墓石
夫が帰ってこなくなって、ふた月が過ぎた。
その間には一度だけ、軍服を着た夫の部下を名乗る人が、夫からの手紙を持って家を訪れた。
夫からだと手渡された封筒は薄くて、入っていたのは便箋一枚。
「体調は崩していませんか。まだしばらく帰れません。何か困ったことがあれば、執事に相談を」
宛名も季節の挨拶も署名もない、角ばった丁寧な文字で書かれていたのは、それだけだった。
部下の方から「ご負担にならなければ、少佐への返事をいただけますか」と言われて、わたしは慌ててペンを取った。
何を書いたらいいんだろう。要件だけの差し障りのないこの手紙に。まるで、誰が読んでも構わないような。
——そこまで考えて、手が止まった。
誰が読んでも差し支えない手紙。
部下の方がこうして直接持って来てくれなければ、書いたのが夫だとも、渡す先がわたしだとも、わからない手紙。
きっと、宛名も署名も、書けないのだろう。
誰が読んでも大丈夫なように。
じゃあ、わたしは。
文字が震えないように力を込めてペンを握った。
「皆、元気です。今のところ、困っていることはありません。お身体にお気をつけて。お帰りをお待ちしております」
本当は、もっと書きたい。
「あなたは元気なの?」とか「今どうしているの」とか「今どこにいるの」とか。
でも……きっと、書いてはいけないのだろう。
返信を書いた封筒を受け取った部下の方は「必ず少佐にお届けします」と、敬礼をして帰っていった。
あの手紙を見て
夫はどう思うんだろう。
冷たい妻だと思ったかしら。
もっと、違うことを書けば良かったかしら。
夫に届くことを考えた後、ふいにそんなことを思ってしまって。
字は綺麗だったかしら。書き間違いはなかったかしら。
やっぱり……「あなたが怪我をしていないか心配です」と、一言書けば良かったかしら。
夫が帰ってこない時間を過ごすうちに、暑い夏は終わり、季節は秋に変わった。
次の手紙は、まだやって来ない。夫の部下も、誰一人訪ねてこない。
庭では夏の花ではなく、庭師がいつの間にか植えていたコスモスが成長し始めていた。
そんな時、わたしの元に一通の手紙が届いた。それは隣国に嫁いだ父の妹からのもので、見慣れた筆跡で「久しぶりにそちらの国へ行くから、ぜひ会いましょう」と書かれていた。
叔母はわたしにとって、母に近い存在だ。
幼い頃、母を事故で亡くしたわたしを、叔母は何かと気にかけてくれていた。
叔母もまた、隣国の伯爵家に政略結婚として嫁いだ人だったから、何か思うところがあったのかもしれない。
手紙には「ぜひ新居を見てみたい」とも書かれていたから、執事のアーロンに確認してみると「奥様のご家族でしたら、ぜひ」と、返答をもらった。
◇◇◇
それから二週間後、コスモスの花が咲き始めた頃。
記憶と変わらない溌剌とした笑顔を見せる叔母が、家を訪ねてきた。
黒い日傘を付き人に持たせ、黒い蔓薔薇が一面にかかれた長いシルクのワンピースを着ている叔母は、最後に会った一年前から何も変わっていないように見えた。
「久しぶりね、私の可愛い姪っ子ちゃん」
赤い紅を塗った唇をほころばせて、叔母は出迎えたわたしを抱きしめた。
「少し痩せたんじゃない? きちんとご飯は食べているかしら? 夜はしっかり眠れてる?」
「ええ、叔母さま。わたしは元気よ」
顔を覗き込んで、わたしを質問攻めにする叔母の様子に——心配されていることに、少し嬉しくなる。
「叔母さま、公爵さまはご一緒ではないの?」
わたしが尋ねると、叔母は肩を小さくすくめた。
「途中まで一緒にきたけれど、夫は別の商談先に行っているわ。久しぶりに会うんだもの、女同士で話したいじゃない?」
応接室のソファに座った叔母は、お茶を運んできたシェリルに目を留めて声をかけた。
「あら、シェリルじゃない。久しぶりね」
「お久しぶりでございます、ローセイン公爵夫人」
シェリルは十二歳の頃から、わたしのそばにいてくれるメイド。実家でもいつもそばにいたから、叔母も顔を覚えていたのだろう。
シェリルの入れたお茶を一口飲んで、叔母が言った。
「結婚式には参加できなくてごめんなさいね。どうしても、夫に同行しないといけない仕事があって。そうそう、これ、結婚祝いよ」
叔母は結婚祝いの銀食器を控えているシェリルに渡した後、応接間をぐるりと見て、「暮らしやすそうな良い家ね。結婚生活はどうかしら」と私に尋ねた。
「兄さんがあなたの夫に軍人を選んだのは驚いたわ。てっきり、侯爵家と繋がりの強い貴族の家に嫁に行かせるのかと思っていたから」
ええ、わたしもそう思っていました。
「急ぎの結婚でしたものね。旦那さまとは上手くいっているかしら? 無理はしていない?」
そう尋ねた叔母に、わたしは一瞬言葉が出なくなった。
「夫は今、長期のお仕事で、帰って来ないの」
「あら……」
叔母は整った眉を少し動かした。
「軍人ですものね。戦時中ではないにしろ、そういう日もあるわよね……新婚とはいえ、仕方がないことなのかしら」
そういえば、と叔母はふと思い出したように言う。
「この国の古い言葉に『軍に勤める者を伴侶にしたら、先に墓石を用意しておけ』っていう言葉があったわね」
「……何、それ」
「使われていたのは、あなたのお祖父さまが政治家だった頃ぐらいかしら? まだ隣国との小競り合いが続いていた頃の話だけど、一度出兵したら帰ってこられるのは墓に入る時だけ、ってこと」
慌てたように、叔母は片手を振った。
「実際に用意しろってことじゃないの、たとえ話よ。それぐらいの心構えが必要だってこと」
心構え。
父に言われるままに結婚したわたしに、そんなものはあったかしら。
わたしは今、夫の帰りをただ待っているだけの妻で。
夫がどんな仕事をしているのかはわからない。だけど、初夜に「何も詮索しないでほしい」と言うぐらいなのだから、それだけ危険な任務なのでしょう。
わかっては、いたけれど。
『いってきます』
そう言って軍服を着て家を出て行った、夫のまっすぐな背中を思い起こす。
もうすぐ、結婚して三ヶ月。
共通の友人もいない。夫の仕事の都合で、披露宴も行ってない。何より、夫の部下に来てもらわない限り、連絡もつかない。
あの人とわたしが夫婦だと示すものは、わたしの左指につけた指輪と、家と、名字だけ。
夫が帰ってこないかもしれないって、どうして思いつかなかったのだろう。
「そんな顔しないの! そう言われていたのはあなたのお祖父さんの時代だって言ったでしょう? それに、兄さんがあなたの夫に選んだ人よ、簡単にくたばったりしないわよ」
「そう、よね……」
わたしと向き合って座っていた叔母は、立ち上るとぐるりとソファの周りを回って、わたしの隣に座った。そしてわたしの両肩を持つと、真剣な顔をしてわたしを覗き込む。
「それより! あなたはよく食べてよく眠りなさい。最後に会った時より、ちょっと痩せたんじゃないかしら?」
「そんなことないわ」
「本当に? あなた、変なところで真面目なんだから。旦那さまが帰ってくるまで、それなりに好きに過ごしていいのよ? どうせ帰ってきたら、夫に合わせる生活になるんだから」
「……そういうものかしら」
「そういうものよ。うちの夫もそう。いないと物足りないけれど、ずっと一緒だと羽を伸ばしたくなることもあるわ」
叔母は思い出したように続けた。
「結婚してから、実家には時々帰ってる? 兄さん、ああ見えて寂しがり屋だから、あなたが顔を出したら喜ぶわよ」
叔母の言う「兄さん」はわたしの父のことだ。
幼い頃の母のお葬式でも、涙一つ見せなかったあの厳格な父が、寂しがり屋だとはどうも思えなかったけれど。
「旦那さまも仕事中なのでしょう? たまには、実家で兄さんと一緒に、ゆっくりご飯を食べてもいいんじゃないかしら。お洒落して外食も良いと思うし。あ、そうだわ。今、あちらの国で流行っているワンピースのデザインがあってね……」
叔母は空気を変えるように、隣国で流行っているというドレスやワンピースの話をはじめた。
いつもなら、きっと叔母の話を楽しく聞いていたんだと思う。
だけど心構えという言葉が、わたしの中で小さな棘のように残って消えない。
「あら、もうこんな時間。そろそろ、今日泊まる宿に向かわなくちゃ。夫も仕事が終わっているだろうし」
叔母が壁にかかっている時計を見上げて言った。時刻はもう夕暮れだ。
「明日は実家に顔を出すつもりなの。それから、夫と一緒にこっちの商会と、少しだけ商談をして、あと……」
叔母は静かに微笑む。
「義姉さんのお墓参りをしてから帰るわ」
わたしの記憶の中で、亡くなった母と叔母は、本当の姉妹のように仲が良かった。
「義姉さんに、旦那さまは紹介した?」
「いいえ、……夫の仕事が忙しくて」
半分嘘で、半分本当。
夫が休みの日に、お願いして亡くなった母のお墓参りに一緒に行ってもらえないか、頼むことはできたけれど、あの穏やかな空気を壊したくなくて。
結局言い出せないまま、夫は長期の仕事に行ってしまった。
「そう。早めに義姉さんに紹介してあげなさいな。義姉さん、きっと喜ぶわ」
立ち上がった叔母は、まだ向かいのソファに座っていたわたしの頭をそっと撫でて言った。
「次は隣国に、旦那さまと一緒に遊びにいらっしゃい」
帰る直前、馬車に乗り込む前に叔母がぽつりと言った一言が、やけに耳に残った。
「兄さんの選択が間違っているとは思わないけど、あなたの夫は、軍人じゃない方がよかったかもしれないわね……」




