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七福人生  作者: 代田さん
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最終話.マシな人生と最高の人生

 俺にとってのマシな人生って、いったい何だったんだろう。

 あれから一年が経過した今でも、時々大橋は考える。


『……そうだなあ、やっぱり、仕事がうまくいって、生活に過不足がなくて、あとは……』


 あの時、サラに言った言葉が頭によみがえる。

 仕事と生活。

 今のところ、これについてはある程度実現していると言える。

 仕事の方は、大まかに年間を通しての流れをつかみ、今、この子たちに必要なことは何か、何を優先して教えるべきか、そんなことまで俯瞰ふかん的に考えながら活動することができるようになってきた。この四月に入ってきた新人に、取りあえず先輩面をして教えてやれることも少なからずある。何より、大橋は楽しかった。自分なりに工夫し、それなりに準備をして行った授業に対しては、子どもたちは敏感に反応を返してくれる。その反応を見ながら足りないところを補ったり、さらに工夫を加えたりすることに大橋は夢中になって取り組んだ。その結果、「授業のおもしろい先生」として、子どもたちに一目置かれるまでに成長した。

 生活も、もちろん一人暮らしなのでサラがいた頃よりは手を抜くことも多かったが、以前のように全くやらないのではなく、外せないポイントを的確につかみ、重点的に効率よく行うことができるようになった。その結果、手は抜いていても以前のように部屋が足の踏み場もない状態になったり、洗濯物がたまって着替えがなくなったり、部屋のほこりで咳が止まらなくなったりするような事態は避けられている。まあ、夏場にゴキブリの姿がちらほら見られるのは目をつむるとして。

 金銭管理も以前よりはしっかりして、この一年で貯蓄は二百万を超えた。これからは毎月決まった額を貯蓄や保険にまわそうかと考えている。自分一人で生きていくなら、何かあった時に頼れるのはお金だけなのだから。


 自分一人で生きていく。

 その言葉に、いつも思考が引っかかる。

 今、自分は一人だ。

 でもあの時は、サラがいた。


 夢のような三週間だった。短かった。あっという間の出来事だった。今になって思い返してみると、あれはもしかしたら本当に夢の中の出来事だったんじゃないか、そんな気さえしてしまう。

 実際、夢かもしれないと思える事実もあった。

 せせらぎにピクニックに行った際、大橋はサラの写真を数枚撮った。後日そのことを思い出し、大橋はメディアの中身を確認したのだ。サラの姿をもう一度目にすることができる、その期待に胸をドキドキさせながら。

 だが、写真を見て、大橋は愕然とした。そこに写っていたのは、日差しがきらめくせせらぎの流れだけだったのだ。数枚撮った写真を全て確認したが、どれもせせらぎの流れと周囲で遊ぶ子どもの姿しか写っていなかった。

 それは大橋が初めて目の当たりにした、サラが「自分の姿は他人には見えない」と言っていた、あの言葉を裏付ける客観的な証拠だった。同時に、サラの存在自体がもしかしたら自分の作り出した妄想で、本当に全てが夢だったんじゃないか、そんな思いにとらわれた時期も確かにあった。

 でも、あれは夢じゃない。

 その証拠に冷凍庫には、あの日、サラが握ってくれたおにぎりが今も入っている。

 事件が起きたのが六月始めの蒸し暑い時期だったため、病院から帰ってきた時にはすでに、リュックサックの中のお握りは食べられる状態ではなかった。だが、大橋はその腐臭の漂うお握りを、どうしても捨てることができなかった。いつか捨てよう捨てようと思いつつ、それは未だに大橋の小さな冷凍庫の一角を占領している。

 それを見るたび、大橋はサラを鮮明に思い出す。そして、彼女が確かに存在していた事実を認識する。それは彼にとって、何ともつらく切ない瞬間だが、彼はそれを忘れてはいけないと思っている。彼女が確かにこの世に存在していた、その事実を自分が忘れてしまったら、いったい誰が彼女のことを思い出してやれるのか。

 だからあの浅黄色の帯も、大橋は今でも大事に持っている。

 プラケースの引き出しの奥底に、丁寧に畳んで、しょうのうまで入れて。まるで、いつか彼女が帰ってくると信じているかのように。


 大橋のマシな人生を成り立たせる要件、その最後のピースである「恋愛」。

 これはもう、実現することはないだろうと大橋は思っている。

 自分は誰とも恋愛する気にはならないだろうと、ほぼ確信しているからである。

あれから一年たった今でも、彼の心の中には未だにサラが大きな位置を占めて存在している。

 自分が生まれて初めて夢中になれた女性。生まれて初めて、自分を求めてくれた女性。彼女以外の誰かと深い関係になることなど、大橋には今のところ想像もつかない。

 大橋はただ、サラと一緒にいたかっただけなのだ。サラと死ぬまでずっと一緒に過ごせること、これがもし叶えられるなら、大橋は仕事の成功も生活の安定もいらない。サラと一緒に過ごす人生は、それだけで十分すぎるほど大橋にとってマシな人生そのものなのだから。

 ゆえに、サラがいない今、どんなに仕事が充実し、どんなに生活が安定しようとも、自分のマシな人生はたぶん一生完成しない。大橋はそう確信している。

 確信していながら、彼は今も、心のどこかでサラを待っている。

 まるで、いつかあの港のタワーで、来ないかもしれない大橋のことを四時間以上も待ち続けたサラ自身のように。



☆☆☆



 その日、大橋は珍しく酔っぱらっていた。

 今年から五月開催になった運動会が無事終わり、勤務終了後にご苦労さん会があったのだ。最近は場の雰囲気にうまく合わせて、あまり飲まなくてもやり過ごせるようになってきていた大橋だったが、この日は林田にしつこくからまれて、やむなくジョッキ一杯飲んでしまったのだ。

 駅で数回吐いたあと、何とか下南沢にたどり着いたものの、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ、例によって覚束ない足取りで、大橋はゆがんだ道を必死で自宅へ向かって進んでいた。


「……おっと」


 自分ではまっすぐ歩いていたつもりだったが、道路脇の電柱に肩がぶつかって大橋はよろけた。あわてて塀にもたれて体勢を維持すると、そのまま、大橋は夜空を見上げた。

 春独特の霞んだ空に、淡い光を放つ星が一つ二つ瞬いている。

 ぼんやりした頭に、爽やかな五月の風が心地よく吹き抜ける。大橋は深呼吸をして、目を閉じた。


――あの祠に参ったのも、確かこんな夜だったな。


 大橋は、あの祠があった場所に目を向けた。

 十五メートルほど先にある大ケヤキと祠があったあの場所は、あれからしばらく大がかりな工事が行われていたが、先頃工事も終了し、白亜の真新しいマンションが夜空を覆い隠すようにそびえ立っている。あの大ケヤキがあったことなど、このマンションの住人たちは誰一人として知らないだろう。

 大橋は、マンションをぼんやりと眺めていたが、やがて小さく息をつくと、ゆっくりと塀から背中を離した。教材研究資料の入った重いカバンを抱え直すと、再びよろよろと一歩を踏み出す。


 その時、一陣の風が大橋の頬を優しくなでた。

 その風は、あの懐かしい香りがした。

 甘く、それでいて爽やかな、まるでケヤキを揺らす五月の風のような香り。


 大橋はゆるゆると顔を上げた。

 大橋の目線の先にある一本の電柱。街路灯の淡い光に照らされて、その下にたたずむ人物の姿が目に入る。

 夜道に白く浮かび上がるその人物は、薄紫色の中国風の着物を着ていた。羽衣のような布を両腕にまといつかせ、腰には浅黄色の帯を締め、顔の両脇に一筋ずつ髪を残し、残りの髪は高い位置でまとめあげて、かんざしを挿している……。

 大橋の手からカバンが滑り落ち、重い音を立ててアスファルトの路面に転がった。

 彼女はその愁いを含んだ瞳で大橋をじっと見つめている。抜けるような白い肌に、すっきりと筋の通った鼻。花の蕾のようなその唇がゆっくりと開き、そこから響いてくる、あの聞き覚えのある、鈴の音のような、懐かしい声……。


「おかえり、オオハシ」


 大橋の全身に、鳥肌が立った。


「……サラさん?」


 大橋は慌てて両手で目をこすった。頬を平手で二,三回、思いっきりたたいてみる。そこまで自分は酔いがまわったのかと思ったが、それでも目の前にたたずむその女性は消えなかった。消えないどころか、彼女はゆっくりと足を踏み出し、大橋の方に歩み寄ってきた。

 彼女は大橋の目の前に立つと、大橋をまっすぐに見つめた。大橋は思わず、一歩後じさってしまう。


「ずいぶん遅かったな」


 彼女はそう言うと、首を傾けて笑う。それは確かに大橋が何度も見た、あの艶やかなほほ笑みだった。

 大橋は何か言おうとした。だが、あまりのことに思考がほぼ停止状態になっている。聞きたいことは山のようにあったが、いったい何をどう聞いていいかすら分からない。大橋は渇ききった喉にごくりと唾を送り込むと、やっとのことで、こう問いかけた。


「サラさん……ですか?」


 その女性は、バラ色の頬を引き上げてにこやかにほほ笑みながら、うなずいた。


「久しぶりだな、オオハシ」


 大橋は大きく深呼吸をした。酒臭い息を思い切り吐き出すと、改めてまじまじと目の前に立つサラを見つめ直す。


「……本当に、サラさん?」


「相変わらず疑り深いやつだな」


 サラは苦笑すると、大橋の右手をそっと取った。柔らかく温かい、その懐かしい感触に、大橋は思わず呼吸を止める。

 サラは大橋の右手を自分の頬にそっとあてがった。


「ほら、本当だろ」


 すべすべして柔らかく温かいその感触は、紛れもなく生きた人間のそれだった。大橋は心臓が何だかもう訳が分からないほど暴れまくって、今にも口から飛び出しそうになるのを抑えながら、必死で問いの言葉を発した。


「どうして……」


 サラは大橋の右手を自分の頬に当て、その手を優しく撫でさすりながら、静かにこう言った。


「おまえの願いを叶えるために」


「え?」


「おまえの、マシな人生を実現するために」


 まだ飲み込み切れていない様子で大橋が首をかしげると、サラは苦笑まじりの笑みを浮かべた。


「サラスバティ本体に、そう命じられたんだ。おまえの願いを、最後まできちんと叶えてやるようにと。……完全に実体化するのに、少々時間がかかってしまったがな」


 サラは大橋の右手を愛おしそうに頬にあてがいながら、静かにその目を閉じた。


「私の姿は、もう誰にでも見える」


 そして再び目を開くと、潤んだその瞳でじっと大橋を見つめる。


「おまえの願いが叶うまで、消滅もしない」


 大橋は眼鏡の奥のその目を大きく見開いたまま、立ちすくんでいた。膝がわなわなと震えだし、意志と関係なく唇も震える。ようやく思考がゆるゆると回り始めたものの、その口からかすれた音とともに出るのは、単語のような短い言葉がやっとだった。


「……俺の願い?」


 サラはその言葉に深々とうなずくと、大橋の手を離した。


「私と、ずっと一緒にいたいという願いだ」


 大橋は目を見開き、息をのむように五月の夜風を吸い込んだ。

 そしてその風を酒臭い息とともに吐き出しながら、震える声で問いかける。


「……一生?」


 サラはその臭いにちょっと苦笑しながら、うなずいた。


「一生だ」


 大橋はまじろぎもせずサラを見つめながら、歩み寄る。


「ほんとうに……?」


「本当だ」


 震える手を、サラの両頬に添える。


「他の人にも、見える?」


「見える」


 その存在を確かめるように、サラのきゃしゃな肩に触れる。


「俺の側に、いる?」


「いる」


 その手が、そっとサラの背に添えられる。


「どこへも行かない?」


「行かない」


 背中に添えられた手に力が込められ、サラの体が大橋に引き寄せられる。

 大橋は、両腕できつくサラを抱き締めた。体全体に感じる柔らかく温かな、その懐かしい感触。大橋は腹の底から沸き上がるような喜びに打ち震えた。涙が、その頬を幾筋も伝う。サラもその胸に顔を埋めて、幸せそうにほほ笑んでいる。

 大橋はサラを抱き締めながら、震える声で言葉を続けた。


「毎日、一緒に朝飯食べる?」


「食べる」


「夕飯も食べる?」


「食べる」


「一緒に寝てくれる?」


「寝……え?」


「一緒にフロも入る?」


「は?」


 サラは思わず顔を上げて大橋を見た。だが、大橋は真剣な表情で、大まじめに先を続けた。


「俺の子ども、産んでくれる?」


「子って……」


「そうしたら俺、サラさんのこと、一生守る」


 サラはじっと大橋を見つめた。


「サラさんと子どもが楽しく暮らせるように、精いっぱい頑張る。いい加減な生き方はしない。仕事も、生活も、できる限りよくしていく。そうして、俺は長生きする」


 大橋も、サラのその澄んだ瞳を真剣な目で見つめ返す。


「できるだけ長生きして、できるだけ長く一緒にいられるようにする。俺のマシな人生が、なるべく長く続くように……約束する」


「オオハシ……」


「だから、サラさん」


 大橋はサラの体から手を離すと、ふらつく体を立て直してサラと正面から相対した。電柱に取り付けられた街路灯の光が、そんな彼をほの白く照らし出している。


「結婚してください」


 大橋はそう言うと、勢いよく頭を下げた。そのままじっと、サラの次の言葉を待つ。

 だが、サラの返事はない。

 大橋は、ちらっとサラを盗み見た。

 サラは黙って大橋を見つめている。その表情が心なしか悲しげに見えて、大橋は何だか不安になってきた。

 おずおずと顔を上げた大橋に、サラは困ったような表情で首をかしげて見せた。


「オオハシ……」


「は、はい」


「ケッコンって、何だ?」


 大橋はぽかんと口を開けたまま、しばらく思考が停止してしまった。


「……だ、だってサラさん、人妻だって言ってたじゃないですか」


 どもりながらもやっとのことでそう言った大橋に、サラは困ったような笑顔を浮かべてみせた。


「私の本体は確かにブラフマーの妻だが、ケッコンというものとそれは何か関係があるのか? 本体は無理やりあいつの妻にさせられただけで、ケッコンとかいうものについては何も知らないと思うが」


 大橋がその言葉にあっけにとられていると、サラはそんな大橋から恥ずかしそうに目線をそらした。


「……それは何だかよく分からないんだが、おまえが言っていたことは構わない。毎日飯を食うのも、一緒に寝るのも、……フロにはいるのも、」


 いったん言葉を切ると、サラは大橋を見つめた。大きく澄んだ、まつ毛の長いその瞳で。大橋もごくりと渇いた喉に唾を送り込みながら、息を殺してサラの言葉に集中する。


「おまえの、子どもを産むのも」


「……サラさん!」


 その言葉が耳に届くと同時に、大橋は再びサラを力いっぱい抱き締めていた。

 サラも恥ずかしそうなほほ笑みを浮かべながら、そんな大橋の背にそっと白い手を添える。

 五月の爽やかな風が、街路灯の光の下で抱き合う二人の側をするりと駆け抜けていく。


 この日、大橋はとうとう手に入れたのだ。

 マシな人生を超えた、最高の人生を。



 −END−

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