第伍話
真梨は、その晩眠ることが出来なかった。
いくら心安らかになろうとしても、将司は消え、独りぼっちになったのだ。改めて真梨は自分のしたことの重大さを噛み締めていた。
窓の外では庭の木に止まった小鳥たちが、朝の囀りを始め、朝日がカーテンの隙間からこの辛気くさい寝室に差し込んできた。
真梨はもう何も考えられなくなっていた。いや、考えたくなかったのかも知れない。
ベッドの縁に座ったまま、自問自答をずっと続けていた。本当にこれで良かったのか、何か別の方法はなかったのか、将司ときちんと向き合っていれば良かったのか、ただそれだけをずっと考えていた。
真梨は、クローゼットの扉を開けて、中から着替えを取りだした。そして、それを持ってバスルームへと向かい、全身でシャワーを浴びた。ソープの泡が真梨の全身を包み込み、まるで取り憑いたものを払い除けるかのように洗い流したのだ。
シャワールームを出ると、持ってきた着替えに身体を通し、階下へと降りて軽く朝食を用意した。
食パンを焼き、目玉焼きとウインナーを数本焼いて、野菜と果物をミキサーでジュースにする。
準備をしながら、テレビを点けると、丁度朝のワイドショーの時間で、ここ最近都内で発生している男性大量失踪事件について、特集が組まれていた。
『ここ数年で、都内における男性の失踪事件は、警視庁が把握しているだけでも39件に及び、おそらくこれは氷山の一角であろうと、警視庁関係者の話として聞き及んでいます。
また、SNSでは、大規模拉致事件であるとか、近年の不景気による自殺者の増加が影響しているとか、様々な憶測が飛び交っております。コメンテーターの皆さんはどうお考えですか。
まずは、斉藤さん。』
番組MCに指名された、年配の社会学者でありタレントとしても活躍している斉藤啓介が発言した。
『確かに、近年の不景気は自殺者の増加を増長していますし、某国の拉致事件の可能性も否定は出来ないですが、私はもう一つの可能性を考えています。失踪しているのが、いずれも20代から30代の若い男性であり、最後の目撃場所が都内の繁華街、つまり、渋谷、新宿、池袋などの若者が集まる場所で起こっていることも、この事件を関連付ける大きなファクターとなっています。』
『と言うと?』とMCが尋ねる。
『つまり、若者たちが何らかの事件に巻き込まれている可能性があるということです。
それがどのような事件かは、今の段階ではなんとも申し上げられませんが、たとえば無差別猟奇殺人事件などといったものから、特殊詐欺集団のスカウト、反社会団体による無謀な取り立てなど、もちろん憶測の域は出ませんが、そういった様々な犯罪に巻き込まれている可能性も否定しきれません。』
『それは、すべて同じ犯罪に巻き込まれていると思いますか?』
『いや、一概に全部同じ犯罪に巻き込まれているとは言えないでしょう。もちろんその可能性もありますが、件数が多すぎます。ですから、複数の犯罪に巻き込まれ、それがたまたまこれだけの数字に上ったことも考えられます。
いずれにせよ、私が思うに、東京のど真ん中で、何かの犯罪が蠢いているのではないでしょうか。』
斉藤啓介はそう言って、コメントを締めた。
『なるほど、確かに今の段階では何とも言えませんが、何らかの大規模な犯罪が行われている可能性が捨てきれないということですね。』
『そういうことです。特に若い男性諸氏は充分気を付けて欲しいですね。』
MCのコメントに斉藤啓介が一言言って頷いた。
「やぁねぇ、ホント物騒な世の中なんだから。」
真梨は食パンを囓りながら、まるで他人事のように呟く。
自分が引き起こしていることとはまったく思いもしていない真梨だった。
テレビでは、他のコメンテーターも似たような発言をし、最後にMCが、現在警視庁は大規模失踪事件として捜査本部を立ち上げ、事件事故の両面から多角的に捜査をおこなっていると締め括っていた。
真梨はテレビを見ながら、簡単な朝食を済ませた。
今日は夕方からバラエティの収録が一本あるため、それまでゆっくりしようと、食卓の後片付けを始めた真梨の元に、一本の電話があった。
将司の会社からだ。
「はい、夜咲です。……はい、大丈夫です。……えっ、将司ですか。今朝はもう仕事に出かけたと思いますけど。……、えっ、会社に来ていないですって。……いえ、家にはおりません。……はい、そうです。……そうですか。分かりました。もし、何か分かったらご連絡差し上げます。……はい、工藤様ですね。……こちらこそ、ご迷惑を掛けて申し訳ございません。……はい。よろしくお願いします。それでは、失礼します。」
電話の相手、将司の秘書をしている工藤によると、いつもの出社時間になっても姿が見えないので、心配になって連絡してきたという。
真梨はドキリとしたが、そこは長年の俳優魂、心配する妻を演じるのは造作も無い。
「でも、このままじゃまずいわね。」
真梨はそう独り言ちると、今後のことに思案した。
このまま、放っておけば、真梨に疑いの目が向けられる。かといって下手に動けば、当然真梨のせいにされる可能性もある。
次の一手に真梨は心底悩んだ。動くにせよ、動かないにせよ、いずれ真梨に疑いの目が向けられるのは避けられないからだ。どうしたものか、真梨は家事をしながら、夕方仕事に出かけるまで、思案に暮れた。
それから数日、会社の工藤から、毎日のように連絡があった。
もちろん、情報は梨の礫、互いに交換する情報など皆無である。そこで、工藤の方から提案があった。警察に届けてはどうかということだ。
だが、真梨は当初、真梨が芸能人であるという理由でそれを渋った。だが、工藤としては、会社のトップがいなくなり、副社長が代理で立っているにしても限界があり、株主の手前、捜索もせずに手を拱いていたとなると、信用問題に関わると言う。もし無事ならばそれでも良いが、何か事件に巻き込まれているのであれば、警察に早めに対処して貰いたいという訳だ。
真梨はそれを聞いて、渋々納得した。
警察沙汰になれば、当然マスコミも動く。スキャンダルになれば、真梨の芸能人生命も一挙に終わることになりかねない。ましてや、失踪の元凶が自分だと言うことがバレれば、人生の幕も閉じることになる。
だからこそ、真梨は躊躇していた。
しかし、動かないことによるリスクを考慮に入れたら、納得するしかなったのだ。
結局、警察への届け出は工藤の方でしてくれることになった。真梨が警察に行くのはリスクが大きすぎる。工藤もその辺りの事情は汲んでくれたようだ。
「お手数をおかけして申し訳ございませんが、よろしくお願いします。」
真梨は、心底心配する妻を演じながら、警察に行かずに済んだことに一安心していた。
「いいえ、奥様も大変でしょうから、このぐらいは私の方でしておきますので、安心して吉報をお待ちください。きっとすぐに社長の行方は分かりますよ。まったくどこをほっつき歩いてるんだか。」
工藤は努めて明るく振るまい、真梨を慰めようとしていた。
真梨の耳には、そんな工藤の配慮が、どこか滑稽に聞こえていたが、頭を下げるようにしてお願いし、電話を切った。
真梨は、ここ数日男漁りを止めた。
流石にほとぼりが冷めるまでは自重する気になったのだ。疼く身体に抗うのは大変だったが、流石にこんな時に男を引っ張り込める程の度胸と豪胆さは無かった。
しかし、真梨が男を連れ込まなかったのは、もう一つ理由があった。
それは、夜な夜な聞こえてくる奇妙な声である。
将司がいた時は、甘い声として聞こえていたが、将司がいなくなってからは、恨み辛みの声しか聞こえてこない。
それも、ハッキリと「モットヨコセ」「クワセロ」「ノロッテヤル」と聞こえてくるのだ。一瞬で終わることもあれば、一晩中続くこともあり、真梨は流石にノイローゼになりかけていた。
化粧の載りも悪く、目の下にクマができたままで、メイクさんを困らせてしまうことも一度や二度ではなくなっていた。
工藤が警察に将司の失踪届を出した翌日、真梨の許に刑事が二人尋ねてきた。
「夜咲将司さんの奥様でいらっしゃいますか。」
「はい。」
玄関を開け、刑事を招き入れると、開口一番聞かれたので、真梨は素直に返事をした。
一人は白峰、もう一人は那須井と名乗り、それぞれ警察手帳を提示した。
真梨は、二人の警察手帳を覗き込み、そこにある写真と本人を見比べ、名前を確認した。
「ご主人が行方不明になっていると、ご主人の会社から通報がありましたが、ご存知ですか。」
「はい。私がお願いしましたので。」
「ご主人はいつからいらっしゃらないのですか。」
「正確には5日前です。」
「その時の状況を教えていただけますか。」
「状況と言いましても、私はその日遅くまで寝ていて、朝起きたら既に主人の姿はなかったんです。主人の会社から連絡があって、初めていなくなったことを知りました。」
「どうして、今まで警察に連絡しなかったんですか。」
「主人は良く気まぐれで旅行に行くこともあって、ふらりと出かけることもあったので、その時は然程気にも留めていませんでした。」
「では、ご主人がどこへ行ったかとか、心当たりはないのですか。」
「はい。一応親戚縁者には連絡を取りましたし、会社の方でも取引先やよく使う宿泊施設なんかにも確認を取って貰いましたが、見つかっていません。」
「どうして、奥様ご自身ではなく、会社の方から捜索願が出されたんですか。」
「それは、私が芸能人をやっているので、それに配慮していただいたからです。」
「あれ、もしかして、テレビドラマで主演をされてる夜咲真梨さんですか?」
「はい、そうです。」
「ほら、今流行ってる恋愛ドラマの『愛と髑髏』だよ。」
質問していた刑事の白峰が、キョトンとしている同僚の那須井に耳打ちする。
「ああ。……って、あの女性が……、全然雰囲気が違うので分かりませんでした。」
那須井が合点がいったように小刻みに頷いていた。
「済みません、すっぴんなもので。」
真梨は少し嫌悪感を顔に出す。
「いや、充分お綺麗ですよ。ただ、雰囲気が違っただけで。……女性って、七変化なんて言いますから。朴念仁の私には見分けが付かないんですよ。済みません。ご気分を害してしまい。」
気づかなかった那須井がタジタジとなって言った。
「済みません、こいつそういうところ気付かないので、ご気分を悪くされたのでしたら、申し訳ございません。」
白峰もそう言って頭を下げる。本当は真梨が少し窶れた感じだったので、気付かなかったのだが、白峰は気を利かしてそれには触れなかった。
「いや、別にそこまで不快に思った訳ではないですから。こちらもすっぴんですし、お二人が私のことご存知なくても、致し方ないことですから。」
真梨はほんの少しイヤミを載せて応える。
「本当に済みません。」
那須井が再び頭を下げている。
「済みません、質問を続けても……。」
白峰が少し遠慮気味に聞いてくる。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。ご主人がいなくなられた時、何か持って行かれたもの、たとえば長期旅行用に着替えを大量に持っていったとか、いつもは持って出歩かないのに、今回は持って出たというようなものはありますか。」
「いいえ、特には……。いつものように会社に持って出る鞄と、スーツがないだけですから。靴もいつも履いて出る革靴が一足無くなっているだけで、それ以外に変わったことはありません。」
「そうですか。」
「済みませんが、お宅の中を一通り拝見してもよろしいですか。一応ご主人の身の回りのことを確認しておきたいので。」
玄関口で話を聞いていた白峰は、そう言って家の中を見たいと申し出る。
「え、家の中をですか。それは構いませんが、ただ、私もほら、こういう仕事をしているので、あまりプライベートのことは知られたくないんですよね。」
真梨は、オブラートに包みながらやんわりと拒否する。
「もちろん、プライベートに関しては一切公言しません。捜査情報は極秘事項になりますので、捜査本部で共有される以外は外部に漏れることはありません。それは、ご安心ください。私たちも捜査に関係あること以外は、拝見しませんので。」
白峰は少し強引とも言える口調で押し切ってきた。
「そこまで仰るなら、私が拒否する謂われはありませんね。……どうぞ。」
そう言って真梨は客用のスリッパを出した。
「ありがとうございます。お邪魔します。」
「お邪魔します。」
白峰と那須井はそう言って頭を下げ、家の中へと上がってきた。
真梨の心臓は今にもはち切れそうなぐらい早鐘を打っていたが、外見は平静を装っていた。
まずは、玄関から上がってすぐにある、リビングルームへと二人を通す。
「こちらがリビングです。……あっ、それ主人のローブです。出かけた時のままなんですよ。帰ってきたら、脱ぎ捨ててあったのを怒ろうと思ってそのままにしてあったんです。」
刑事の二人の視線が行ったのを見て、真梨は慌ててソファーの背に掛かったままだったローブを指差して言う。
「では、ご主人はここで着替えてお出かけになったと言うことでしょうか。」
白峰が聞く。
「多分そうだと思います。私がまだ寝ていたので、気を遣ったのかも知れません。」
「服はいつもどちらに仕舞われているんですか。」
「洗面所の奥にウォークインクローゼットがありまして、外出着は全部そこに入れてあります。」
「ご主人の、スーツはすべてそこに?」
「はい。スーツも私服も、ゴルフウェアなんかもそこに全部入れてあります。もちろん、私の服もあります。」
「拝見してもよろしいですか。」
「ええ。もちろん。」
三人はウォークインクローゼットへと移動する。
六畳程の広さがあるクローゼットには、所狭しと服がぶら下がり、男性用のシックなスーツやスポーツウェア、カジュアルな普段着などと共に、女性用の煌びやかなドレスやお出掛け着が吊り下げられていた。
「済みません。ありがとうございます。服はこれだけですか。お見かけしたところ、外出用の服しかないように感じたのですが。」
白峰の声は妙に静かで、落ち着いていて、その視線はどこかジリジリと皮膚を焼くような気がした。
真梨は何かを見透かされたようなそんな気分になったが、どうにか返事をした。
「……部屋着は二階のクローゼットにあります。寝室に備え付けで、然程量が入らないのですが、部屋着だけはそちらに入れてあります。」
「そうなんですね。そちらを拝見することは可能ですか。」
その瞬間、真梨の心臓が凍りついた。白峰の言葉は、まるで背後からガツンとハンマーで打ち据えられたような衝撃で、思い切り動揺してしまった。
「すみません。見せたくないものもあるかとも思いますが、これも捜査の一環でして、ご主人の普段の行動が分かれば、私たちの捜査も進みやすくなりますので。ご協力いただけませんでしょうか。」
おそらく動揺が表情にも出てしまったのだろう、真梨を見て白峰が慌てて言い訳する。
真梨は、ほんの一瞬沈黙した。
二階の寝室のクローゼットは、まさに将司を消した現場。もちろん、今は綺麗さっぱり証拠はない。あの後何度もクローゼットを開き、痕跡がないことを確認したのだ。
だが、真梨の心臓は早鐘のように鼓動を打ち鳴らしていた。
もしかしたら、何か見逃していて、何かが残っているかも知れないからだ。
「……こちらです。」
足が鉛のように重かった。なんとか平静を装い、表情には仮面のような笑顔を貼り付けてはいたが、その足取りは重く、階段を一歩一歩上り、死刑台へ向かう囚人のようだった。強靱な精神力を持っていないと、足を動かすことすらままならなかった。
漸く二階の寝室へと上がって来た真梨は、意を決して寝室の扉を開け、中へ刑事二人を招き入れる。
寝室の中は、いつもと違って、どこか冷たい空気が漂っていた。まるで誰かがそこに潜み、何かを虎視眈々と狙っているかのようだった。
中に入った白峰と那須井は、矯めつ眇めつ寝室を見ていった。
「これが、部屋着用のクローゼットなんですね。」
白峰が確認する。その声は妙に響いた。
「はい、そうです。」
その声に、真梨の心臓はもう口から飛び出しそうになり、口の中はカラカラに乾いていた。
「中を拝見してもよろしいですか。」
白峰の声は、まるで死刑宣告のようで、真梨はもう立っているのもやっとの思いだった。
「……あまり見せられるようなものではないですが。……どうぞ。」
なんとか返事をしたものの、まるで口の中に砂を含んでいるように、真梨は上手く喋ることが出来なかった。
もはや、真梨は緊張のピークを迎え、精神状態は異常の極みに達していた。残っている気力のすべてを注ぎ込み、真梨はその場に立ち、夫が失踪した可哀想な妻を演じていた。
「申し訳ございません。では、遠慮無く拝見させていただきます。」
もう、後戻りは出来ない。真梨は覚悟を決めた。
そして、大きく頷いた。
白峰が、那須井を促すと、那須井はクローゼットのドアノブに手を掛け、ゆっくりと扉を開けたのだった。
<完>




