第3話:ぷう、と膨らむ恋心。
「……ゆい、と……お呼びくださいませ」
朝のホームルームの後
結は当然のように智也のクラスに転校してきた。それも、本庄グループの力で教室の机と椅子を最高級の革張りに私物化するという暴挙とともに。
校門前で、登校中の生徒たちの視線が突き刺さる中、漆黒のリムジンから現れた美少女――本庄結は、頬をぷうっと膨らませてそう言い放った。
世界を牛耳る本庄グループの令嬢が、この街の、しかも自分の「いいなずけ」だなんて。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 本庄さんだか何だか知らないけど、智也にはあたしっていう正式な許嫁がいるんだから!」
真っ先に食いついたのは、みくるだった。お玉こそ持っていないが、その形相は今にも結の胸ぐらに掴みかからんばかりだ。
「あら、瀬能みくるさん。……そして坂下このみさんに、結城紗季さん」
結は、まるで事前にすべてを調べ上げていたかのように、一人ひとりの名前を優雅に口にした。そして、扇子を取り出して口元を隠しながら、ふふ、と余裕の笑みを浮かべる。
「瀬能さん。あなたと智也さまの『お約束』は、あくまで親同士の口約束。ですが、わたくしと智也さまの間には、本庄と結城、両家を繋ぐ血の署名が入った『契約書』がございますの。格が違いますわ、格が」
「な、なによそれ! 紙切れ一枚で智也の10年が買えると思ってんの!?」
火花が散る。まさに龍虎相打つ光景だ。
その横で、このみがいつもの穏やかな笑顔のまま、スッと智也の腕に自分の腕を絡めた。
「結さま、でしたっけ。……契約書も素敵ですけれど、智也くんが一番落ち着くのは、わたしと過ごす『1日早い』思い出の時間なんです。……ね、智也くん?」
「ひっ、……あ、ああ。まあ、このみさんとは長いしね……」
智也の背筋に冷たいものが走る。このみさんの笑顔は、怒っている時ほど美しいから困る。
さらに、反対側の袖を紗季がぎゅっと掴んだ。
「……本庄さん。お兄ちゃんのベッドの温度を知っているのは、あたしだけです。お引取りください」
「さ、紗季っ!? 変な誤解を招く言い方するな!」
智也の絶叫も虚しく、校門前は阿鼻叫喚の修羅場と化した。
◇◆◇
そして昼休み。
「智也さま、お弁当をお持ちしましたわ。本庄家のお抱えシェフが作った、特製キャビアのオムレツですわ」
「え、いや、僕は今日、みくるが作ったおにぎりがあるから……」
智也がおずおずと差し出したアルミホイル包みを見て、結は再び「ぷうっ」と頬を膨らませた。
「……不公平ですわ。どうしてわたくしだけ『本庄さん』呼びで、そんな質素な食べ物を優先するのですか? わたくしも、あなたの『結』になりたいと言っているのに」
令嬢としての威厳はどこへやら。その姿は、お気に入りのおもちゃを取り上げられた子供のようで、智也は思わず毒気を抜かれてしまった。
「わかった、わかったよ。……結さん。これでいいかな?」
「……っ!」
名前を呼ばれた瞬間、結の顔が真っ赤に染まる。彼女は慌てて扇子で顔を隠し、声を震わせた。
「……もう一度。……もう一度、お呼びになって?」
「え、あ、結さん?」
「……あ、あう……」
先ほどまでの尊大な態度はどこへやら。結はふらふらと自分の席へ戻り、机に突っ伏してしまった。どうやら、自分の押しには強いが、相手から踏み込まれると脆いタイプらしい。
◇◆◇
本庄結の電撃転入から、数日が経とうとしていた。
昼休みの教室。窓際に設置された、本庄グループの圧倒的な財力によって物理的に連結・合体された最高級革張りデスクの周りには、僕――結城智也、みくる、紗季、このみさんの四人が集まり、お弁当を広げようとしていた。
けれど、肝心の結の姿がどこにも見当たらない。
「そういえば本庄さん、あたしたちに『今日の昼食はここで待っていろ』って言っていたよね……?」
みくるが不思議そうに首を傾げ、僕も教室の壁掛け時計を見上げる。
「結さん、どうしたんだろう。遅いな……」
「あんなおっかない人、来なくていいですよ、お兄ちゃん……」
紗季が冷や汗を流しながらツンとそっぽを向く。するとすかさず、隣にいたこのみさんが僕の右腕にすり寄り、柔らかい感触を押し付けるように腕を絡めてきた。
「智也くん、それより私が今朝作った卵焼きをどうぞ。はい、あ〜ん♪」
「こ、このみさん……っ」
おっとりと微笑みながら箸を差し出してくるこのみさんにドギマギしている、まさにその頃――。
◇◆◇
同日・早朝。本庄邸の厨房。
(うふふっ……! 今朝は四時に起床して、最高の素材を最高の調理法で、このわたくし自らが作ったお弁当! 側近である鏡見の意見も厳しく取り入れ、栄養バランスとお腹持ちに加えて、最高級の煎茶も完璧にご用意いたしましたわ。お弁当箱の中のご飯とおかずの色合い、配置の美しさもバッチリ……! おほほほほ、頑張った甲斐がありましたわ!)
本庄邸の厨房で、慣れない手つきのせいで指にいくつもの絆創膏を貼りながらも、結は一生懸命にお弁当を詰めていた。
場面は変わり、朝の登校路。
結は大事そうに包みを胸元に抱きかかえ、早く智也に見せたい一心で、いつもの優雅な歩調も忘れて小走りに急いでいた。
(これであの瀬能みくるたちの手作り弁当など、軽く一蹴して差し上げますわ……、あうっ!?)
焦りからか、結のローファーのつま先が道端の小石にもつれた。
――バシャッ!!!
スローモーションのように宙を舞うお弁当箱。
派手な転倒音とともに、数時間かけて大好きな智也のために「ほぼ自分の手だけ」で作った料理が、路上に無惨にもぶちまけられてしまった。
「あっ……あうう……わたくしの、お作ったお弁当が……」
地面に散らばった卵焼きや、形の崩れてしまったおかず。
結は高級な衣服が汚れるのも構わず、ぺたんとその場に座り込んでしまった。
「せっかく……せっかく早起きして、智也様のために作ったわたくしのお弁当がぁぁぁ……!!」
令嬢の威厳も、IQ250のプライドもすべて吹き飛び、結の大きな瞳から大粒の涙がボロボロと溢れ出す。
「う、わあぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!」
「お、お嬢様……! お気を確かに! すぐにお召し替えと、本庄お抱えのシェフによる新しいお弁当を手配――」
「嫌ですわ、嫌ですわ! わたくしが、わたくしの手で作ったから意味がありますのにおおぉぉん! 智也様ぁ……っ、うわぁぁぁん!」
駆け寄った麗奈がどれほどハンカチで拭い慰めても、結の悔しさと悲しみの涙は止まることがなかった。
◇◆◇
昼休み。結が心配になり、教室を抜け出して学校の外の登校路まで探しに来た僕は、路上に座り込んで泣きじゃくる結と、介抱する麗奈の姿を見つけた。
「お〜〜〜い! 結さーーーっん!」
「……智也様……っ!」
「えぐっ……えぐっ……智也、さま……?」
僕が駆け寄り、結の前に膝をつく。
その足元の地面には、せっかく作ったのであろうお弁当の中身がこぼれていた。少し砂や泥がついてしまい、とても他人に勧められるような状態ではない。
「……智也様。わたくし、智也様に喜んで欲しくて、今朝四時に起きて、自分の手でお弁当を……。なのに、わたくしが不器用なばかりに、こんな……うぅ……」
顔を伏せて消え入りそうに呟く結。
僕は、地面に落ちたそのおかずを、無言ですっと指で拾い上げた。
「――っ!?」
「智也さま、いけませんわ! 泥がついています、お腹を壊してしまいますっ!」
止める結の声をよそに、僕はそれを躊躇いなく口に入れ、しっかりと味わって飲み込んだ。
そして、かつて見せてもらった写真と同じ――とびきりの笑顔を結に向けた。
「これ、結さんが俺のために、一生懸命作ってくれたんだろ? ――すっごくおいしいよ」
「智也様……っ……」
「結さんに、こんな一面があるなんて知らなかったよ。……よかったら、また作ってくれない?」
麗奈が息を呑み、結の瞳から再び涙が溢れ出した。
「は、はいっ……!! 喜んで……っ!!!」
教壇での尊大な態度が嘘のように、結は僕の胸へと勢いよく飛び込んできた。
「智也様ぁ……! 結、明日からもっともっと美味しいお弁当をたくさん作って魅せますわぁ……っ♡」
胸に顔を埋め、頭をゴシゴシと擦り付けて全力で甘えてくる。
そのあまりのギャップと至近距離での可愛らしさに、ドッキィィン! と心臓を撃ち抜かれ、僕は顔を真っ赤にして固まってしまった。
そこへ、僕を追いかけてきたみくる、紗季、このみさんが合流する。
「と、智也ぁぁぁーーーーっ!!! あんた、自分が今何言ったか分かってんのーーーっ!!?」
「お兄ちゃんは……お兄ちゃんは優しすぎます……!」
「……この展開は、さすがのわたくしも完全に【想定外】だわ……」
大発狂するみくる、嫉妬に震える紗季、そしてIQ300の光を点滅させてフリーズするこのみさん。
背中に凄まじいプレッシャーを感じながら、僕は冷や汗を流す。
(え? 僕、なんかマズいこと言った……?)
当然、翌日からの結による凄まじい「毎日ガチ手作り弁当攻め」が始まることになるのだが、僕が自分の発言の重大さに気づくのは、ずっと後のことだった。
◇◆◇
教室に戻り、連結デスクで繰り広げられるいつもの大騒ぎ。
智也に甘え続ける結と、怒り心頭のみくる、冷徹に思考を巡らせるこのみ。
そんな賑やかな光景を少し離れた席から見つめながら、紗季は静かに胸元をぎゅっと握りしめ、遠いあの日の記憶を思い出していた。
(あれは、まだあたしが小さかった頃……。目の前で、大好きな両親が息を引き取ろうとしていた――)
窓の外は、激しく打ちつける豪雨。
薄暗い病室のベッドの上で、事故による重傷を負った紗季の実の両親が横たわっていた。
枕元には、両親の大親友である結城夫妻――いまの紗季の両親。
そして隣には、一人息子であり、幼馴染で遠い親戚でもある結城智也――今のお兄ちゃんがいた。
同い年だが、誕生日が少しだけ早いから「お兄ちゃん」と呼んでいる。最初はおとなしい男の子だと思っていたのに、こんなに好きになるとは思いもしなかった。
酸素マスクの奥から、実父が必死の願いを絞り出す。
「……結城、頼む……。紗季を……私たちの宝物を、君に任せてもいいかな……っ」
「ああ、約束する。紗季ちゃんは、結城家が一生守り抜く。智也の『いいなずけ』として、責任を持って育てるよ」
それが、血の繋がらない妹となり、亡き両親の遺志によって結ばれた宿命の日だった。
(いま思えば、結城本家はその時、すでにみくるちゃんを引き取っていたけれど、あの緊迫した場面では言えなかったのだろう。大きくなった今なら、大人の事情がよくわかる)
「紗季……智也くんと、幸せにね……」
母の最後の言葉のあと、非情な心電図のフラット音が響き渡った。
「うっ……うわあ、ああぁぁぁぁん……っ!」
泣き崩れる小さな紗季の手を、智也は何も言わず、ただずっと温かく握り続けていてくれたのだ。
◇◆◇
結城家に引き取られ、智也、みくるとの三人暮らしが始まった翌日。
事態はさらに一変した。
隣家に住む坂下このみが、時任という渋い黒服の紳士を従え、高級なお見舞いの品を抱えて現れたのだ。
幼いながらも完全に世界を達観したような「神童オーラ」全開で。
「はじめまして、坂下このみですわ。……結城智也くんの一番の理解者として、あなたを歓迎いたします」
「……あ、ありがとう……(な、何だこの子……っ)」
両親を亡くしたばかりのシリアスな空気の中、あまりの大物っぷりに圧倒され、紗季は冷や汗を流すしかなかった。
このみはみくるより「一日早く出会った」ことを盾にマウントを取り、智也の正当なる許嫁の座をめぐる争いが始まった。
激しいケンカもするけれど、三人はまるで本当の姉妹のように仲が良かった。
特にみくるは、辛い過去があるはずなのに滅法明るく、滅多に弱音を吐かない。紗季はそんなみくるを、心から尊敬していた。
◇◆◇
ハッと我に返る紗季。
目の前では相変わらず、みくるが叫び、このみが頭を抱え、結が智也にすり寄っている。
それを見つめながら、紗季は智也の左袖をそっと強く握りしめ、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……お兄ちゃんは、優しすぎます。だから、あたしは……」
あの日、絶望の淵から無言で手を握り続けて救ってくれたお兄ちゃんを、誰にも渡したくない。
紗季の瞳の奥に、切なくも絶対に譲れない、正当なる許嫁としての強い光が宿っていた。




