図書館
庭の秋桜が、ピンクと白の花を満開に咲かせた後、長雨が降った。
花びらに降り注いだ長雨は、ゆっくりと秋桜の茎を地面に押し倒していった。
夫は仕事が忙しいのだろう、あれから連絡はまだ来ていない。
少し前に叔母から聞いた『軍に勤める者を伴侶にしたら、先に墓石を用意しておけ』というあの言葉が、今日も頭から離れない。
もし今、任務中に何か起きたら。
その時、わたしに、連絡は来るのかしら。
夫に何かあった時、連絡はしてもらえるのかしら。
そういえば、軍人の方が亡くなった時、お墓はどうなるのかしら。
軍の共同墓地なのか、それともそれぞれの家に帰ってきてくれるのか。
——わたしは、軍人の方に嫁いだのに、何も知らない。
「奥さま! 涼しくなったし、天気もいいし、たまにはお出かけしましょうよ!」
そんな時、メイドのチェルシーがわくわくした顔をして、一冊の雑誌をわたしに差し出した。
月刊令嬢。
夫と結婚する直前に、チェルシーから借りて読んだ雑誌だ。確かあの時の特集は「初夜の晩に言われた最低言葉ランキング」だった気がする。
「今月の特集は『王都で見つけたイケメン店員五選』です!」
「イケメン店員五選……?」
「はい! その名の通り、イケメン店員を紹介する特集なんですけど」
「チェルシー。あなた、何て雑誌を奥さまに見せてるの」
呆れた声で、お茶を運んできたシェリルが割り込んだ。
「いいじゃないですか! ね、見てくださいよ、カフェ!」
チェルシーが雑誌のページを開いて指差す。
そこには、王都にある一軒のカフェが紹介されていた。
『ミルクコーヒー色の髪をした甘い笑顔の王子さま店員がいる店。店主が入れるコーヒーと、ハニートーストが美味しいお店』
「奥さま、本を読むのがお好きでしょう? 近くに本屋と図書館もありますし!」
「でも、わたし別にイケメン店員さんに興味は……」
「眼福ってやつです! 本を選んでご飯を食べて、店員さんはついでです!」
「だけど、旦那さまにご確認しないと……」
「アーロンさんに聞けば大丈夫ですよ。さあ、カフェでぱーっと!」
シェリルがため息混じりに茶器をわたしの前に置いた。
「チェルシー。カフェはぱーっとする場所ではありません」
けれど、シェリルはすぐに少し考える様子を見せて、わたしに言った。
「奥さま、カフェのお話は一旦置いておいて、久しぶりに外出をなさるのは良いのではないでしょうか。こちらに嫁いでから、ご実家に顔を見せに行かれる以外に、どこかにお出かけもされていませんし」
「それは、そうだけど……」
夫は、仕事中なのに。わたしだけ、外に遊びに行くようなものではないかしら。そう、考えてしまう。
「奥さま、何か読んでみたい本とか、知りたいこと無いんですか? ほら、前にご実家で読んでた本の新刊とか、出てるかもしれないですし」
チェルシーの何気ない一言が、わたしの中で響いた。
知りたいことなら、ある。
誰にも言えないし、誰にも聞けない。
——もし、あの人が、仕事中に亡くなってしまったら。その時、私は何をしたらいいのか、なんて。
「……奥さま?」
チェルシーの怪訝そうな声に、はっと我に返った。
「ううん……そうね、図書館に行こうかしら」
図書館に行けば、夫が仕事中に亡くなってしまった時に何をしたらいいのか、調べられるかもしれない。
執事のアーロンであれば、もしかしたら何か知っているのかもしれないけれど。
だけど、アーロンも、メイド長のマリサも、シェリルとチェルシーも、夕方、夫が帰って来ていた時間になると門の方角をよく見ている。
みんな、夫が帰ってくるのを待っている。
そんな中で「夫がもし、仕事中に亡くなってしまったら、わたしは何をしたらいいのかしら」なんて聞けるはずもない。
「図書館に行くわ」
夫を待つ皆がいるこの家で「夫が殉職した時の手順」が書かれた本を読む訳にはいかない。
だけど、図書館で調べるぐらいなら。
思えば、夫は「聞かないでほしい」と、結婚した日に言ってくるような危険な仕事をしている人だ。
もっと早く、考えておくべきだったのだと思う。
「では、天気を見て、晴れた日に参りましょう」
「わたしも行きます!」
シェリルが微笑み、チェルシーが手を挙げた。
「あなたはカフェ目当てでしょう、まったく」
「でもシェリルさん、みんなで行った方が楽しいじゃないですか!」
チェルシーの楽しそうな声を聞きながら、わたしはそっと息を吐いた。
◇◇◇
結婚してから、久しぶりの外出になる。
シェリルが秋物のアイボリー色のワンピースを選んでくれた。足元は歩きやすいようにと、柔らかな革製のローヒール。
髪は片側で緩くまとめて、アクセサリーは真珠のイヤリングと結婚指輪。
「わぁ、奥さま、綺麗!」
チェルシーが出かける準備ができたわたしを見て、目を輝かせた。
「そうかしら。ありがとう、チェルシー」
「奥さま、参りましょう。アーロンが馬車を用意してくれていますわ」
シェリルが日傘をわたしに差し掛けながら言った。
秋晴れの太陽は夏の日差しと違って、午前中でもどこかオレンジ色がかっている気がする。
「では、奥さま。お気をつけて、いってらっしゃいませ」
アーロンとマリサに見送られて、シェリルとチェルシーと一緒に馬車で図書館に向かった。
馬が馬車を引く静かな揺れが、体に伝わってくる。
「チェルシー。奥様のご好意で、カフェに寄っていただけることになったけれど、礼儀を忘れては行けませんよ」
向いに座るシェリルがチェルシーに言い聞かせている。他所行き用のメイド服を着たチェルシーは目を輝かせて大きく頷いていた。
「わかってます! 楽しみだなあ、イケメン店員」
「あなたねえ、言ったそばから……申し訳ありません、奥さま」
「ふふ、いいのよ。たまには、羽を伸ばしましょう」
シェリルとチェルシーの話し合う声が、空気を明るくしてくれる気がした。
久しぶりに来た王都の図書館。最後に来たのは、結婚する前だったから、もう半年ぶりになる。
平日だからか、図書館は人が少ない。
チェルシーは以前読んでいた本の最新巻がないか探しに行ったし、シェリルはわたしのそばを離れるのを少し気にしていたけれど、インテリアの本を見たいと席を外している。
図書館で、本棚に並べられている本の表紙をゆっくりと確認する。軍法に関する本棚の場所は、端の方にひっそりとあった。
『陸軍人事規則集』
分厚いその本は、開くと小さな文字で軍の規則に関する内容がびっしりと書かれていた。
ページを捲る。
「訓練中の事故、災害派遣時の被災、その他任務遂行中の事故など、公務災害と認定されるもので軍官が死去した場合……」
——これ。
「軍官が公務中に死亡した場合、その遺族は軍が指定する共同墓地への埋葬、または遺族が希望する墓地への個別埋葬を選択することができる」
「共同墓地……」
あの人は、どちらを選ぶのだろう。
小さく声が漏れた。
「……ちゃんと、確認しておけばよかったのかな」
——お墓の場所を?
そんなの、聞けない。聞けるわけがない。
……そんなこと聞きたくない。だって。
「……あの人は、ちゃんと帰ってくる」
『明日の朝に会いましょう、可愛い子』
押し込めていた記憶が、不意に蘇る。
「……大丈夫、あの時とは違う」
微笑んで、頭を撫でてくれた母さまが、帰ってこなかったあの時とは違う。
コツコツコツコツ。聞こえてきた足音に、わたしは慌てて本を閉じた。
「奥さま、いい本ありました? わたし、読んでた小説の最新刊見つけました!」
「チェルシー」
チェルシーが鮮やかな表紙の小説を嬉しそうに胸元に持って立っていた。
「よかったわね。わたしは、まだいい本が見つかっていなくて。シェリルは?」
「シェリルさんは、インテリアの本を熟読してました!」
「そうなの。時間はまだあるから、チェルシーもゆっくり見てね」
「わあ、ありがとうございます!」
チェルシーが「違う本を見てきます!」と笑顔で通路を歩いていくのを見送って、わたしは小さく息を吐く。
そしてタイトルの『陸軍人事規則集』を、指先でそっとなぞった。
この本を、借りて帰ったら目立つわよね……それに、使用人のみんなは、夫が帰ってくるのを待っている。
——妻のわたしが、夫が死んだ時のことを考えているなんて、絶対、誰にも言えない。
「また、来ればいいわよね……」
そう、図書館なの。だから、また、来ればいい。
わたしは本棚に『陸軍人事規則集』を戻して、立ち上がった。
それよりも、何か家のためになる本を探そう。夫が帰ってきた時に、作りたいお料理の本とか。
夫が死んだ時の本を探しに来て、その次に夫が帰ってきた時のことを考えてる。自分の中の矛盾に、心のどこかが少し、ちくりとした。
長くなったので、切りました。




