ユリ、綻び
夏休みに入った。
ユリはこの頃、一昨年の春に装丁したイヤミスをよく思い出す。
本の中に、こんなシーンがあった。主人公の女は浮気をした旦那を夜な夜な追跡し、嫉妬の挙句、浮気相手の目の前でその背中に深々と包丁を突き立てる。
そのシーンが印象的だったので、ユリは装丁案の一つに取り入れた。黒をベースとした写実的なデザインで、街灯のひとつだけ灯る路地裏に落ちたナイフがきらめいている。タイトルは血の色。天から白い花びら散らせ、存分に盛り込んだおどろおどろしさの中に、主人公の性格の派手さを表現したつもりだった。ユリ自身も気に入っていたため、採用された時は嬉しかった。
しかしながらユリは思ったものだ。小説家は「めり込ませた」という表現を使っていたが、女の細腕(主人公はモデルだった)で、包丁を「めり込ませ」るくらい深く刺せるものなのだろうか、と。
だがユリは今なら、夫への憎しみを持ってすれば、容易にそれができると確信している。
きっかけは、些細なことの積み重ねだった。ケイタを寝かしつけリビングで仕事をしていると、パチン、パチン……背後で規則的な音がする。
──また爪を切ってる。
このところ、夫のキョウヘイがやけに綺麗好きになったと感じていた。
それに、車に乗った時の違和感。ユリは運転をしない。週末はキョウヘイの運転する車でショッピングモールなどに出かけるのがお決まりになっているのだが、店に着き、降りようとした瞬間に気づいた。助手席のシートの位置がいつもより下がっているのだ。
次の週はさらに車内に芳香剤が設置され、洗車に行ったのか窓や車体がピカピカに磨き上げられていた。
さらに、夫は不自然なくらい饒舌になった。帰ってきた瞬間から今日の業務がいかに大変だったか、クレーマー気質の顧客の対応にいかに苦労しているかをまくし立てる。
彼は保険会社の営業職として働いていることもあり口達者だが、家庭内でペラペラと仕事のことを何でも話すタイプではない。
まだ付き合いたての頃、どんどん寡黙になっていくキョウヘイに気づき、自分に心を開いてくれているのだと嬉しかったのに。まるで他人に戻ったみたいだった。
決定的になったのは、キョウヘイのスーツの内ポケットから見知らぬピアスが出てきたことである。こんなところに偶然誰かのアクセサリーが入り込むなどありえない。陳腐すぎる、と思った。
──まるで安っぽい昼ドラじゃないの。
これは相手からの挑戦状と解釈してよいのだろうか。
──あの人、こんなに馬鹿だったっけ。
ユリは怒りよりも脱力感を覚え、その場にへたり込んだ。ありきたりの展開に微笑んでさえいた。裏切られたことに加え、こんな男を選んでしまった自分にも失望した。
平凡だけれど幸せな生活が、いとも簡単に崩壊してゆく──
適齢期に結婚し、すぐに妊娠、出産し、転勤族ながらも在宅ワークで家計を支え……自分の人生が、これまで通り順調に進んでゆくことを、疑ったことなど一度もなかった。
「不倫」や「浮気」なんていう言葉は、ドラマや小説、ネット上の人気ブログなど、至るところに溢れている。
それはつまり、絶対なる安全圏から他人の不幸を眺めることは、れっきとしたエンターテイメントだということを意味する。しかし自分の身に降りかかった途端、それは悲劇と化す。
──まさか、「当事者」になってしまうなんて。
夫への憎しみはその後、体の内側から徐々に徐々に膨らんできて、今にも破裂しそうだった。
それでも本人を責めないのはケイタのためである。キョウヘイが本気だったらどうしよう。離婚を切り出されたらどうしよう。
いくら手に職をもっているとは言っても収入は不安定だし、この先ずっと仕事をもらえる保証もない。シングルでやっていく自信はとてもなかった。
ユリは葛藤を、仕事に打ち込むことで忘れようとした。考えることを先延ばしにしたのだ。しかし仕事が一段落した時、限界を迎えたユリは、平常の精神状態であれば絶対にしない行動をとってしまう。
マミコ達に相談してしまったのである。