第十章 菅原未知周辺
シャーデンフロイデ。
成功者の失墜。いつの世の中だって、心を空っぽの喜びで満たしてくれるその存在。
それは、この学校においてありふれた娯楽のひとつ。
箱庭。
小さな鳥籠で育った少女たちが、翼はためかせ舞うことが出来る唯一の場所。がんじがらめに縛られていた箱入り娘が逃げるようにここにやって来た、そんな例も少なくない。
失楽園。
翼もがれた少女にとってそこは楽園足り得るのだろうか。
共生、或いは寄生。
甘やかされ育った反抗心の塊。自意識ばかりが膨れ上がり、自らが多大な庇護に置かれていたとも思ってもいない。そんな彼女たちが入り込んでしまった階層構造の世界。搾取し、壊れないくらいにむしり取ろう。
霧の世界。
自意識が膨れ上がり、多大な庇護の下に置かれていたことを自覚していないのは、何も階層の下にいる者たちだけではない。上にいる者だってその例に漏れない。出る杭は打たれる運命にある。自分が何に手を出したのかを、牙が自分の体に突き立つその時まで知ろうともしない者――彼女たちは巧妙に体を隠し、純白の制服を身に纏い姿を擬態しているというのに。
京極由良はお調子ものの先輩という認識で、こういう学校なものだからああいう中学高校大学を行ったり来たりしている人は別段珍しくないのだけれど、そんな中でも京極由良には目がいった。
理由としては単純。隣の部屋によく出入りしていたから。
北条時子とはこの学校に入ってから知り合った。
大学に入ってからはもう少し人数は増えるらしいが、中学高校とだいたい二クラス、約60名の同学年生徒、こうも四六時中過ごしていれば高校に入る頃には全員の顔と名前が一致してくる。
未知にとって時子とはその程度の存在で、高校に移り、寮が移動し、三年間過ごしてきた見知った隣人たちがいなくなるまで、『顔と名前は知っている人』くらいの人物だった。
クラスは別で、一緒になったことはない。
はじめは嫌だったと思う。
変な人。
猫背で、すれ違えばぶつぶつ独り言を呟いていて、長い前髪からぎょろりと眼が覗く。挨拶するもあっちは頷くだけ。
見掛けで地味という印象を受けるが、どちらかというと柄が悪く派手な部類に属する子なのか。
というのも、隣ということもあって声が聞こえてきたから。
夜。
どうやら隣人は、ああ見えてサッカー部所属らしい。
夕方部活を終えてそのまま北条の部屋に出入りする先輩たち。酷い時は週45で出入りしている。その度、煩い。内容までは聞こえてこないが、笑い声がする。
もちろん北条のぼそぼそとしたあの声は聞こえないのだけれど。
隣人トラブル――というのは、この霧ヶ浦女学校ではよくあることらしい。
クラスメイト、人当たりの良い、そこそこ友人も多い未知はそういう話を聞いていた。女子同士。同じ学校に通う生徒ともなれば、酷い時には本人たちだけでなく、それぞれ所属する仲の良いグループ巻き込んでの喧嘩に発展することも。
面倒なのは、やはり素直に云えない場合で、迷惑受けているのが角部屋のおとなしい子で、その子しか迷惑してない場合、だとか、出入りしているのが複数名でそれも高校生大学生の先輩たちが……ともなると、言うに言えなかったりする。言ったところで、
「うん、ごめんね、言っとく」
と、向こうも申し訳なさそうに言ってくるからたちが悪い。
本人も溜まり場にされていて内心迷惑……なるほど、そんなパターンもあるんだ。未知は自らの偏見を恥じた。
「私が言おうか?」
「いい、いい」
焦り、言われる。
「どうしてそこまでしてくれるの」
「私が迷惑しているから?」
「あ、そっか」
北条時子の乱雑に散らかった部屋を一緒になって片しながら未知は笑った。そのとき時子はきょとんとしていて、未知は掃除する手を止め、散らかった漫画の一巻に見入っていた。
打ち解け合うまでに時間は掛からなかった。
後々になって未知が問うてみれば、すれ違った際の北条の呟き。どうやら挨拶だったらしい。ちゃんと彼女なりに返していたのだ。その声は、小さかったにせよ。
罪悪感、後悔、そして、彼女に対して偏見を超えた愛おしさを未知は抱く。




