真 side 4
「あ……っ、ああ……」
人ではない。私の頭はそう認識した。きっと私でなくとも、それを目にすれば皆が皆、そう思ったことだろう。
それの額からは、二本の角が生えていた。頬が裂けるほど開かれた口からは、鋭い牙が覗いており、恐怖を増した。よく見れば、その顔が仮面を貼りつけただけのものだとわかるのだが、この時の私は理解がすぐに追いつかなかった。
また、目の部分にはゴーグルのようなものをつけており、全身を黒のレインコートで包んだそれは、この異様な闇と絶妙に同化していた。
鬼だ。本当に、鬼がいた。
その鬼の前でよろめく鈴木は、手にしていた懐中電灯を落とした。苦しそうな呻き声をあげながら、両手で腹の辺りを押さえている。彼の手の間からは、ナイフの柄のようなものが生えていた。
「な……な、なに……?」
目の前の出来事が理解できなかった。鈴木は私へと振り返ると、「に、げろ……」と言ってから、膝から崩れ落ちるように倒れた。
私は声にならない悲鳴をあげて、その場から逃げた。もちろん、一階へ。
それはどこから現れたのだろう。二階に向かう途中の階段の踊り場で、私の前を走っていた鈴木を正面から刺した。美香の悲鳴が聞こえたから、自然に考えれば三階から二階にきたのだろう。だが、三階には私たち以外誰もいない上に、屋上には内側から鍵がかかっていた。だとするとあれはいったい、どこから現れたというんだ。
ゴツ、ゴツ、と厚い靴底の音が響いて聞こえる。あの鬼の足音か。走ってくる様子はない。やつは歩いている。
私は一階へ着くと、すぐに処置室へと駆け込んだ。そこが一番近かったからだ。
が、私は判断を間違えた。
「ぎゃああっ」
処置室には、無数のガラスの破片が落ちていた。それをすっかり忘れて、靴下のまま踏み込んでしまった。当然、足の裏には撒菱のようなそれらが突き刺さる。私はその場で倒れ込んだ。
恐る恐る、私は足の状態を見ようと懐中電灯を向けた。そこで、この明かりが命取りになることに気づき、慌ててスイッチを切った。鬼の足音はすぐそこまで来ていた。
私は床を這うように、処置室にある診察台の下へ身を隠した。薬品保管庫しかないこの場所で、もはやそこしか隠れられる場所がなかった。
口元を押さえ、必死で息を殺した。僅かでも声をあげれば、鬼に気づかれてしまう。
ゴツ、ゴツ、と足音が近づく。さらに一歩。さらに一歩と。明かりはない。きっと目にけているあのゴーグルが暗視ゴーグルなのだろう。ここはまだ、誘導灯があるおかげでぼんやりとだが、辺りを見渡すことができる。だから懐中電灯のスイッチを切っていても、この鬼がどこにいるのかは……
いや、待て。誘導灯? それは喉に引っかかった魚の小骨が、急に落ちたような感覚だった。そうか。ああ、そうか。わかったぞ。平が見つけた、この建物から出るための方法が!
出口はここだ。ここにあったんだ。処置室前の天井にあった、何かが取りつけられていただろうあの痕跡。それは誘導灯だ。元は誘導灯が、この部屋の前に取りつけられていたんだ。なのに、ここにはそれらしき扉は見当たらない。それもそのはず。これは犯人が上手く隠したんだ。
ロビーからこの処置室を見ると、真正面には薬品保管庫がある。そしてその後ろに、今は見えない避難口の扉があるんだ。それを犯人は、どう隠したのか。ただ薬品保管庫を扉の前に置くだけでは、人を欺くことはできない。明かりを照らせば、すぐに気づいてしまうだろう。だから犯人は壁を作った。避難口と、薬品保管庫の間に、もう一枚、壁を作ったんだ。きっとすぐに取り外せるような薄い板か、壁紙のような物を貼ったんだろう。
潤美の話によれば、平は「1」の診察室を照らしてから上の方を照らし、処置室を照らしたと言っていたが、おそらく「1」の診察室に何かがあったわけでも、その一連の動作に意味があったわけでもない。この誘導灯の跡を確認するために、彼は辺りを照らしていただけなんだ。
しかしそれがわかったところで、脱出するにはこの鬼を何とかしなければならない。そもそも、あの鬼は何だ? 本当に、私の父なのか? 私が辛い時。苦しんでいた時。一番近くで支えてくれていた人間が、陰では息子の恋人を甚振り、死に追いやった鬼畜だと?
だんだんと足音が離れていく。まだだ。まだ、出るな。もう少し。もう少しだ。
もう少し……
その時、ピタリと足音が止まった。
なんで……なぜ、止まる? 何かがあったのか? それとも、まさか私のことを見つけて……
「……っ、うわあああ!」
もうヤケだった。私は診察台の下から這い出ると、ガラスの破片を握りしめ、鬼に飛びかかった。この時、鬼は私に背を向けた状態だったのが幸いし、不意をつくことができた。
私が手にした武器は、鬼の肩に刺さった。
「ぐあっ……!」
体を屈めるとともに、短い呻き声が鬼から発せられた。攻撃は効いている。私は辺りを見渡し、別の破片を手に取った。
「このおお!」
そしてもう一度、鬼へと襲いかかろうとした瞬間、体を屈めた鬼が私の両足に目掛けて丸椅子を投げつけた。
「ぐああっ!?」
足裏に刺さった破片がさらに肉を食い破り、私はのたうち回って悲鳴をあげた。この丸椅子は、私が平の暴走を止めるために使ったものだ。武器を手にしていたのは、私だけではなかったんだ。
形勢は逆転した。私は地べたで蹲り、鬼はそんな私を見下ろした。
溢れる涙と鼻水が、私の顔を汚していく。まるで子どものように泣きじゃくりながら、私は鬼に向かって感情のままに叫んだ。
「なんで……なんでこんなことをするんだ……父さん!」
鬼は答えない。ただ静かにこちらを見下ろしたままだ。
それを私は肯定と受け取った。やはりこの鬼は、私の父なんだと。
「美香を……美香を、どうするつもりだ……! どうして父さんは……私の恋人に執着するんだっ……!?」
なぜ、美香なんだ。私の恋人でなければ、他にどんな女性が父の隣にいようと許せただろうに。美香じゃなければ……美香じゃなければ……!
「く…………ククッ」
「……え?」
笑い声が降ってきた。私の頭上に。呆気に取られた私は、ゆっくりと顔をあげた。
笑っていたのは鬼だった。その恐ろしい顔に変化はなく、しかし肩が震えている。
「ククッ、クククッ、アハハハハ!」
実におかしそうに、鬼は笑っていた。
なんだ、この化け物は。なぜ、この状況で笑っていられる? 何もおかしいことなど言っていないのに。いったいなぜ?
「な、何が……おかしいんだよ、父さん……」
私が上擦る声でそう尋ねると、鬼はピタリと笑うのを止めた。
そして私に、機械混じりの声でこう言った。
「アレハ、オマエノコイビト……デハナイ」
「……は?」
間抜けた声が口から出た。この鬼は何を言っている? あれはお前の恋人ではない? あれとは美香のことか? 美香が私の恋人でないなんて、何を……
何を、言っている?
私は頭の血管がブチブチと切れるのを感じながら、鬼へと怒号した。
「ふざけるな! 美香は……私の恋人だ!」
美香は長年連れ添った女性だ。籍こそ入れていないものの、結婚を前提として清く交際をしていたんだ。美香の方も、私のことを恋人として認めている。なのに、美香が私の恋人ではないだと? では、お前が美香の恋人だとでもいうのか? 勘違いも甚だしい。
もはや目の前の鬼は私の父ではない。ああ、父なものか。過去に私の恋人を監禁し、甚振ったのは、人の皮を被ったただの鬼畜だ。
「美香は私のものだ!」
「ナラバ、ナゼ。アレヲコワシタ?」
唾を飛ばしながら叫ぶ私に、鬼は淡々とそう尋ねた。
今度は何を言っている? 壊した? 美香を? 美香を傷つけようとしているのは、この鬼の方なのに?
言われて、三階で首を吊っていたあの人形のことを思い出した。壊した、という表現が当てはまるのは、あの人形だ。およそ人に使う言葉ではない。
まさかあの人形を、美香だと思っている? 人と人形の区別すら、つかなくなっているのか?
鬼はなおも、私に尋ねた。
「ナゼ、コワシタ?」
「あれは人形だ! 壊したのは父さんだろう!」
私ではない。断じて私は、人形を……美香を、傷つけるようなことはしていない。傷つけるようなことは、何一つだ。
何、一つ?
頭の中で否定しながら、私は自分の手のひらを見た。
『どうして、信じてくれないの?』
なぜか胸が痛んだ。最後に見た彼女の顔は悲しそうで、その頬は赤く腫れていた。
あれは……あれは、誰がやった? 私ではない。私は美香に手をあげたことは一度もないんだ。だから私のはずがない。私は美香を、とても……大切に、愛している。いったいあれは誰がやった? あれは……
「ナゼ、コワシタ?」
「……っ、うわあああっ!」
私は逃げ出した。焼けるような足の痛みがどうでもよくなるくらい、私は必死でその場を離れた。
鬼が姿を現す前、美香の悲鳴が聞こえた。きっとあの鬼に、何かされたに違いない。
ああ、美香……どうか無事でいてくれ!




