真 side 2
誰かに気にかけてもらえたことで意識がそちらに向いたのか、鳥肌は引いていった。
そうだ。今はこんなところで狼狽えている場合でも、苛立っている場合でもない。自由に動ける今、一刻も早く脱出への糸口を探さなければならないんだ。
気を取り直した私は懐中電灯を握り直し、ロビーを出てすぐの階段をゆっくりと上り、二階を目指した。
着くと廊下から、私のものとは別の懐中電灯の光を目にした。これは鈴木だな。彼は二階を調べているらしい。
「チッ。何もないのかよ」
と、私やウルミたちの前では見せなかった、苛立ち混じりの独り言が聞こえてきた。やや乱暴な口調だが、私はそれを耳にして安心を覚えた。彼もまた、私たちと同じだと知ったからだ。
他人の前では、なんとか平静を装っているだけで、内心はこの状況に当惑している。少し考えればわかることだった。こんな異常事態に陥って、冷静でいられるわけがない。それでも落ち着いたように振る舞い行動するのは、一つの手がかりも逃さず、すみやかにここから脱出したいという意思の表れだろう。
こんな簡単なことにも気づいてやれなかったなんて、彼には随分と悪い態度を取ってしまった。
一言、すまないと声をかけようとしてやめた。一人になって、ようやく感情を吐き出せているのかもしれない。それにウルミによれば、二階には私以外に誰もいなかったという。一人にさせてもさほど危険はないだろう。
私は三階へと続く階段を上った。靴を履いていないためか、足音こそ周囲に響かないものの、自身の体重が乗って鈍い音が感じられる。ゆっくり歩けばさほど音も立たないのだろうが、もう遅い。もしも犯人がこの施設の上階に潜んでいるのだとしたら、すでに気づかれているはずだ。たとえ靴下を脱いで裸足になったとしても、体重が七五キロもある私では、足音を完全に消すことなどできやしない。どころか、足汗が床に貼りつき、今よりも音が際立つだろう。
そもそも、これだけ騒いでいるのだから、犯人が潜んでいれば私たちの意識が戻っていることなどとっくにバレている。だが、いまだに何もなく、姿すら現さないのはなぜなのか。
この懐中電灯が監禁されている人数分、用意されていることから、私たちに何かをさせたいということだけはわかる。わかるが……ヒントすらないこの状況では、何が犯人の狙いなのか皆目見当もつかないぞ。
そんなことを考えながら、まだ誰も踏み込んでいないという三階へ到着した。
踊り場から照明を向けると、まず開けっ放しの防火戸が目に入った。その向こうには閉じられた両開きの扉が一つあるのみで、上半身部分が曇りガラスとなっており、中の様子は窺えない。一階や二階と違い、薄明るさもない部屋だ。
そしてさらに上へと続く階段があるものの、それ以上は階層がなく、アルミ製の一枚扉があるだけだった。耳を澄ませると微かだが、扉の向こうから雨が建物を叩くような音が聞こえる。構造からして、あの扉の向こうは屋上へと続いているらしい。
本来、屋上は脱出経路としての優先度が低いが、この際外に出られれば何でもいい。私はさらに階段を上った。
しかし、ここまで経路という経路を塞ぎ、監禁にふさわしい舞台を作り上げた犯人だ。三階からだと扉前にある手すり壁で"それ"が見えなかったが、ここも抜かりはなかった。
扉には内側から南京錠が、六つも取り付けられていた。形状はすべて四桁のダイヤル式のものだ。ピッキングができないようにするためか?
試しに一つ触れてみると、材質は重たい鉄。南京錠ならではのUの字のシャックルも切断できないよう、工具が入る隙間がないほど小さい。開くわけがないとわかっていても、上の二つを弄ってみる。やはりというべきか、強固なそれはびくともしない。
ダイヤル式なのでゼロ四つから順に試していくにしても、鍵一つにつきその数字並びは一万通りもある。それが六つもだ。何時間ではなく、何日かかるのか? という話だ。
続いて握り玉のドアノブも左右に回しつつ扉を押してみる。当然、開かない……が、こちらの扉自体はすでに鍵が開いているようで手応えがあった。ドアノブの上にはサムターンがある。内側からは簡単に開いてしまうから、犯人は南京錠を取りつけたのだろう。
ここで私は違和感を抱いた。私達をここへ閉じ込めるのなら、二階同様に封じればいいのに、なぜ南京錠なのだろう? と。わざわざここだけ鍵を取り付けたことには、何か意味があるのだろうか?
それにしても、監禁した人数といい、懐中電灯の数といい、この南京錠といい、犯人はやけに六に拘るな。この数字にも意味があるのか?
まったく見当もつかない数字の意味を考えながら、私は南京錠の一つを手にしてダイヤルを回し始めた。その時だった。
ガタン、という重さのある何かが床に落ちたような音が聞こえた。下の方からだった。
驚いた私は手すり壁から身を乗り出し、すぐさま懐中電灯で照らしたものの、階段、踊り場といった辺りには誰の姿もなかった。
気のせいか? いや、小さくも音ははっきりと聞こえた。過敏になっているから、どんな些細な音でもこの耳は拾ってしまう。
もしかしたら、木材の乾燥や吸湿による自然現象かもしれない。そうだとしても、確かめずにはいられなかった。
「誰か……いるのか?」
声をかけるも返事はない。では、どこから聞こえた? 私は照明を左にやった。
「三階、か?」
そこはまだ、誰も踏み込んでいないという階だ。物音はそこから聞こえたのか?
しばし様子を窺うも、そこから誰かが出てくることはおろか、そこへ入っていく人間もいなかった。
異変に気づいた階下の彼らが来てくれるという気配もない。私は頭を落とし、ふうっと長い息を吐いた。
「行くしかない、か」
自身に言い聞かせて、私は足を動かした。目指すはもちろん、三階だ。その先に何があるのか、誰がいるのかはわからない。犯人なのか、そうでないのかも。
そのわからない、が今はただただ怖かった。
私はこれまで以上に、慎重に階段を下りていく。一歩、一歩となるべく音を立てないよう、慎重に。これで三階に潜むのが犯人だった場合、なおかつナイフや銃といった得物を備えていた場合は、こちらも攻撃はやむを得ない。とはいえ、私はただの医者だ。護身術すら学んでいない。ただ体格が大きいということ以外、この場では役に立ちはしない。
手元には懐中電灯だけ。それでも徒手空拳よりは断然いい。
そうこう考えている内に、階下に着いた。開いた防火戸を潜って両開きとなる扉の前に立ち、ゴクリと唾を飲みこんでから、ゆっくりとドアレバーを押し開けた。
「誰か、いるのか?」
努めて冷静に発した声が僅かに裏返る。返事はない。だが、誰かがいるような気がしてならない私は、震える手で下から順に辺りを照らした。
三階の部屋は一階のロビーから個室の仕切りを無くした分、広々としていた。手前から視界に入る調度品は倒れた木製の丸テーブルがいくつかと付随する椅子だった。部屋の隅には金属製のロッカーもある。人が隠れるにはやや狭いだろう。
ドアレバーを離した途端、バタンと大きな音を立てて扉は閉まった。この派手な音が心臓に悪い。激しく鼓動する心臓を左手で押さえながら、足元を照らしつつ中へと進んでいく。
ここには誘導灯すらついていない。元からないのか、取り外されているのかはわからないが、仄かでも明かりがあるのとないのとでは、歩の進みが全然違う。
それに私は鈴木たちのように靴を履いていない。やや慣れてきた虫は当然のようにこの部屋にも湧いているが、それよりも危ないのはガラス片や割れた陶器類だ。迂闊に進めば、何を踏んでしまうかわからない。また目覚めた時のように、何かにぶつかって転んでしまうかもしれない。まるで亀のように、私の歩みは遅かった。
それよりも、ここは本当に人がいるのだろうか。測れるものではないにしても、私が閉じ込められていた二階の部屋や、一階よりも空気が悪いように感じる。
埃は当然のように舞っているし、倒れているテーブルや椅子の荒れ具合も酷い。それに一階で感じた下水の臭いとはまた違う異臭がする。初めて嗅ぐ臭いでもない。ややツン、と鼻腔を刺激するこの臭いは、知っているようでわからない。ここでも、私はマスクが欲しいと思った。
服の袖口で鼻を覆いながら、部屋の半分くらいまで進んだ時だった。私はこれまで以上の恐怖を感じた。




