真 side 1
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階段を下りる間、美香は口を開かなかった。それは決して、怯えから声を出せないでいるのではなく、彼女なりにこの異様な状況を把握しようと辺りを観察し、少しでも多くの情報を取り入れようとしているからだ。暗闇の中でのこととはいえ、パイプ椅子に足首を挟んで転げ回っていた私とは雲泥の差だな。
一階のロビーに着くと、一番手前のソファで泣いていた女性が、上体を起こしてどこか一点をぼうっと見つめていた。泣くのを止めたのか、それとも涙とする水分を出し尽くしてしまったのか、いずれにせよ彼女は大人しかった。
彼女は老年の女性だった。誘導灯による薄明かりの中でもわかるほど、その顔はやつれ、老けていた。深く刻まれた目の下の皺と、弛んで皮膚が引き下げられたことにより外へと剥き出た蛙のような両眼が、まるでおとぎ話に出てくる魔女を彷彿とさせた。加えて、うねる髪は短く、毛量も少ない。ウルミが彼女のことをおばさん呼ばわりしていたが、私の目からは老婆のようにも映った。
他の彼らはどうしているだろうと、女性の後方を見ると、例の太った男性が変わらずソファに座り、こちらを見ていた。何やらニヤニヤと薄気味悪く笑っている。何か可笑しいことでもあるのかと、視線の先をよく辿ると、それは美香を捉えていた。
新たな人間の出現に驚き、見ているのか? いや、違う。これは美香を狙う目つきだ。確かに、美香は男女問わず人々を魅了してしまう美しさがある。彼が見入ってしまうのも仕方がない。だが、笑い方が癇に障った。
私は美香を体で隠すように、一歩前に出た。華奢な美香より、一回り以上は優に大きい私だ。彼女を背にしてしまえば、彼の位置からはすっかり見えなくなるだろう。案の定、彼はつまらなさそうに下を向いた。
そんな彼の隣では、初老の男性が体勢を変えて眠っていた。
ソファの周りを確認すると、ウルミの姿はない。まだ診察室の中にいるのだろうか?
となると、この中で今すぐ会話ができそうなのは、目の前の老年の女性か。口を利いてくれるといいが……。
私は美香に壁際で待つように言うと、一人、老年の女性のもとへと直行する。
タイムスリップ説はほぼ確定したと言ってもいいが、鈴木の口からはっきりと、今が二〇一〇年であると断言されたわけではない。念のため、他の人間からも確証を得たかった。
「すみません。あなたに聞きたいことがあるんです」
女性の前に立ち、やや上体を屈めてから私は声をかけた。
すると彼女は、やや遅れた様子で私を捉えると、「え? え?」と戸惑いを見せた後、わなわなと震え出した。
「う、疑ってないっ。もう、疑っていませんから……ごめんなさいっ」
そうしてすっかり怯えた様子の彼女は、首を千切れんばかりに振った。彼女が必死に謝罪をするのは、私を疑ったことよりも、怒鳴られたことによる恐怖からだろう。
気が立っていたとはいえ、悪いことをしたと思う。私は幾分、口調を穏やかにしてから、
「先ほどは怒鳴ってしまってすみませんでした。突然、このような目に遭って、困惑していたんです。申し訳ない」
と、謝った。
女性はおずおずといった様子で、
「お、怒って……ない? もう怒って、ないんですね……?」
「ええ。ただ質問をしたいだけなんです」
「質問?」
「妙なことを聞くかもしれませんが……今は西暦、二〇一〇年ですか?」
「は、はい……え?」
彼女は条件反射のように頷きつつも、一呼吸置いてから間抜けた声で聞き返した。なぜ、そんなことを聞くのか。顔がそう言っていた。
「どうやら私がタイムスリップをしたみたいなので、その確認なんです」とは、口が裂けても言えない。こんな緊迫した状況の中で、しかも見知らぬ人達の前で言おうものなら、違法薬物でもやっているのではないかと疑われてしまう。端的に聞くしかない。
私は彼女に、繰り返し尋ねた。
「今は二〇一〇年なんですね?」
詰め寄る私と視線を合わせたくないのか、彼女は瞼を強く瞑ると、今度はキツツキのように首を縦に振った。
「は、はい。今は……に、二〇一〇年、です。間違いありません。だ、だからその……」
もう近寄るのは勘弁してくれ、と言わんばかりに彼女は身を捩った。立ち去ってやりたいのは山々だが、質問はまだあった。
「もう一つ、聞きたいんです。もう一つだけです。今日の日にち……いえ、ここで目覚める前の日にちを教えてください」
「そんな……ひ、日にちって聞かれても……」
「なあに? 弱い者いじめでもしているの?」
と、そこへちょうどウルミがやってきて、私と彼女の間に割って入った。
ウルミは自身の前で両手を合わせたかと思うと、無遠慮にパンパンと音を立てて、手の埃を払った。
「ケホケホッ。う、ウルミさんっ。こちらに向けて埃を払わないでくれ」
「この程度で咳が出るの? お坊ちゃん育ちなのね」
そう言って悪びれた様子なく、ウルミは埃を払うのを止めた。
「っていうか、ようやく泣き止んだのね。このおばさん」
「ひいっ」
「あのねえ、いちいち怯えないでよ。そんなに怯えてばっか、泣いてばっかじゃ、ここから出られやしないわよ。助かりたいなら、ちゃんと自分で動きなさい」
ウルミが自分よりも遥かに年上だろう女性に、ぴしゃりと言い放った。手厳しいが、ウルミの言うことは正しい。ただ気が強いだけの女性ではなかったようだ。私はウルミに抱いていた偏見を心の中で詫びた。
一方で、ウルミから喝が入ったからか、老年の彼女は震えながらも、「め、目覚める前の日にちを聞かれて……」と、私が尋ねたことをそのまま口にした。
ウルミは眉間に皺を寄せた。
「日にちぃ? そんなのわかるわけないでしょ。いったい、いつからここに閉じ込められてんのか、こっちが知りたいわよ」
そう言いながら、ウルミは壁際に顔を向けた。そこで静かに佇む美香を見つけたウルミは、「まだいたのね……」と、同情気味に独り言を口にしてから、私の前で考える素振りを見せた。
「けど、そうね。五月の二十日を過ぎたところまでは覚えているから……今は少なくともそれ以降のはずよ。普段からカレンダーなんて見ないで過ごしているから、たとえ一日経っているだけだとしても思い出せないのよ。悪いわね。おじさん」
と、詫びが微塵も乗っていない謝罪を最後につけ足して、ウルミはスタスタとこの場から離れていった。
「お、おじさん……」
そう呼ばれて、ショックを受けた。確かに自分はおじさんと呼ばれてもおかしくない歳だ。四十路前だからおじさんと呼ばれる資格は充分にある。
そして気づいた。今の私は、いったいいくつなのだろう、と。ここには鏡も、その代わりとなるものもないから、自分の姿がどうなっているのか、まるでわからない。随所にある曇りガラスでは、ぼやけて映るだけだ。
てっきり、二〇二二年にいる自分がそのまま過去にやってきたのかと思っていたが、ここにいる美香が私のことを真と認識している。となると、今は二〇一〇年の肉体なのか? それとも、十二年も経った私がさほど老けていないだけ? いや、逆か? そもそも老けていて、十二年経ってもあまり変わらないだけなのか?
いつまで経っても戻らない私を心配してか、去っていったウルミと入れ替わるように美香が私のもとにやって来た。
「真さん」
名前を呼びながら、彼女は遠慮がちに腕に触れてきた。
ああ、この位置だ。目線を少し落とした先にある、美香の顔。表情は当然ながら暗いものだが、私は頭の片隅で懐かしさを覚えた。
同時に、確認せずにはいられなかった。
「美香。こんな時につかぬことを聞くけれども……」
「つかぬこと?」
「私はいったい、何歳に見える?」
「え?」
美香がきょとんと、私を見た。そうだよな。いきなり歳を聞かれたら、誰だってこうなる。
「どういうこと?」
「ああ、そのつまり……私が若く見えるかどうかということなんだが……」
ますます聞き方がおかしくなってしまう。ただ自分の外見から読み取れる年齢を教えて欲しいだけなのに。
「だから、その……」
そうやって口籠る私を、美香は怪訝そうに見つめながらも、「そうね」と一つ置いてから、
「年恰好は私と変わらないと思うけれど、人によっては……とりわけ十代の子からしてみれば、もう充分におじさん、おばさんだし、若くは見えないのかもね」
と、当たり障りのない回答をくれた。
なるほど。タイムスリップをすると、肉体の方もその時代のものになるのか。たまたま私の場合がそうなのか、他の事例があるのかはわからないが、謎が一つ解消できた。
「さっきの女性に言われたことを気にしているの?」
「えっ? あ、いや……うん。実はそうなんだ」
しどろもどろに答えると、美香は困ったように微笑んだ。
「余裕がないと、言葉遣いって乱暴になっちゃうから、あまり気にしない方がいいわ」
確かに。美香の言う通りだ。呼ばれ方をいちいち気にしていたらキリがない。
それよりも、この場を誤魔化せたことに私はほっとする。私は美香に「ありがとう」と伝えた。
「上の方もそうだけれど、ここも変な臭いがするのね」
美香が口元を白衣の袖口で覆い、顔を顰めながら言った。隣に設置されたトイレは彼女に見せない方がいいのかもしれないな。
そう思いながら、私の腕に触れる美香の手を、反対の手でそっと重ねた。




