後編
週末の良く晴れた休日。結加は夏美にお茶へ誘われて外へ出ていた。
待ち合わせ場所は駅通りの喫茶店で、休日の店内はなかなか繁盛しているようだった。子供を連れた夫婦の姿や、主婦の集団が楽しそうに話をしている。
結加は先に来ていた友達の向かいに座ると、紅茶とケーキセットを注文した。そうして話しに花を咲かせる。最近見た映画の感想、流行と遊び、嵌っているものなどなど、ころころと話題が転がり最終的に竜太郎のとこへ行き着いた。
「あんたも大変だよねー。委員長に選ばれたばっかりに、今度は見回りに駆り出されるって? あちこち引っ張り凧だねぇ。委員長のことは前から苦手って言ってるし、一緒にやってけそうなの?」
「仮にも副会長だしね、頑張るよ。それに斉藤君が悪い人じゃないのはわかってるから」
困ったように笑う結加に夏美は苦笑すると、チョコケーキをフォークで丁寧に切って、美味しそうにパクつく。暫く幸せそうに口をもごもごさせていた彼女は、ケーキをごくりとやってから再び口を開く。
「じゃあさ、もっと慣れる為に委員長の良い所を探してくってのはどう? 何かある?」
「うーん、良いとこ……例えば、勉強も運動も当たり前に出来るように見えて、実は凄く努力してることとか?」
予習復習をしっかりしていると聞いた時には驚いた。だが、それも当然のことなのかもしれない。努力せずに何かを為し得られるはずがないのだから。
「それに年の離れた弟さんがいるせいか、意外と面倒見がいいんだよね。私が課題に唸ってたら、ヒントをくれて、スパルタだったけどわかるまで付き合ってくれたんだ」
放課後、結加が図書室へ寄った時のことだ。部活が休みだった彼も図書室にいて、たまたま顔を合わせたのだ。厳しかったが、とてもためになったのを覚えている。
「なんだかんだ言っても、重い物を持ってたら手伝ってくれるし、女の子には基本的に優しいよね。そう考えると、斉藤君を苦手に思うのって、申し訳ないかも……」
それまでを振り返りつつ話を続けたが返事がない。正面を伺うと、夏美は目を丸くして結加を見ていた。
「な、何? そんな顔して?」
「いや、あんたって委員長のことよく見てるんだなって思って」
「え……?」
「だってさ、それだけ言えるってことは、あんたが委員長のことをそれだけ知ってるってことでしょ? アタシ、あいつが勉強も運動も出来るのは何か当たり前の気がしてたし。考えてみれば、凄く失礼な話しよねぇ。だけど、委員長はそういうのを人に見せたくないタイプでしょ? だから、うちのクラスの大半が委員長をそう認識してるはずよ」
結加も副委員長になって竜太郎と言葉を交わさなければ、その大半の中に入っていたはずだ。そう考えると、何だかこそばゆいものを感じた。
(私だけが知ってることだったんだ。……何でだろう、また胸が熱い……?)
結加は自分の心臓に手を当てみる。ドクドクと脈打つ鼓動を聞いていると、頭がすっきりと冷静になっていく。竜太郎のことなのに、仄かな優越感でも感じているのだろうか? しかし、それにしては後味の悪さがない。その気持ちが何なのか突き詰めて考えると、何故か、滅多に笑わない彼の笑みを思い出して、一際大きく心臓が跳ねた。
その瞬間、結加はゴンッとテーブルに額を打ち付けた。
「うわっ、ちょっと大丈夫? あーあ、あんた額が真っ赤になってるよ?」
「……うん、大丈夫……」
自覚した気持ちに、結加は顔を上げられないまま頭を抱えた。
あれから数日。竜太郎に対する結加の態度はほぼ以前と変わらなかった。少なくとも周囲からはそう認識されているはずだ。以前は彼に恐々と接していたのが、今は意識し過ぎで、ぎこちなくなっているのだから、周囲にはわかりようもないだろう。
しかし、聡い彼のことだ。いつこの気持ちが伝わってしまうかも知れない。だから結加は出来るだけ早くこの気持ちに慣れて、隠してしまわなければいけなかった。
結加には最初から思いを伝えるつもりはない。竜太郎が自分をただのクラスメイトとしか思っていないことは目に見えていたし、伝えて変に困らせることもしたくなかった。それに何より、拒絶されたらと思うと情けないがそんな勇気はとても出なかった。
(大丈夫、きっとすぐに忘れられる。この気持ちは、まだそんなに大きくないから)
まだ後戻り出来る。結加はそう思うことで、自分の気持ちを閉じ込めようとしていた。
衣替えもすっかり終わり、日差しがきつく感じ始めた頃、放課後の見回り当番の日がやってきた。竜太郎には部活もあるので、二人は手早く終わらせるために二手に分かれて効率的に見回りを行っていくことにした。
結加は開いている教室に忘れ物や異物がないかをチェックして、次の教室へ移動することを繰り返し、最後に待ち合わせ場所である図書室へ向かった。
ふいに前方の部屋からドサッという物音がした。それから間を置かずに、怒鳴り声が続く。出所は結加の進む先、図書室だ。
「何、今の……? 喧嘩かな? ね、念のため、斉藤君に連絡しとこう」
しかし携帯を開く前に、叫び声がした。どこか聞き覚えのある声。結加は本能的な何かに従って図書室へ飛び込んだ。
その先には、三人の上級生がタバコを手に、一人の生徒を取り囲んでいる。髪を鷲摑まれた男子、それはクラスメイトの宮下だった。
「な、何してるんですかっ!」
結加の口から、悲鳴のような声が出た。暴力の匂いに足が竦み、震え出す。
(助けなきゃ……私は副委員長なんだ!)
力の限り拳を握り締めて、勇気を振り絞る。
「み、み、宮下君を、放して下さい!」
「馬鹿っ、危ないから逃げ……っ!」
「てめぇは黙ってろ!」
髪を掴んでいた相手に頬を殴られた宮下は背後の壁ぶつかり、そのままズルズルと崩れ落ちる。ピクリとも動かない様子に結加は小さな悲鳴を上げる。すると、いつの間にか近づいていた一人が結加へ手を伸ばしてくる。
(どうしよう、怖くて足が動かない……っ)
思わず身を縮れ込ませて、ぎゅっと目を閉じる。手の気配が首元へ近づいてくるのを感じて、絶望のあまりに泣き出しそうになった時、バンッと何かを叩きつけるような音がした。それと同時に低い呻き声が上がる。
はっと目を開くと、目の前に大きな背中が見えた。結加を守るように上級生と向き合っていたのは、竜太郎だったのだ。その先には自分に手を伸ばしていた男が腹部を抑えて倒れている。
「大丈夫か、佐々岡?」
「斉藤君……」
呆然とするばかりの結加に目を細め、その顔が再び前を向く。その全身から怒気が滲み出ているようだった。木刀の先を上級生に突きつけ、彼はゆっくりと構える。
「貴様等は三年か。喫煙の上に下級生への暴行とは愚の骨頂だな。恥を知れ、愚か者共が」
「てめぇ、オレ等に喧嘩売る気か?」
「ぶっ飛ばすぞ、こらぁ!」
「馬鹿につける薬はないな。黙ってこの刀の錆となれ!」
タバコを投げ捨てて、怒声を上げて突っ込んでくる相手を前に、竜太郎は落ち着いていた。木刀を前に構え、流れるような動作で、面を一発叩き込み、もう一人には下からの切り上げで顎を強かに打ち付ける。その間、僅か五秒の早業だ。
呻き声を上げて倒れこんだ二人はふらふら立ち上がると、もう一人をつれて図書室から逃げていく。
「ちくしょうが! 覚えてろよテメェ!」
「ザコの常套句だな。まったく骨がないにも程があるぞ。おい、宮下! いつまで気絶してる気だ? 貴様はさっさと保健室へ行け」
細く煙を上げるタバコを踏み消して、竜太郎は宮下の肩を揺すった。唸き声の後、彼はゆっくりと身体を起こす。その頬は腫れ、打ち所が悪かったのか、額からは血が出ていた。宮下は額を拭くと、情けなく眉尻を下げる。
「ったく、運がないな。図書の仕事をしてただけだってのに」
「日頃の行いが悪いせいだな」
「それを言われると否定出来ないわ。──副委員長、助けようとしてくれてサンキュな」
にかっと明るい笑みを浮かべた彼は、その弾みで痛んだ頬を押さえて出て行く。しっかりした足取りを見て、結加は安堵のあまりに足から力が抜けてしまう。ぺたんと床に座り込むと、今更になって涙が出てきた。
「どこか怪我をしたのかっ?」
「ちがっ、ごめ……なさいっ、私、副委員長なのに、宮下君も助けられなくて。その上、こんな、あ、安心して、泣くなんて……」
本当に情けない。仮にもクラスメイトを守るべき立場にありながら、結局怯えていただけで何も出来なかったのだから。今度は自分が恥ずかしくて、涙が止まらなくなる。
「愚か者! 誰も佐々岡にそんなことは望んでいない!」
「…………っ!」
険しい顔で怒鳴られて、結加は竦み上がった。竜太郎の目は本気の怒りに燃えていた。胸の痛みに、涙がまた一滴零れる。副委員長であること、それを自分だから選んでもらえたなんて、そんなこと一度も思ったことはない。けれどどんな理由であったとしても選ばれたからには、頑張ろうと思っていた。 しかし、それさえも否定されてしまった。だったら結加はどうすればいいのだろう。蓋をした恋心と、副委員長として認められない苦しみが結加の中で爆発した。
「だったら、五日なんて理由でどうして副委員長を選んだりしたの! どうして……!」
涙混じりの声で叫ぶ。そうして目を見張っている竜太郎を強く睨む。一度口をついて出た思いは止まらず、溢れる。
「私はっ、確かに役に立たない副委員長かもしれない! 特別勉強が出来るわけじゃないし、運動神経だって良くないし、クラスメイトも、満足に助けられない……っ! 斉藤君からすれば、お飾りの副委員長に見えるかもしれないっ。だけど……それでも私は、副委員長なんだよ! 目の前でクラスメイトが殴られて、それを助けなきゃって思ったのは間違ってないもの!」
胸が苦しくて、まるで刀に切り刻まれたように痛む。俯いて、止まらない嗚咽を何とか止めようとしていると、両肩にふわりと大きな手が乗せられた。
「……すまない、悪かった。土下座でも何でもする。何度でも謝るから、顔を上げてくれ」
「嫌……っ」
乗せられていた手を振り払い、そのまま立ち上がって逃げようとすれば、右腕を掴まれて阻まれる。
「頼む! 話を聞いてくれ!」
その語尾は激情を抑えるように上ずっていた。結加は頬を濡らした涙を手の甲で拭い、避けていた視線をそっと竜太郎へ向ける。彼の目は苦しそうに揺れていた。
どうしてこんな目をするのだろう。まるで竜太郎の方が深く傷ついているようだ。どうしようもなく心は揺れる。竜太郎の言葉を信じたいのに、不安がそれを許さない。
(……これ以上、傷つきたくないよ……だけど……)
結加は、抵抗するのを止めた。怖くても逃げたくはなかったのだ。それを感じ取ったのだろう。竜太郎はぐっと目を閉じて、その場で両膝をついた。そして、結加の両手を自分の両手で優しく包み込むと、真摯にこちらを見上げて、口を開いた。
「『五日だから』オレはそう言って、たまたま佐々岡を副委員長に指名したな? だけど本当は偶然なんかじゃない。何故なら、オレは最初から相手は佐々岡に決めていたんだ。ずっと────お前が好きだったから」
「…………っ」
それは予想もしていなかった言葉だった。ぎゅっと握られる手は火傷しそうに熱い。苦しそうな目の奥に狂おしいまでの慕情が見えて、結加の胸は予感を伝えるように跳ねた。
「お前はオレを知らなかっただろうが、オレは一年の時からお前を知っていた。一年前、お前は小学生を不良から助けただろう?」
言われてみれば、記憶に蘇るものがある。一度だけ、駅前でカツアゲをされていた子供を助けたことがあった。警察を現場に連れて行き、泣いていた男の子を慰めるくらいしか出来なかったが。
「あれはオレの弟だ。弟から話しを聞いて以来、オレはずっと佐々岡を見ていた。何事も一生懸命で、怖がりなくせにけして逃げない、そんなお前を。最初は見ているだけで満足してた。だが同じクラスになり、オレに委員長の椅子が回って来た時、どうしても我慢できなくなった。隣に立つのは佐々岡であってほしい。オレはそう望んだんだ」
「ほんと、なの……?」
真意を見極めようと一心に彼を見つめると、竜太郎は苦く笑って頷いた。
「オレはお前には二度と嘘はつかん。今回の件で懲りたからな。佐々岡を思わず怒鳴ってしまったのも、全部お前が心配だったからだ。怪我をするような無茶をさせたくなくて、きつい言い方をしてしまった。悪かった。佐々岡をこんな風に傷つけるつもりじゃなかったんだ。誤解をさせて申し訳ない」
「信じて、いいの?」
「信じられないなら何度でも言おう。佐々岡が好きだ。無理やりでも傍に置きたいと思うくらいに」
剣道で面を一発決められたような熱烈な愛の告白に、顔が熱くて頭がぼうっとしてくる。
恥ずかしさと嬉しさで目を潤ませる結加に、立ち上がった竜太郎が突如にやりと笑う。その黒い笑みに背筋に寒気が走る。
「あ、あの、斉藤、くん?」
「返事はまだいらんぞ。オレは諦めが悪い男だからな、覚悟しておけ。全力で口説く」
しっとりと濡れた竜太郎の目に射抜かれて心臓が走り出す。その瞬間、悟る。今まさに、結加の心は竜太郎に捕まってしまったのだ。
最後までお付き合い頂きまして、ありがとうございました! 不器用な二人を通して何かを感じて頂けたなら幸いです。