第5話:おうちデートの甘い罠と、一軍から転落した少女の孤独
高級マンションの最上階。
一葉の自室は、白を基調としたお洒落で、驚くほど女の子らしい部屋だった。
「はい、タカヒロくん。お着替え、これでサイズ大丈夫かな?」
一葉から手渡されたのは、新品のゆったりとしたスウェットだった。
学校での凛とした制服姿から一転、今の一葉はオーバーサイズのパーカーにショートパンツという、破壊力抜群の部屋着姿だ。結んでいた黒髪もさらりと下ろされており、いつもより幼く、そして無防備に見える。
「あ、ああ、ぴったりだ。ありがとな、一葉」
「ふふ、よかった。さあ、ソファに座ってて? 今、特製の手作りハンバーグを仕上げちゃうからね」
キッチンからパチパチと小気味よい音が響き、肉のジューシーな香りが部屋を満たしていく。
俺はふかふかのソファに腰掛け、テレビの画面をぼんやりと眺めていた。
強気に振る舞った教室での対決。松坂たちの青ざめた顔。
思い出すだけで、まだ少し心臓が痛む。
演じるのをやめて、自分の尊厳を取り戻したはずなのに、十年という月日の重さは、そう簡単に心から消えてはくれない。美咲が最後に流したあの涙が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
「……はぁ」
小さく漏らしたため息を、一葉は見逃さなかった。
いつの間にかエプロンを外した一葉が、出来立ての料理をテーブルに並べ、俺のすぐ隣に滑り込んできた。
「タカヒロくん、また美咲さんのこと考えてるでしょ」
「っ、一葉……」
「だーめ。私の前で、他の女の子のことで傷ついちゃ。……はい、あーんして?」
一葉はフォークで小さく切ったハンバーグを差し出してきた。
その瞳は、昼間よりもさらに深く、どこか妖艶な光を帯びている。完璧な生徒会長の仮面を脱ぎ捨てた彼女は、俺を甘やかし、独占することに一切の躊躇がなかった。
「いや、一葉、自分で食べられるから――」
「あー、ん。してくれないと、お姉さん怒っちゃうぞ?」
「……分かったよ。あーん」
観念して口を開くと、ジューシーな肉汁と絶妙なソースの味わいが口いっぱいに広がった。
「……美味い」
「本当!? よかったぁ。タカヒロくんのために、隠し味をたくさん入れたんだから」
一葉は満面の笑みを浮かべ、そのまま俺の腕に自分の身体をこれでもかと押し付けてきた。
柔らかい感触が二の腕を通して伝わり、俺の理性が悲鳴を上げる。
「一葉、ちょっと距離が近くないか……?」
「近くないよ。むしろ、もっと近づきたいくらい。ねえ、タカヒロくん」
一葉は俺の胸元に顔を埋め、上目遣いで俺をじっと見つめた。
「学校では、あんな格好いい男の子になっちゃって、みんながあなたを見てる。私、それがすっごく悔しいの。……タカヒロくんの本当の格好良さは、私だけのものだったのに」
「一葉……」
「だからね、この部屋にいる間は、私だけで満たされて。美咲さんの付けた心の傷なんて、私が全部、上書きして消してあげるから……」
耳元で囁かれる甘い吐息。
一葉の圧倒的な、執着に近いほどの愛情が、俺の傷ついた心をじんわりと溶かしていく。
美咲に裏切られた痛みは確かに消えない。けれど、それ以上に、目の前で自分を全肯定してくれる一葉の温もりが、俺を心地よい底なし沼へと引きずり込んでいくようだった。
「一葉……ありがとう。俺、お前がいてくれて、本当によかった」
「ふふ、その言葉が聞きたかったの。……じゃあ、今夜はもっと、たくさん甘やかしてあげるね?」
夕闇が迫る部屋の中、俺たちは互いの体温を確かめ合うように、深く、静かに寄り添い続けた。
※ ※ ※
同じ頃。
放課後のファミレスの一角で、支倉美咲は地獄のような時間を過ごしていた。
「――ねえ、美咲。あんたさ、いつまでそんな暗い顔してんの?」
向かいの席に座る一軍女子のグループが、冷ややかな視線を美咲に投げかける。
テーブルの上には、ドリンクバーのコップが乱雑に置かれていた。
「松坂たち、生徒会からガチの呼び出し食らって、今頃指導室だよ? 推薦も取り消されるかもって大騒ぎ。全部、あんたが音無を完璧にハメられなかったせいじゃん」
「そうだよ。ただの陰キャのくせに、あんなイケメンだったとか聞いてないし。あんた、幼馴染のくせに何も知らなかったわけ?」
矢継ぎ早に浴びせられる、容赦のない非難の言葉。
昨日までは「美咲、さすが一軍!」とチヤホヤしてくれていた『友達』たちが、今では自分たちの保身のために、美咲を戦犯として吊し上げていた。
「違う……私は、ただ……」
「ただ何よ? 結局、あんたが音無に調子乗った嘘告したせいで、うちらまで巻き添え食らいそうになってるわけ。マジで迷惑なんだけど」
一軍女子の一人が、鼻で笑いながらスマホの画面を美咲に見せた。
そこには、学校の匿名掲示板の書き込みが映し出されていた。
『2Bの音無、眼鏡外したらSSS級の超絶イケメンだった件』
『支倉美咲、一軍男子と組んで音無に嘘告してフラれたらしいぞ。ダサすぎ』
『椎名会長が音無をハグしてたってマジ? 支倉完全に勝ち目ねえじゃん笑』
「あ……あう……」
美咲の視界が、絶望で激しく歪む。
学校中が、タカヒロの本当の姿に熱狂していた。
そして自分は、そんな彼を最も卑劣な形で裏切り、無残に捨てられた『哀れな道化』として失笑を買っている。
『お前みたいな底の浅い女、こっちから願い下げだ』
タカヒロの声が、頭の中で幾度となくリフレインする。
一軍の輝かしいカーストにいたはずの自分は、今や冷たい底へと叩き落とされ、誰からも手を差し伸べられない孤独の中にいた。
「私、帰る……」
「あ、逃げるんだ? ウケる。もう明日からうちらのグループに来ないでね、空気重くなるから」
背後からの冷笑を浴びながら、美咲は飛び出すようにファミレスを後にした。
夜の街を、涙を流しながら走り続ける。
向かう先は、タカヒロの家だった。もうそこには、自分の居場所なんてないかもしれない。それでも、彼に謝らなければ、彼の優しい声をもう一度聞かなければ、自分が完全に壊れてしまうと思ったのだ。
「タカヒロ……ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
だが、美咲はまだ知らない。
その頃、タカヒロは自分などより遥かに美しく、遥かに深い愛を持った生徒会長の腕の中で、極上の幸福に包まれているということを。
少女の泣き叫ぶ声は、夜の静寂の中に、ただ虚しく消えていくのだった。
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