたが、それでもイサナの心に深く刺さった。
イサナは思わず、老人の顔を見た。
白く濁った瞳が、こちらを静かに見返してくる。
数秒の沈黙のあと、老人はゆっくりと口を開いた。
「……坊やも、ワシらと同じじゃな」
イサナはその言葉の意味を理解できずに、ただ瞬きをした。
直後、柔らかな声が待合室に響く。
「イサナさん、診察室へどうぞ〜」
彼は立ち上がり、機械的な足取りで診察室へ向かった。
老人の言葉が、頭の中で何度も反響していた。
坊やも、ワシらと同じ。
まるで、それが何かを証明するような言葉だった。
診察室のドアが閉まる音がした。
白く清潔な部屋。窓はなく、時計の秒針の音だけが静かに響いている。
向かいに座るのは中年の医師。優しげな表情と落ち着いた声の持ち主で、イサナの担当になってもう3年になる。
「最近、なにか悩んだことはあるかい?」
「また、考えすぎてしまったこととか」
その問いに、イサナは少し間を置いた。
そして、まっすぐに医師の目を見ながら言った。
「……なぜ、人は生きているんでしょうか」
医師は一瞬だけ目を細める。だがすぐに、慣れたように微笑んで答えた。
「それは、幸せを探すためだよ。
誰もが、何かしらの喜びや愛を見つけるために生きているんじゃないかな」
イサナは首をかすかに傾けた。そして、言葉を継ぐ。
「でも……もしこの世界が存在しなければ、痛みも苦しみもないですよね」
「それなのに、なぜ人は生まれ続けるんですか?」
「人だけじゃない。動物も、魚も、虫も……生まれた瞬間から、誰かに食べられる運命にある」
「それが、何億年も続いてるんです」
医師の表情から、わずかな緊張が抜け落ちた。
イサナは、止まらなかった。
「もし、幸せのために生きるとして……なぜ“痛みを伴う設計”なんですか?」
「幸せを得るために、なぜ苦しみを必要とするんですか?」
「最初から生まれてこなければ、そんなもの感じずに済んだのに」
「幸せも、不幸も、感じないままでいられたのに」
室内の空気が、すっと冷たくなった気がした。
医師は優しい笑顔を崩さず、静かに何かをメモしている。
「……イサナくん、それはちょっと“深く入り込みすぎてる”かもしれないね」
「今日は少し薬を増やそうか。しっかり休んで、あまり考え込まないように」
イサナは、言葉を失ったまま、視線を落とした。
医師の笑顔は、まるで厚い壁のように正論を押し返してくる。
その時、イサナの中で何かが“音もなく”壊れた。
見えない思考の檻に、気づかないふりをしていた時間が長すぎた。
アパートに戻ったイサナは、無言でモニターの前に座った。
電源を入れ、ヘッドセットを手に取る。
ログインしたのは、いつものMMORPG。仮想世界の草原に、自分のキャラが現れる。
頭の中では、あの老人の言葉がまだ響いている。
坊やも、ワシらと同じじゃな。
ヘッドセットから、フレンドの声が飛び込んできた。
「……あ、入ってきた。おつかれー」
中性的な声色。数年来の仲間だが、顔も本名も知らない。
それでも、画面越しのこの空間では、誰よりも自然体でいられる存在だった。
「今日さー、放置狩りしてたのにさ、キャラのバックがいっぱいで止まってたんだよね」
「マジで意味ない時間だったわ、最悪」
「……そっか。災難だったね」
何気ない会話。日常の延長。
だが、心はそこにいなかった。
仮想空間の空が、どこか“異様に青く”見える。
音楽も、風の揺れも、何かがズレていた。
坊やも、ワシらと同じ。
テレビがニュース番組に切り替わっていた。
「急増!精神疾患?“考えすぎる病気”が若者を蝕む」
キャスターが笑顔で語る。
「最近は、精神科に足を運ぶ若者が本当に増えてますね〜」
「昔、スマートフォンが普及したときの“情報過多ストレス”に近いですかね?」
「今は、脳に直接インターネットを受信できますからね。
記憶に直接“情報”が流れ込む時代です」
「知る必要のない情報まで記録されてしまうのが問題なんですよね」
「なかには、“他人の記憶のようなものが見える”という報告もあって――」
「まるで、誰かの夢をのぞいてしまったかのような体験ですよ」
「この“過剰思考症”、ある種の“無意識汚染”かもしれません。
人類を不安定にする可能性があるという専門家もいます」
「薬物中毒のような状態に近いという説もありますね〜」
イサナはリモコンで音量を下げた。
ニュースの音声が静かになっても、言葉の残響だけが脳裏に残る。
ジジッ……ッ、ジ……ザー……ッ……
画面が一瞬、ノイズを走らせる。
視界が切り替わった。そこは、宇宙。
黒く広がる虚無の中、ひとつだけ小さく光る青白い惑星。
それは、地球のように見えた。
カメラのような視点が、宇宙船の中からその星をじっと見つめている。
言葉も音もない。ただ、その視点だけが存在している。
この映像は
誰のものでもない。誰に向けられたものでもない。
ただ、「あなた」にだけ届いている。
それが何を意味するのか。
今はまだ、誰にもわからない。