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翠色のアルケミスト  作者: 蜂兎類
第1部 ヴェルディア編
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ep9 隠された坑道

 通路の壁には、昔の採掘跡が残っていた。


 つるはしで削られた無数の窪みや、鉱脈の位置を示していたであろう色褪せた印。


 その中に、明らかに新しい傷が混じっている。


「止まってください」


 エメラが声をかけた。


 壁の低い位置に、黒い線が刻まれていた。


 崩落地点で見つけたものより大きく、複雑だ。


 円の中に複数の角が組み合わされ、その周囲を細い線が取り囲んでいる。黒い塗料のようにも見えるが、近づくと微かに赤い光が線の奥を流れた。


「まだ動いている」


 エメラは距離を取ったまま、陣を観察する。


「触るなよ」


 ダンテが言った。


「分かってる」


「お前は、調べるとなるとすぐ近づくからな」


「今回は近づいてないだろ」


「念のためだ」


 ガレスは魔法陣を睨みつけた。


「これも、支柱を壊したものと同じか?」


「構造は似ていますが、こちらの方が大きい」


 エメラはランタンの角度を変える。


「火属性の術式が中心です。おそらく、一定範囲へ熱と衝撃を発生させる。ただし、それだけではありません」


「ほかに何がある?」


「外側の線が、中心の術式を守っています」


 ダンテが首を傾げる。


「守る?」


「無理に消そうとしたり、線を壊したりすると、術が即座に起動する仕掛けです」


 ガレスが息を呑む。


「触っていたら?」


「この通路の支柱が焼かれていたかもしれません」


「俺たちごと生き埋めか」


「その可能性があります」


「やはり悪趣味だ」


 ダンテの尻尾が低く揺れる。


 エメラは魔法陣の各所を目で追った。


 線は壁の凹凸へ紛れるように描かれている。正面から見れば不規則な傷にしか見えないが、少し横へ移動すると、離れていた線同士が重なり合い、1つの形を作った。


「相当慣れた術者です」


「分かるのか?」


「坑道の壁は平らではありません。その凹凸を利用して、特定の位置からしか全体が見えないようにしている」


 陣の中央付近には、小さな数字のような記号が刻まれていた。


「4……?」


 ガレスが読み上げる。


 共通語の数字で、確かに「4」と記されている。


「4番目に仕掛けた魔法陣ということか?」


「その可能性もあります。ただ……」


 エメラは魔法陣から少し離れ、通路の奥を見た。


「単独で使う術式に、わざわざ番号を付ける必要はありません」


「つまり、同じものがほかにもある?」


「少なくとも、これより前に3つ」


「昨日起きた崩落と、先週の3件」


 ダンテが言った。


「数が合うな」


「でも、崩落地点に残っていたのは、もっと小さい陣だった」


 エメラは考え込む。


「これは崩落を起こすためだけのものではない。別の大きな術式を補助している可能性があります」


「補助?」


「複数の魔法陣を離れた場所へ配置し、中心となる術を強化する方法があります」


 ガレスの顔が強張る。


「これが4番目なら、まだ何かを起こすつもりだということか」


「分かりません。ただ、既に目的を達成しているとは考えにくい」


「どうしてだ?」


「目的が崩落だけなら、証拠になるこの陣を残す必要がない。それに、仕掛けが複雑すぎます」


 坑道を崩すだけなら、もっと単純な方法がある。


 支柱を削る。火薬を使う。岩盤の弱い場所を狙う。


 それなのに、術者は時間をかけて複雑な魔法陣を複数配置している。


 崩落そのものが目的ではない。


 あるいは、崩落は別の目的を隠すために起こされた。


 エメラの中で、形の見えなかった疑問が少しずつ輪郭を持ち始める。


「解除できるか?」


 ガレスが尋ねた。


「時間をかければ。ただし、今ここで触るのは危険です」


「放置しても危険じゃないのか?」


「今は休止状態に見えます。外部からマナを送られない限り、すぐには動かないはずです」


「誰かが遠くから動かせるのか?」


「補助陣であれば、中心となる魔法陣から一斉に起動させられます」


「中心……」


 ガレスが暗い通路の奥を見る。


 焦げた金属の匂いは、その先から流れてきている。


「奥にあるのか」


「可能性はあります」


 エメラは魔法陣の位置と形を紙へ書き写した。


 その間、ダンテは周囲の匂いを調べ続けていた。


「エメラ」


「何かあったか?」


「魔法陣の下を見ろ」


 黒い線のさらに下。


 床すれすれの位置に、小さな矢印が刻まれていた。


 矢印は、通路の奥ではなく、3人が歩いてきた方向を指している。


「戻れ、という意味でしょうか」


 ガレスが言った。


「警告か?」


「警告なら、もっと分かりやすく書くはずだ」


 ダンテは矢印の先へ歩き始めた。


「匂いは奥へ続いているが、こっちにも別の匂いがある」


「別の匂い?」


「新しい油と、金属だ。崩落地点の近くで嗅いだ」


 3人は来た道を少し戻った。


 だが、目立った分岐はない。


 右側は岩壁、左側も岩壁。


 古い支柱と、崩れ落ちた石が積もっているだけだ。


「何もないぞ」


 ガレスがランタンを掲げた。


「この先は、さっき通った」


 ダンテは地面へ鼻を近づけ、ゆっくりと歩いた。


 やがて、古い崩落跡の前で止まる。


「ここだ」


 通路の片側が、大小の岩で完全に塞がれている。


 崩落してから何十年も経っているのか、岩の隙間には乾いた土が詰まり、表面には薄く苔が生えていた。


「ここは昔の横道だ」


 ガレスが言った。


「閉鎖区画がさらに奥へ続いていた頃の通路らしい。大体50年くらい前だな。崩れた後、危険だからそのまま埋めたと聞いている」


「地図には?」


「記載されているが、行き止まり扱いだ」


 エメラは崩落跡へ近づいた。


 見た目には、長年動かされていない岩の壁だ。


 だが、足元へ手をかざすと、僅かに空気が流れている。


「風がある」


「風?」


 ガレスも手を近づける。


「本当だ。冷たい空気が出てる」


「完全に塞がっていません」


 エメラは岩の隙間を観察した。


 大きな岩の間に、小さな空洞がある。


 そこから細い風が流れ、ランタンの炎をわずかに揺らしていた。


「この奥に空間があります」


「だが、これを動かすのは危険だぞ」


「岩そのものを動かす必要はないかもしれません」


 エメラは壁の端へ視線を移した。


 そこだけ岩の色が僅かに違う。


 古い土を塗りつけ、周囲の崩落跡へ似せてあるが、表面の質感が均一すぎる。


「これ、岩じゃない」


 エメラは指の関節で軽く叩いた。


 硬い音が返ってくる。


 しかし、自然の岩とは響き方が違う。


 内側に空間のある、板のような音だった。


 ガレスが目を見開く。


「扉か?」


「おそらく」


 表面を覆う土を慎重に払い落とす。


 少しずつ、人工的に削られた石板の輪郭が現れた。


 周囲の岩壁と見分けがつかないよう加工された、石造りの扉だった。


 扉の右端には、金属製の蝶番が埋め込まれている。


 石と土で隠されてはいるが、金属そのものは新しい。


 油も塗られている。


「50年前から閉じられている扉には見えませんね」


 エメラが言った。


「最近、誰かが作ったか、古い扉を付け直したか」


 ダンテが隙間へ鼻を近づける。


「この奥だ。焦げた金属の匂いも、人間の匂いも、全部ここから来ている」


 ガレスの表情から、迷いが消えた。


「開けよう」


「罠があるかもしれません」


「分かってる。だが、ここまで来て戻るわけにはいかん」


「俺も同じ意見です。ただ、慎重に調べましょう」


 扉には取っ手がなかった。代わりに、中央付近へ小さな窪みがある。


 エメラは触れずに形を確認する。魔法陣らしい線はない。ダンテも異常な匂いは感じないと言った。


「押して開く仕組みかもしれません」


 ガレスがつるはしの柄を窪みへ当てた。


「俺がやる。2人は下がってろ」


「一緒に押します」


「だが——」


「何か起きた時、ガレスさん1人では対処できません」


 エメラは杖をすぐ手に取れる位置へ置き、石扉へ手を添えた。


 ダンテは少し離れ、低い姿勢を取る。


「変な匂いがしたら、すぐ言う」


「ああ。頼む」


 ガレスとエメラが力を込めたが、最初は扉は動かなかった。


 さらに力を加えると、内部で何かが外れる、鈍い音がした。その直後、石扉が僅かに奥へ沈む。


「動いたぞ」


 ガレスがつるはしの柄を差し込み、隙間を広げた。石と石が擦れる重い音が、静かな坑道へ響く。


 扉はゆっくりと内側へ開いた。その奥から、冷たい空気が流れ出す。


 ランタンの炎が大きく揺れた。闇の中に、下へ続く細い通路が見えた。


 壁は自然の岩肌ではなく、工具で平らに削られている。足元には新しい靴跡があり、何人もの人間が繰り返し出入りしていたことが分かった。


「こんな場所が……」


 ガレスが呆然と呟く。


「俺は20年以上、この鉱山で働いてきた。それなのに、こんな通路があるなんて知らなかった」


「最近作られた可能性は?」


「いや」


 ガレスは壁へ触れた。


「削り方が古い。通路そのものは、ずっと前からあったんだ。だが、手入れされている。崩れた場所を直し、扉を付け、使えるようにした奴がいる」


 ダンテが扉の奥を睨む。


 背中の毛が僅かに逆立っていた。


「エメラ」


「分かってる」


 焦げた金属の匂い。


 術を使った後に残る、濁ったマナの気配。


 そして、何かが腐り始めたような、微かな甘い匂い。


 それらが、暗い通路の奥から流れてきている。


 先ほどまでとは比べものにならないほど濃い。


「この先に、誰かいるのか?」


 ガレスが低い声で尋ねる。


 ダンテはしばらく鼻を動かした。


「今、この近くに人間はいない」


「では、先へ進めるな」


「待ってください」


 エメラは杖を握った。


 体の奥に残る疲労を確かめる。


 昨夜使ったマナは、まだ完全には戻っていない。


 それでも、引き返すという選択肢はなかった。


「この先に何があるか分かりません。魔法陣を仕掛けた術者が戻ってくる可能性もあります」


「だから急ぐんだろ」


 ガレスが言った。


「あいつらが次の崩落を起こす前に止める」


 その目には、北坑道を預かる責任者としての覚悟があった。


 エメラは頷く。


「行きましょう。ただし、俺より前には出ないでください」


「お前はまだ本調子じゃないんだろ」


 ダンテがエメラを見上げる。


「無理をするなとは言わない。どうせ聞かないからな。だが、限界が来る前に言え」


「ああ」


「本当だな?」


「約束する」


「信用はしてないが、聞いておく」


 ダンテが先に扉の奥へ足を踏み入れた。エメラがランタンを掲げ、その後へ続く。


 ガレスもつるはしを握り直し、通路へ入った。3人が中へ入ると、背後で石扉が小さく軋んだ。


 まるで長い間閉じられていた何かが、再び口を開いたような音だった。


 通路は緩やかに下っている。ランタンの光が届く先には、まだ終わりが見えない。暗闇の奥から、焦げた金属の匂いがさらに強く流れてくる。


 その匂いに混じって、低く唸るような振動が、足元から僅かに伝わってきた。


「何かが動いている」


 エメラが呟いた。


「ずっと奥で」


 ダンテの耳が前を向く。


「機械じゃない。魔術だ」


 ガレスが息を呑んだ。3人は顔を見合わせる。


 そして、光の届かない坑道の奥へ向かって、慎重に歩き始めた。


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