見送った背中
鳥の鳴き声が、小さく聞こえて目が覚めた。
目に映るのは、ようやく見慣れた寝室の天井。
ふと、耳より少し上の位置で、静かな呼吸音が聞こえることに気づく。
それと一緒に、何かとても温かな感触が、わたしを包んでいた。
ゆっくりと顔を向けると、間近にある黒い髪。伏せられた黒い長いまつ毛と、整った顔立ち。
シャツを着ている時にはわからなかった、見かけよりもずっとたくましい腕が、わたしの背中に回されていた。
——結婚した次の日から、ずっと帰って来なかった夫が隣にいる。
「ん……」
身じろぎした夫が、少し腕に力を込めてわたしの体を引き寄せた。寝間着を透して伝わってくる体温に、みるみる自分の顔が赤くなっていく。
自分の体を熱く感じるのは、夫の体温が高いから? それとも、わたしの体温が上がっているから?
わからない。だけど……もう少し、このままでいたいと思うのは、わがままかしら。
夫の整った寝顔を見つめていると、閉じた瞼が小さく震えた。
そのままゆっくりと目を開けた夫は、眠たげな表情のまま、わたしを見て小さく微笑んだ。
「おはようございます」
「おはようございます……旦那さま」
夫が大きな手を伸ばして、わたしの顔にかかった髪をそっと払って、その手が止まる。
「あ、いや、すみません、その…」
距離の近さと、わたしを抱きしめている状況に気づいた、夫の黒い目が揺れた。
そのまま動きを止めた夫が、狼狽えた声を出した。
「申し訳ない、こんなに近づくつもりは」
「いえ……いいえ」
わたしはそっと視線を下げて小さな声で答えた。
「……わたしたち、夫婦ですもの」
◇◇◇
それからしばらくは、とても穏やかな日々が続いた。
私を避けていたと言った夫は、これまで帰って来なかったことが嘘のように、夕方か、遅くても月が空に登る頃には家へ帰ってくるようになった。
実家の食堂よりも、ずっとこじんまりしている食卓テーブル。何を食べているかもわかる距離。
目が合うたびに、口元で少し微笑んでくれる夫と一緒にいられるのが嬉しくて。
庭に小さなピンクの薔薇が咲いた、雨上がりの日。湿った土の上を、二人で散歩をしながら一緒に歩いた。
手は繋がなかったけれど、同じ速さで隣を歩いて、同じ景色を見た。
夫は仕事で野営をした経験から、料理ができる人だった。休日には時間をかけてビーフシチューを作ってくれた。
わたしが実家から持参した母の形見のピアノ。それを夫の希望で奏でた時、夫は珍しく少し悩んだ顔をしていた。
「素晴らしいと思います。ただ、音楽については知識が乏しくて。なんと言えば良いのかがわかりません」
真面目な顔をして、演奏家でもないわたしのピアノの音に、そんなことを言うから。
思わず笑ってしまったわたしを見た夫の表情が、どこか不貞腐れた子供みたいに見えて、何だかくすぐったい気持ちになった。
時々、実家経由でお茶会やパーティの招待状を貰うこともあった。だけど、夫婦そろって招待されているものは、夫の仕事の都合で出席できない。
一人で出席できるものについては、夫にわたしの裁量で出席して構わないと言ってくれたけれど、それよりも夕方に帰ってくる夫を出迎える方が好きだった。
わたしと夫の関係が、夫婦と呼べるものなのかは自分でもわからない。それでも、一緒にいられるのが嬉しくて。
思い返せば、この時が一番幸せだったのかもしれない。
わたしはまだ、結婚初夜に夫から言われた言葉の本当の意味を、わかっていなかった。
◇◇◇
それは、梅雨入りの初め。夫と夕食を食べている時だった。
庭に植えてある紫陽花が咲いていたとか、王都の本屋に新しい本が入荷されたとか、そういうたわいもない話に一区切りついた時だった。
夫が表情を消して、真っ直ぐにわたしを見た。
「……お仕事、ですか」
「はい。今回は長期任務になります。戦地に行くわけではありませんが、しばらく戻れません。それから」
夫が一瞬黙った後、言葉を続けた。
「任務の内容は軍の機密に関わりますので、お伝えすることはできません」
結婚してはじめて二人で話した夜に、夫が言っていたこと。
外で会っても話しかけない。何かあれば、他人のふりをする。
仕事の内容は、機密情報だから何も話せない。
長期間、屋敷に帰れないこともある。
そして、結婚指輪はつけられない。
わたしの左薬指だけにある銀色の指輪。
夫の指には、何もはまっていない。
あの時は、「そういうもの」だと思って頷いたけれど、どうしてだろう。今はそれが、重くて苦しい。
ねえ、どこに行くの。
いつ帰ってくるの。
戦場じゃないといったけれど、あなたに、危険はないの?
それを尋ねてはいけないのを、わかってはいるけれど。
「お手紙だけでも、お送りすることはできますでしょうか」
「できません……いえ」
短くそう言った夫は、しばらく黙ったあと、
「……部下を、定期的にこちらに向かわせます。もし、何か伝えることがあれば、手紙にしていただければ。返事ができると約束はできませんが」
きっと。
どの部下の方が来るのかも、どれぐらいの頻度で来られるのかも、尋ねることはできないのだろう。
これが、軍人の方に嫁ぐということ。国のために命をかける夫の背中を見送ること。
「……わかりました」
美味しかったはずの食事が、急に味気なくなって。
明るかったはずの照明が、突然一つ暗くなった気がして。
今、わたしは。
国を守るっている方の妻として、ちゃんと笑えているかしら。
「おかえりをお待ちしております。どうか、ご無事で」
——次の日の朝、いつものように朝食を二人で食べた。そのあと、夫は黒い軍服に身を包み、「何かあればアーロンに相談してください」と言って、家を出て行った。
いつ帰るかわからない夫を待つ時間は、一言で言えば、とても暇だった。
結婚してからの、あの夫が帰ってこなかった二週間よりも、ずっと一日が長くて。
思い返せば、夫が家に帰ってくるようになってからは、毎日、どこか忙しかった。
料理人と夫が喜びそうな夕食のメニューを一緒に考えたり、チェルシーに選んでもらったディナータイム用のワンピースに着替えたり、シェリルにお化粧を直してもらって夫の出迎える準備をしたり。
その時間が全部、必要なくなってしまった。
実家にいた頃は、マナーや一般教養以外にも、他国の語学、領地経営、どこの貴族に嫁がせても問題がないようにと、家庭教師をつけて勉強していた。
それが、社交界から距離を置く軍の方に嫁ぐなんて、本当に人生って分からないものだと思う。
わたしに淑女教育を教えてくれた家庭教師からは、「夫を支える良き妻になりなさい」とよく言われたけれど、支える夫が帰ってこない時は、どうしたらよいのだろう。
あまりに手持ち無沙汰なわたしを見かねたのか、マリサがレース編みに誘ってくれた。早速、ダイニング用のテーブルクロスを作ってみたけれど、こじんまりしたテーブルだからか、二週間で完成してしまった。
マリサから「高級店で売っているテーブルクロスかと思いました!」と派手に褒めてもらえたのは嬉しかったけれど、家中をレース編みで飾るわけにもいかない。
今度は、シェリルに勧められて、刺繍をすることにした。
小さめの額縁に入るサイズで、国の神話に出てくる狼を刺繍してみたけれど、それも三週間で完成してしまった。
シェリルに見せると、「家宝ができましたね!」と大袈裟に褒めてくれた。
レース編みも刺繍も終わらせてしまって、何をしたら良いかわからなくなったわたしに、執事のアーロンから、屋敷の内装を変更しないかと提案を受けた。
この結婚は、夫にとっても突然決まったもので、急いで家を探したこともあって、内装にまで気を配れなかったのだとアーロンは言った。
「よろしければ、奥さまが過ごしやすいように、内装を決めていただけませんか? もちろん、私たち使用人もお手伝い致します」
内装を決めること。それは何だか、とても妻らしいことのような気がして。
わたしは、帰ってくる夫のためにも居心地の良い内装にしようと、部屋の模様替えをはじめた。
夫と付き合いの長いアーロンやマリサに、夫の好きな色を聞いて、小物の色を統一してみたり、カーテンを夏向きの涼やかな色に変えてみたり、廊下に飾る絵画を選んだりした。
ただ、「夫を支える良き妻」になれた気がしたのはその一時だけで、すぐに屋敷にある全部の部屋の内装を変え終わってしまった。
あとは月ごとに季節ものを少しずつ入れ替えていけばいい。
そんな時間を過ごしながら、時々、玄関の方に視線を向けるわたしへ、アーロンが気遣うように言った。
「大丈夫ですよ、奥さま。旦那さまは以前にも長期の任務で家を空けられたことが何回かありましたが、ピンピンして帰ってこられましたから」
夫は優秀な人。それはわかっている。それでも、この不安な気持ちが簡単に消えることはなくて。
薔薇の季節が終わり、夏の花が咲く庭を一人で日傘を差して歩きながら、不意に頭によぎったことを打ち消した。
あの人は、本当に帰ってくるのかしら。
夫は言っていた。戦場に行くわけではないと。
だから、そんなすぐには。
だから。
滲みそうになった涙を、瞬きで押し留める。
——ピアノは、夫が仕事で家に戻らなくなったあの日から、一度も弾けていない。




