第十三章 どっちが。
霧。或いは雲か。
結局は同じだと聞く。出来る高さが違うだけ。
どうしてか闇雲という言葉が浮かんだ。
宙空にぷかりと漂う白い煙は、甘ったるい香りを辺りに撒き散らしながら、華英の眼前から消えた。タバコの煙は嗅ぎ慣れている。けれどこれには馴染みがなかった。
専用の吸入器だろうか。お目当ての物が口の動きに合わせて上下に揺れ動いているのに、何も出来ないでいる。煙草の煙より量が多く煙たい。
その奥にある瞳から、表情から、どこか陶然としている。
「お久しぶりです北条先輩。とりあえずその足、どけてくれませんか?」
その足はぐりぐりと何かを探っている。
その間、華英はだらりと垂れ下がったクロスボウを見やる。一見するとおもちゃにしか見えないそれ。黒光りするボディとちゃちな矢。手を伸ばせば届きそうな距離にあって、だからこそ恐ろしい。自分は何とでもなるだろう。いくら殺傷力があるからといって相手は素人。クロスボウを打ち慣れている人間が世にどれだけいるのか。避ける――以前に打たれる前に襲い掛かる。それでいい。勇気さえあればできる。可能だ。例え華英じゃなくたってできる。自分には勇気があって土壇場の経験もある。だからもっとできる。
けれど脳内でいくらシミュレートしてもその下にいる園の存在がそれを阻む。
やがて何かを探り当てたようだ。ポケットにつま先を差し入れたかと思えば、親指の先に紐を引っ掛け、ひょいと空中へ蹴り上げた。クロスボウを持っているのとは別のもう片方の手でキャッチする。
ポケットの異様な厚みは不自然に思われたか。出現したのは無骨なデザイン。
黒い、手のひら大のスタンガン。
「すごいですね。中国雑技団みたい」
「一人暮らしすると足癖悪くなるの。床に落ちた物全部こうやる癖付く。いずれ分かると思うな」
「そうですか。ところで」
相手が萎縮する音――、というのはこういうもののことを言うのだろう。青い稲妻と共に爆音を放ったチープなつくりの箱。それの一体どこにそんなエネルギーがあるのか。現在国内で流通する物の中でも最強クラス。
らしい。
絶対にいらないと華英は言った。万が一の威嚇にしてもやり過ぎだと。もうちょっと自分を信頼してくれてもいいのにと。
園は過剰防衛なところがあると思う。怖がり。ジレンマハリネズミ。自分の針利用されてどうするのだ。今のあなたにはわたしだけでいいのに。
「北条先輩」
優しく問いかけた。
クロスボウを向けられ、華英は両手を挙げる。どうしてこんな物を、何をして、だとかいろいろ云うことあるだろうに。こちらの出自を知っての過剰防衛――ではない。華英の人生が告げる。
この人は危うい。危ないじゃなく、危うい。
いろいろな人を、それこそ、上から下まで華英は見てきた。その華英の直感が警鐘を鳴らしている。あんまり突っついちゃいけない人だと。そして、明らかに慣れている者の動き。
「ぐ」
園が呻き声を上げた。
スタンガンを蹴り上げた足は今首に乗せられていた。こちらは危ない。僅かでも華英が何かやろうとしたら、弾みで園が死ぬか、集団食中毒で当たりを引いた哀れな誰かさんみたいに昏睡に陥るか知れない。
改めて相手を上から下まで見やった。
はじめて見た時は、ぼさぼさの髪で、制服はなんだか埃っぽくて、白だから埃は余計に目立って、その上皺が寄り、猫背で、ぼそぼそ話す。言ってることの半分も伝わってこない。そんな印象だった。言葉にはしなかったが、みすぼらしい人だなと華英は思った。
今は違う。
脚はすらりと長くしなやかで、筋がはっきり見えており、筋肉があるのが分かる。お腹やおへそや腕回りは華奢で骨ばっているが、ぼさぼさの髪と、そこから覗く例の陶然とした瞳、口から吐く煙により、不健康さが却って独特の色気へと変転している。白の下着だけが新品のように綺麗で皺がなく、それが酷く皮肉めいて感じられたが、もちろん口には出さない。
胸は何も付けていない。ボリュームはあるが、左右で離れている為、こういう胸の形は悩むと聞いたことがあった。
「下着、付けないんですか?」
「両手塞がってるから」
「付けてあげましょう。得意なんですよう。人のブラ付けるの。谷間ならわたしに任せて下さい」
「ばっ」
園が馬鹿というより、バチっ、と火花が散るのが早かった。
こういうところは本当にいけない。
刺激しちゃいけないと思ったばかりなのに。反省するが、実家譲りの相手を舐め腐った口調はどうしようもない。
「すまほ。取って」
ボウガンで差される。ベッドの上。そのぽっかりと開いた穴付近に裏返しになっているスマホがあった。
北条に背中を向け、腕に付けたスマートウォッチを見た。17:26の表記があった。スマホを探すふりしながら左右を見渡す。「そこ」「ベッド」と、後ろで声がする中、屈み、時計を弄り、あらかじめ用意しておいた、『撤退』のメッセージを飛ばした。
それは不測事態が起きた時のメッセージだ。鍵の返却は無し、さっさとその場を離れろの合図。
問題がない場合は、華英か園、どちらかのスマホで別のメッセージ、『表出てきて』を飛ばす、そういう手筈。
きちんと退却してくれればいい。
まりあの無事を祈る。
華英はスマホを受け渡そうとするが、
「すとっぷ。そこで止まって」
と、二三歩程離れたところで「待った」を掛けられた。くいくいクロスボウで差され、何のことかと視線で問う。矢は番えてある。一射撃てばそれきりだ。だからそれさえやり過ごせればどうとでもなる。足蹴にされている園が問題だ。
「フェイスロック」
「ん」
腕を伸ばし、相手の顔へスマホを向ける。顔認証。見ると、ロックは外れている。嫌な予感しかしないが、今のところはどうしようもない。
「着信履歴。一番上。スピーカー」
「はい」
『京極由良』とあった。それが日を分けて四つ程続き、下の方には違う名前がある。気の所為じゃなければ中国人名にしか見えない。読み方が分からない為、頭の中で像を結ばない。覚えようとしたが京極の名前をタップした瞬間にはもう忘れてしまう。
自分たちは酷い勘違いをしていたのではないか。
「もっす~。時? 来た?」
「はい。来ました。今ふたりとも抑えてあります」
「おっけー。こっちも電話来た段階で仲間、友達に言って抑えてあるから。しばらくしたら行くよ。あ、スカーちゃん? それから隻腕かいちょ? いるんしょ?」
反響音はしない。声の様子で脱衣所と察せられた。
華英は答えない。
園は答えられない。
「ばーか」
そう言って電話は切れた。
その筋の人みたいな筋を眉間に寄せる。
ふたりともが。




