第1章―3 鉱山の調査
管理小屋の中は、外から見た印象よりも狭かった。
壁際にはつるはしや金槌、予備のランタンが整然と並べられ、反対側の棚には坑道の記録をまとめた帳面が積まれている。中央に置かれた机の上には、何度も広げられたために端が擦り切れた坑道図と、飲みかけの茶が置かれていた。
奥には小さな暖炉があり、湿った薪が音を立てながら燃えている。火の温かさよりも先に、濡れた作業着と土、それから油の匂いが鼻に入ってきた。
「狭くて悪いな」
ガレスは壁際に立てかけていた椅子を引き出し、エメラへ勧めた。
「俺しか使わない詰所だ。客を迎えるようにはできてない」
「十分ですよ」
エメラは椅子へ腰を下ろした。
ダンテは肩から机へ飛び移り、坑道図の空いている部分へ座る。
ガレスが一瞬だけダンテを見た。
「本当に喋るんだな」
「さっき喋っただろ」
「いや、聞いてはいたんだが……改めて見ると不思議でな」
「俺からすれば、人間が喋ることの方が不思議だ」
「どういう理屈だ?」
「魔獣には魔獣の常識がある」
ダンテは当然のように答え、前足を揃えた。
ガレスはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「なるほど。そりゃそうかもしれんな」
張り詰めていた表情が、ほんの少しだけ緩むが、それも一瞬だった。ガレスは机の上に広げられた坑道図へ手を置いた。
「グレゴールの旦那から、どこまで聞いてる?」
「北、東、南の3つの坑道で、ここ最近、不自然な崩落が続いていること。昨日の北坑道を含めて、支柱は事前の点検で異常なしと判断されていたことです」
「カールのことは?」
「聞きました。半年前、鉱石を持ち出そうとしたとして解雇されたと」
ガレスの眉間に、深い皺が刻まれた。
「そうか」
短く答えた声には、割り切れない感情が滲んでいた。
エメラは机上の地図へ目を落とす。グレゴールの事務所で見たものより簡略化されているが、その代わり、北坑道内部の構造が詳しく描かれている。採掘中の区域、古い通路、換気用の縦穴、支柱を交換した時期まで、細かな書き込みが並んでいた。
「現在、採掘は?」
「全て止めてる」
ガレスが答えた。
「北だけじゃない。東と南もだ。昨日みたいなことが、どこで起きるか分からないからな。鉱夫たちには帰ってもらった。今いるのは俺と、各坑道の責任者、それに警備の人間だけだ」
「オズワルドさんとフィンさんも調査を?」
「ああ。東はオズワルド、南はフィンが見てる。何か見つけたら、すぐ連絡を寄こす手筈だ」
「全ての採掘を止めると、街への影響も大きいのでは?」
「大きいなんてもんじゃない」
ガレスは苦い顔をした。
「ヴェルディアは、この鉱山で食ってる街だ。鉱石が止まれば、運び屋も加工場も商人も仕事がなくなる。1日や2日ならまだしも、長引けば街全体に響く」
だからといって、人命を危険にさらしたまま採掘を再開することもできない。その判断を迫られる立場にいるガレスの顔には、昨夜から積み重なった疲労が色濃く残っていた。
「焦って再開して、また誰かが埋まる方が問題だ」
ガレスは自分に言い聞かせるように続けた。
「鉱石は掘り直せる。設備も直せる。だが、人間はそうはいかん」
「昨夜の5人は、全員ガレスさんの部下だったんですよね」
「ああ」
ガレスは視線を地図へ落とした。
「長い奴は、俺が責任者になる前から一緒に働いてる。若い奴もいた。まだ鉱山に入って2年目だ。俺が配置を決めた。俺が、あそこなら安全だと判断した」
「点検では異常がなかった」
「それでもだ」
ガレスの太い指が、机の端を強く掴んだ。
「何かを見落としていたんじゃないかと、ずっと考えてる」
責任者である以上、事故が起これば自分の責任だと考えているのだろう。エメラにも、その感覚は分からなくはなかった。
自分がもっと早く気づいていれば、自分にもう少し力があれば、そう考え続ける苦しさを、エメラは知っている。
「見落としがあったかどうかを、今から調べるんです」
エメラは静かに言った。
「最初から誰かの責任だと決めるためではありません。次の事故を防ぐために」
ガレスは顔を上げ、少しの間エメラを見つめる。
「若いのに、妙に落ち着いてるな」
「そう見えるだけです」
「そうか?」
「内心では、分からないことばかりで困っています」
横からダンテが鼻を鳴らした。
「こいつは、困っていても顔に出ないんだ。無理をしていても出ない。だから面倒なんだ」
「余計なことを言うな」
「事実だろ」
ガレスが再び小さく笑った。先ほどよりは自然な笑い方だった。
「いい相棒だな」
「もちろんだ」
ダンテは胸を張った。
「そこは否定しないんだな」
「事実だからな」
エメラは苦笑し、それから話を戻した。
「崩落した支柱について、詳しく教えてください」
ガレスは頷き、地図上の崩落地点を指した。
「昨日崩れたのは、入口から約50メトルの地点だ。主要な坑道としては浅い位置にある。人も資材もよく通るから、支柱の確認は特に念入りにやっていた」
「最後に点検したのは?」
「先月だ。だが、日常的な目視確認なら毎日してる。昨日の朝も異常はなかった。ひび割れも、腐食も、岩盤のずれもだ」
「支柱は木製ですか?」
「ああ。この辺りで採れる硬い樹木を乾燥させて使ってる。簡単には折れん。それに支柱は1本で天井を支えてるわけじゃない。横木と組み合わせて、圧力を分散するように設置してある」
「その構造が、一度に崩れた」
「そうだ」
「支柱の交換記録は残っていますか?」
ガレスは棚から分厚い帳面を取り出した。表紙には黒い指の跡がいくつも残り、角が丸く擦り減っている。ページをめくると、日付と作業内容、担当者の名前が細かく記録されていた。
「崩れた場所の支柱は、3年前にまとめて交換している。耐用年数から見ても、まだ問題が出る時期じゃない」
「交換を担当した人は?」
「俺と、昨日助けられた連中のうち2人。それから……カールだ」
ガレスの手が止まった。
「カールさんも」
「ああ。あいつは支柱を組むのがうまかった。木の癖を見る目があったんだ。曲がり方や乾燥具合を見ただけで、どの向きに荷重を掛ければいいか分かった」
「長く働いていたと聞きました」
「12年だ」
グレゴールからは10年以上と聞いていたが、ガレスは明確な年数まで覚えているようだった。
「俺とは、その前からの知り合いだった」
「鉱山へ入る前から?」
「ああ。カールは隣の村の出身でな。若い頃、一緒に荷運びの仕事をしたことがある。その後、俺が先にこの鉱山へ入って、数年遅れてあいつも来た」
ガレスの視線が、少し遠くなる。
「真面目な奴だった。無口で、愛想はよくなかったが、仕事を途中で投げるような男じゃない。危険な場所へ若い鉱夫を行かせるくらいなら、自分が行く。そういう奴だった」
「左腕の火傷も、事故で人を助けた時のものだと」
「知ってるのか」
「グレゴールさんから聞きました」
「あの時もそうだった」
ガレスはゆっくりと頷いた。
「支柱が焼けて崩れかけた坑道に、取り残された鉱夫がいた。誰も中へ入れない状況で、カールだけが飛び込んだ。あいつは腕を焼かれながら、その鉱夫を引きずり出した」
「鉱山の勲章だと言っていたそうですね」
「ああ。馬鹿な奴だろ」
口ではそう言いながら、ガレスの声には親しみがあった。
「治療すれば、もう少しましになったかもしれない。それなのに、見せつけるように袖をまくって働いてた。若い連中に『危険を甘く見るな』と教えるためだと言ってな」
「そんな人物が、鉱石を盗んだ」
ダンテが言った。
ガレスの表情が再び曇る。
「俺も、最初は信じなかった」
「解雇された時、ガレスさんはその場に?」
「いや」
ガレスは首を横に振った。
「東坑道の奥で作業をしていた。戻ってきた時には、もうカールは組合を追い出された後だった」
「本人とは話せなかったんですか?」
「家へ行った」
「会えましたか?」
「扉を開けなかった」
ガレスは低い声で答えた。
「中にいるのは分かってた。娘が泣いている声も聞こえた。俺は何度も戸を叩いた。事情を話せ、何があったんだと聞いた。だが、あいつは何も答えなかった」
「その後、街を出た」
「ああ。翌朝には家が空になっていた。娘も一緒に消えた。どこへ行ったか、誰も知らない」
小屋の中に、薪の爆ぜる音が響いた。ガレスは机の上へ置いた拳を見つめている。
「今でも、分からん」
絞り出すような声だった。
「あいつが本当に盗んだのか。それとも、何か事情があったのか。聞くこともできないまま、半年だ」
「カールさんが解雇される少し前、変わった様子はありましたか?」
エメラが尋ねると、ガレスは腕を組んだ。
「変わったといえば……変わっていた」
「どのように?」
「1人で動くことが増えた。以前は必ず組を作って坑道へ入っていたが、半年前くらいから、何かと理由をつけて単独で奥へ行くようになった」
「どの坑道ですか?」
「主に東だ」
ガレスは坑道図の端に、東坑道を示す簡単な線を書き足した。
「東坑道で、新しい銅の鉱脈が見つかった。まだ規模は分からなかったが、質はかなり良かった。最初に見つけたのがカールだったこともあって、調査と管理を任せていた」
「カールさんだけに?」
「最初は何人か付けていた。だが、途中からあいつが1人でやりたいと言い出した。人が増えると鉱脈を傷つける可能性がある、と」
「不自然だとは思わなかったんですか?」
「思ったさ」
ガレスは苦々しく答えた。
「だが、鉱脈を見る目に関しては、カールは俺より上だった。あいつがそう言うなら、何か理由があるんだろうと……信じてしまった」
「その頃から、性格も変わりましたか?」
「口数がさらに減った。顔色も悪かった。何日も眠っていないような顔で出勤してくることもあった」
「薬品の匂いや、見慣れない傷は?」
ダンテが尋ねる。
ガレスは少し驚いたようにダンテを見た。
「薬品……」
記憶を探るように目を細める。
「そういえば、一度だけ妙な匂いがしたことがある」
「どんな匂いだ?」
「甘いような、苦いような……鼻の奥に残る匂いだった。酒でも薬草でもない。カールの作業着からしていた」
ダンテの耳がわずかに動いた。
「洗脳や意識を鈍らせる薬の可能性もあるな」
「そんなものがあるのか?」
「ある。人間は、人間を操るために色々なものを作るからな」
「魔獣も似たようなことをするだろ」
「俺の一族はしない」
「お前の一族以外は?」
「知らん」
ダンテは素っ気なく答えた。
エメラは地図を見ながら考える。新しい銅の鉱脈、カールの単独行動、体調と性格の変化、そして、突然の盗難と解雇。
それらが今回の崩落と無関係だとは思えなかった。
「北坑道にも、カールさんは出入りしていましたか?」
「ああ。東の担当になった後も、資材の確認や点検で時々来ていた。あいつは3つの坑道全てに詳しい」
「古い通路も?」
「俺と同じくらいには知ってるはずだ」
ガレスは地図の奥を指した。
「北坑道には、50年以上使っていない区画がある。岩盤が不安定になって閉鎖された場所だ。地図には残っているが、入口は岩で塞いである」
「完全に通れない?」
「そのはずだ」
「そのはず、か」
ダンテが繰り返す。
ガレスは立ち上がった。
「話しているだけじゃ、何も分からんな。現場を見てもらった方が早い」
「お願いします」
「中へ入る準備をする。ランタンは持っているか?」
「あります」
「予備も持て。坑道の中で灯りを失うと、方向感覚まで狂う」
ガレスは棚から鉱山用の丈夫なランタンを取り出した。続いて、革製の頭部を守る装具と、厚手の手袋をエメラへ渡す。
「魔術師でも、落ちてくる石には勝てん」
「ありがとうございます」
エメラは素直に受け取り、身につけた。ダンテが頭部の装具を見つめる。
「俺の分は?」
「必要か?」
「俺の頭も大事だ」
ガレスは少し考え、棚の奥から小さな革袋を取り出した。
「これなら頭に被せられるかもしれん」
「袋じゃないか」
「大きさが合うのは、それくらいしかない」
「俺の威厳が損なわれる」
「石が当たるよりましだろ」
「俺は避ける」
ダンテは即座に拒否し、エメラの肩へ飛び乗った。
「落石があったら知らせろよ」
「お前より先に気づく」
「頼りにしてる」
「当然だ」
◇
北坑道の入口には、太い木材で組まれた門が設けられていた。
昨夜までは自由に出入りできた場所だが、今は警備隊員が2人立ち、許可のない者が入らないよう監視している。
ガレスが責任者の証票を見せると、隊員が門を開いた。
「内部の状況は?」
ガレスが尋ねる。
「変化はありません。崩落地点より奥には誰も入れていません」
「分かった。俺たちが入った後も、誰も通すな」
「承知しました」
坑道へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
外の冷たい風は途切れ、代わりに湿り気を含んだ重い空気が体を包む。ランタンの炎が岩壁を照らし、凹凸のある影を作り出した。
足元には、鉱石や道具を運ぶための細い軌道が敷かれている。
ところどころに小さな水たまりがあり、靴が触れるたびに水音が響いた。
「思っていたより広いですね」
エメラが言った。
「ここは主要通路だからな。荷車同士がすれ違える幅を取ってある。奥へ行けば狭くなる」
ガレスの声が、岩壁に反響する。
外ではそれほど大きくない声でも、坑道内では何度も重なって聞こえた。
ダンテはエメラの肩から下り、地面を歩き始めた。
鼻を低くし、空気と地面の匂いを交互に確かめている。
「何か分かるか?」
「土、油、鉄、人間、汗」
「普段の鉱山の匂いか」
「それに、焦げた匂いが残っている」
ダンテは崩落地点の方向へ顔を向けた。
「街で会ったフードの男と、よく似た匂いだ」
エメラの表情が引き締まる。
「同じものだと思うか?」
「近づけば分かる」
坑道を進むにつれ、昨夜の痕跡が増えていった。
壁際に積まれた砕石。
床へ落ちた工具。
救助の際に使用した木材。
そして、エメラが術で生み出した根の一部も残っている。
役目を終えた根は既に光を失い、普通の木のように坑道を支えていた。
ガレスがその根へ手を触れる。
「改めて見ると、とんでもない術だな」
「応急的なものです。長期間、坑道を支え続けられるわけではありません」
「それでも十分だ。これがなければ、救助の途中でまた崩れていた」
「今日中に、正式な支柱へ交換した方がいいでしょう」
「ああ。そのつもりだ」
崩落地点は、鉱夫たちの手によってある程度片づけられていた。
だが、破損した支柱や天井の岩盤は、事故直後の状態を残すために手を付けず保存されている。
「ここだ」
ガレスが立ち止まった。天井を支えていた横木が折れ、片側へ大きく傾いている。
床には折れた支柱が並べられ、破断面が確認できるようになっていた。
エメラはランタンを近づける。
「これは……」
支柱の中央付近が、黒く変色していた。単純に圧力で折れたものではない。
木の表面が焼け、細かな亀裂が放射状に広がっている。だが、火事が起きた形跡はなく、焼けているのは狭い範囲だけだった。
「支柱が燃えたんですか?」
「いや。昨日、救助が終わってから見つけた」
ガレスが答えた。
「火が回ったなら、周りにも跡が残る。だが焼けているのは、この部分だけだ」
エメラは手袋を外し、黒くなった木へ指を触れた。
煤のようなものが指先へ付着する。鼻へ近づけると、苦い焦げ臭さの奥に、金属を熱したような匂いが混じっていた。
「ダンテ」
「ああ。同じ匂いだ」
ダンテが破断面へ鼻を近づける。
「街で嗅いだ男の服に付いていたものと、かなり近い。ただ、こっちの方が強い」
「術を使った痕跡でしょうか」
「そう考えるのが自然だ」
エメラは支柱の周囲を調べた。
床 岩壁 隣の支柱。
やがて、黒く焦げた支柱の根元近くに、細い線が刻まれていることに気づく。
傷にしては規則的だった。
数本の線が交差し、小さな円を作っている。煤と土で隠されており、ランタンを斜めから当てなければ見落としてしまうほど薄い。
「ガレスさん。この傷に見覚えはありますか?」
「傷?」
ガレスがしゃがみ込む。
「いや……昨日までは気づかなかった。道具が当たった跡じゃないのか?」
「それにしては整いすぎています」
エメラは線の上へ指を滑らせた。
微かだが、マナの残滓がある。
術が発動してから時間が経っているため、ほとんど消えかけている。それでも、自然に発生したものではないことは分かった。
「小規模な魔法陣です」
「魔法陣?」
「おそらく、支柱の一部分だけへ強い熱と衝撃を与えるためのものです」
ガレスの顔色が変わった。
「誰かが、支柱を折ったというのか」
「断定はできません。ただ、少なくとも自然にできた線ではありません」
「爆発させたのか?」
「爆発と呼べるほど大きなものではないと思います」
エメラは破断面を見た。
「広範囲を壊すのではなく、支柱の芯だけを脆くする。その後、坑道の振動や荷重で自然に折れたように見せたのでしょう」
「そんなことが……」
「可能です。坑道の構造を理解している人物なら、どの支柱を弱らせれば崩落を起こせるかも分かる」
ガレスは黒く焼けた支柱を見つめた。
握った拳が震えている。
「じゃあ、やっぱりカールが……」
「まだ決めつけない方がいい」
ダンテが言った。
「坑道を知っている人間は、カールだけじゃないだろ」
「だが、あいつなら、この場所の構造を知ってる」
「知っていることと、やったことは別だ」
エメラも頷いた。
「それに、この魔法陣を作るには、鉱山の知識だけでなく魔術の知識も必要です。カールさんは魔術を使えたんですか?」
「いや」
ガレスはすぐに答えた。
「少なくとも、俺が知る限りでは使えない。簡単な魔道具を動かす程度のマナはあったが、魔術師じゃない」
「なら、別の人物が関わっている可能性が高い」
「カールが場所を選び、魔術師が仕掛けた可能性もあるぞ」
ダンテが冷静に付け加える。
「ああ」
エメラは否定しなかった。
まだ、どちらの可能性も残っている。
「この印は、ほかの崩落地点にも?」
「分からん」
ガレスは首を横に振った。
「東と南には、すぐ知らせる。支柱を燃やしたような跡と、妙な刻印がないか確認させる」
「お願いします。ただし、線には触れないように伝えてください」
「危険なのか?」
「魔法陣には、調べようとした者へ反応する仕掛けを組み込むことがあります」
エメラは刻まれた線を慎重に観察した。
この小さな陣そのものは、既に力を失っている。
だが、同じ術者が別の場所へ何を仕掛けているかは分からない。
「悪趣味だな」
ダンテが言った。
「見つけた者まで巻き込むのか」
「証拠を残したくない術者は、そうする」
「エメラもできるのか?」
「知識としては知っている。ただ、使いたいとは思わない」
「お前らしいな」
エメラは立ち上がり、周囲を見渡した。
「ダンテ。匂いは、ここで途切れているか?」
「いや」
ダンテは坑道の奥へ顔を向けた。
「続いてる」
「奥へ?」
「ああ。薄いが、同じ焦げた金属の匂いが流れてきている」
ガレスが眉をひそめる。
「昨日の崩落より奥は、採掘場所があるだけだ。今は誰もいない」
「確認してもいいですか?」
「もちろんだ」
◇
3人は崩落地点を越え、北坑道の奥へ進んだ。
先ほどまで広かった主要通路は次第に狭くなり、岩壁の圧迫感が強くなっていく。
一定間隔で取り付けられたランタンは、採掘停止に伴って火を落とされていた。ガレスとエメラの持つ灯りだけが、暗闇を切り取っている。
足音が響く。
水滴が落ちる。
遠くで岩が小さく軋む。
それ以外の音はなかった。
人が働いていない鉱山は、まるで巨大な生き物が息を潜めているようだった。
「普段は、もっと騒がしいんですか?」
「ああ」
ガレスが先頭を歩きながら答えた。
「つるはしの音、荷車の車輪、鉱夫たちの声。場所によっては、隣の奴と話すのも苦労するほどだ」
「今は静かすぎるな」
ダンテが言った。
「自分の足音が、後ろからついてきているように聞こえる」
「怖いのか?」
「俺が怖がるわけないだろ」
「そうか」
「確認しただけだ」
ダンテは何事もなかったように前を向いた。
しばらく進むと、通路が2つに分かれた。
右は現在も使われている採掘区画。
左には古びた木製の柵が置かれ、立入禁止を示す札が下がっている。
ダンテは迷わず左へ向かった。
「匂いはこっちだ」
「そっちは閉鎖区画だ」
ガレスが言った。
「いつから閉鎖されているんですか?」
「俺が入るより前からだ。少なくとも50年は使われてない」
「理由は?」
「鉱脈が尽きたことと、岩盤が脆くなったことだ。掘り進めても利益がない上に危険だから、入口を塞いだと聞いている」
エメラは柵へランタンを近づけた。
厚く埃が積もっている。
だが、柵と岩壁が接する部分だけ、不自然に埃が薄かった。
「最近、動かされています」
ガレスが目を見開いた。
「何?」
「ここを見てください」
床には、柵を引きずった細い跡が残っている。
古い傷の上に、新しい傷が重なっていた。
さらに柵の留め具にも、最近付着したと思われる油が僅かに光っている。
「誰かが出入りしてる」
ダンテが柵の隙間へ鼻を入れた。
「焦げた匂いが強くなった。それに、人間が何度も通った匂いがする」
「見張りは気づかなかったのか」
ガレスが低く呟く。
「この場所は採掘区域から外れてる。作業中でも、人が近づくことはほとんどない。奥へ行く理由がないからだ」
「だから隠れるには都合がよかった」
エメラが柵へ手を掛ける。
「動かします」
3人で柵を脇へ寄せた。
奥に現れた通路は、主要坑道よりも遥かに狭く、天井も低かった。
支柱の多くは黒ずみ、ところどころ腐食している。床には砕けた石が積もり、長い間放置されていたことが分かる。
「気をつけろ」
ガレスが声を低くした。
「ここから先は、安全の保証がない。足元だけじゃなく、天井も見ろ」
ガレスはつるはしの柄で岩壁を軽く叩いた。
音を聞き、空洞や亀裂がないか確かめている。
数歩進むごとに立ち止まり、安全を確認する。
エメラも周囲の岩と、古い支柱の状態を観察しながら後へ続いた。
ダンテは体が小さいことを生かし、少し先まで進んでは戻ってくる。
「まだ続いてる」
何度目かの確認で、ダンテが言った。
「匂いが段々濃くなっている。ここを使っていたのは間違いない」
通路の壁には、昔の採掘跡が残っていた。
つるはしで削られた無数の窪み。
鉱脈の位置を示していたであろう色褪せた印。
その中に、明らかに新しい傷が混じっている。
「止まってください」
エメラが声をかけた。
壁の低い位置に、黒い線が刻まれていた。
崩落地点で見つけたものより大きく、複雑だ。
円の中に複数の角が組み合わされ、その周囲を細い線が取り囲んでいる。黒い塗料のようにも見えるが、近づくと微かに赤い光が線の奥を流れた。
「まだ動いている」
エメラは距離を取ったまま、陣を観察する。
「触るなよ」
ダンテが言った。
「分かってる」
「お前は、調べるとなるとすぐ近づくからな」
「今回は近づいてないだろ」
「念のためだ」
ガレスは魔法陣を睨みつけた。
「これも、支柱を壊したものと同じか?」
「構造は似ていますが、こちらの方が大きい」
エメラはランタンの角度を変える。
「火属性の術式が中心です。おそらく、一定範囲へ熱と衝撃を発生させる。ただし、それだけではありません」
「ほかに何がある?」
「外側の線が、中心の術式を守っています」
ダンテが首を傾げる。
「守る?」
「無理に消そうとしたり、線を壊したりすると、術が即座に起動する仕掛けです」
ガレスが息を呑む。
「触っていたら?」
「この通路の支柱が焼かれていたかもしれません」
「俺たちごと生き埋めか」
「その可能性があります」
「やはり悪趣味だ」
ダンテの尻尾が低く揺れる。
エメラは魔法陣の各所を目で追った。
線は壁の凹凸へ紛れるように描かれている。正面から見れば不規則な傷にしか見えないが、少し横へ移動すると、離れていた線同士が重なり合い、1つの形を作った。
「相当慣れた術者です」
「分かるのか?」
「坑道の壁は平らではありません。その凹凸を利用して、特定の位置からしか全体が見えないようにしている」
陣の中央付近には、小さな数字のような記号が刻まれていた。
「4……?」
ガレスが読み上げる。
共通語の数字で、確かに「4」と記されている。
「4番目に仕掛けた魔法陣ということか?」
「その可能性もあります。ただ……」
エメラは魔法陣から少し離れ、通路の奥を見た。
「単独で使う術式に、わざわざ番号を付ける必要はありません」
「つまり、同じものがほかにもある?」
「少なくとも、これより前に3つ」
「昨日起きた崩落と、先週の3件」
ダンテが言った。
「数が合うな」
「でも、崩落地点に残っていたのは、もっと小さい陣だった」
エメラは考え込む。
「これは崩落を起こすためだけのものではない。別の大きな術式を補助している可能性があります」
「補助?」
「複数の魔法陣を離れた場所へ配置し、中心となる術を強化する方法があります」
ガレスの顔が強張る。
「これが4番目なら、まだ何かを起こすつもりだということか」
「分かりません。ただ、既に目的を達成しているとは考えにくい」
「どうしてだ?」
「目的が崩落だけなら、証拠になるこの陣を残す必要がない。それに、仕掛けが複雑すぎます」
坑道を崩すだけなら、もっと単純な方法がある。
支柱を削る。火薬を使う。岩盤の弱い場所を狙う。
それなのに、術者は時間をかけて複雑な魔法陣を複数配置している。
崩落そのものが目的ではない。
あるいは、崩落は別の目的を隠すために起こされた。
エメラの中で、形の見えなかった疑問が少しずつ輪郭を持ち始める。
「解除できるか?」
ガレスが尋ねた。
「時間をかければ。ただし、今ここで触るのは危険です」
「放置しても危険じゃないのか?」
「今は休止状態に見えます。外部からマナを送られない限り、すぐには動かないはずです」
「誰かが遠くから動かせるのか?」
「補助陣であれば、中心となる魔法陣から一斉に起動させられます」
「中心……」
ガレスが暗い通路の奥を見る。
焦げた金属の匂いは、その先から流れてきている。
「奥にあるのか」
「可能性はあります」
エメラは魔法陣の位置と形を紙へ書き写した。
その間、ダンテは周囲の匂いを調べ続けていた。
「エメラ」
「何かあったか?」
「魔法陣の下を見ろ」
黒い線のさらに下。
床すれすれの位置に、小さな矢印が刻まれていた。
矢印は、通路の奥ではなく、3人が歩いてきた方向を指している。
「戻れ、という意味でしょうか」
ガレスが言った。
「警告か?」
「警告なら、もっと分かりやすく書くはずだ」
ダンテは矢印の先へ歩き始めた。
「匂いは奥へ続いているが、こっちにも別の匂いがある」
「別の匂い?」
「新しい油と、金属だ。崩落地点の近くで嗅いだ」
3人は来た道を少し戻った。
だが、目立った分岐はない。
右側は岩壁。
左側も岩壁。
古い支柱と、崩れ落ちた石が積もっているだけだ。
「何もないぞ」
ガレスがランタンを掲げた。
「この先は、さっき通った」
ダンテは地面へ鼻を近づけ、ゆっくりと歩いた。
やがて、古い崩落跡の前で止まる。
「ここだ」
通路の片側が、大小の岩で完全に塞がれている。
崩落してから何十年も経っているのか、岩の隙間には乾いた土が詰まり、表面には薄く苔が生えていた。
「ここは昔の横道だ」
ガレスが言った。
「閉鎖区画がさらに奥へ続いていた頃の通路らしい。崩れた後、危険だからそのまま埋めたと聞いている」
「地図には?」
「記載されているが、行き止まり扱いだ」
エメラは崩落跡へ近づいた。
見た目には、長年動かされていない岩の壁だ。
だが、足元へ手をかざすと、僅かに空気が流れている。
「風がある」
「風?」
ガレスも手を近づける。
「本当だ。冷たい空気が出てる」
「完全に塞がっていません」
エメラは岩の隙間を観察した。
大きな岩の間に、小さな空洞がある。
そこから細い風が流れ、ランタンの炎をわずかに揺らしていた。
「この奥に空間があります」
「だが、これを動かすのは危険だぞ」
「岩そのものを動かす必要はないかもしれません」
エメラは壁の端へ視線を移した。
そこだけ岩の色が僅かに違う。
古い土を塗りつけ、周囲の崩落跡へ似せてあるが、表面の質感が均一すぎる。
「これ、岩じゃない」
エメラは指の関節で軽く叩いた。
硬い音が返ってくる。
しかし、自然の岩とは響き方が違う。
内側に空間のある、板のような音だった。
ガレスが目を見開く。
「扉か?」
「おそらく」
表面を覆う土を慎重に払い落とす。
少しずつ、人工的に削られた石板の輪郭が現れた。
周囲の岩壁と見分けがつかないよう加工された、石造りの扉だった。
扉の右端には、金属製の蝶番が埋め込まれている。
石と土で隠されてはいるが、金属そのものは新しい。
油も塗られている。
「50年前から閉じられている扉には見えませんね」
エメラが言った。
「最近、誰かが作ったか、古い扉を付け直したか」
ダンテが隙間へ鼻を近づける。
「この奥だ。焦げた金属の匂いも、人間の匂いも、全部ここから来ている」
ガレスの表情から、迷いが消えた。
「開けよう」
「罠があるかもしれません」
「分かってる。だが、ここまで来て戻るわけにはいかん」
「俺も同じ意見です。ただ、慎重に調べましょう」
扉には取っ手がなかった。代わりに、中央付近へ小さな窪みがある。
エメラは触れずに形を確認する。魔法陣らしい線はない。ダンテも異常な匂いは感じないと言った。
「押して開く仕組みかもしれません」
ガレスがつるはしの柄を窪みへ当てた。
「俺がやる。2人は下がってろ」
「一緒に押します」
「だが——」
「何か起きた時、ガレスさん1人では対処できません」
エメラは杖をすぐ手に取れる位置へ置き、石扉へ手を添えた。
ダンテは少し離れ、低い姿勢を取る。
「変な匂いがしたら、すぐ言う」
「ああ。頼む」
ガレスとエメラが力を込めたが、最初は扉は動かなかった。
さらに力を加えると、内部で何かが外れる、鈍い音がした。その直後、石扉が僅かに奥へ沈む。
「動いたぞ」
ガレスがつるはしの柄を差し込み、隙間を広げた。石と石が擦れる重い音が、静かな坑道へ響く。
扉はゆっくりと内側へ開いた。その奥から、冷たい空気が流れ出す。
ランタンの炎が大きく揺れた。闇の中に、下へ続く細い通路が見えた。
壁は自然の岩肌ではなく、工具で平らに削られている。足元には新しい靴跡があり、何人もの人間が繰り返し出入りしていたことが分かった。
「こんな場所が……」
ガレスが呆然と呟く。
「俺は20年以上、この鉱山で働いてきた。それなのに、こんな通路があるなんて知らなかった」
「最近作られた可能性は?」
「いや」
ガレスは壁へ触れた。
「削り方が古い。通路そのものは、ずっと前からあったんだ。だが、手入れされている。崩れた場所を直し、扉を付け、使えるようにした奴がいる」
ダンテが扉の奥を睨む。
背中の毛が僅かに逆立っていた。
「エメラ」
「分かってる」
焦げた金属の匂い。
術を使った後に残る、濁ったマナの気配。
そして、何かが腐り始めたような、微かな甘い匂い。
それらが、暗い通路の奥から流れてきている。
先ほどまでとは比べものにならないほど濃い。
「この先に、誰かいるのか?」
ガレスが低い声で尋ねる。
ダンテはしばらく鼻を動かした。
「今、この近くに人間はいない」
「では、先へ進めるな」
「待ってください」
エメラは杖を握った。
体の奥に残る疲労を確かめる。
昨夜使ったマナは、まだ完全には戻っていない。
それでも、引き返すという選択肢はなかった。
「この先に何があるか分かりません。魔法陣を仕掛けた術者が戻ってくる可能性もあります」
「だから急ぐんだろ」
ガレスが言った。
「あいつらが次の崩落を起こす前に止める」
その目には、北坑道を預かる責任者としての覚悟があった。
エメラは頷く。
「行きましょう。ただし、俺より前には出ないでください」
「お前はまだ本調子じゃないんだろ」
ダンテがエメラを見上げる。
「無理をするなとは言わない。どうせ聞かないからな。だが、限界が来る前に言え」
「ああ」
「本当だな?」
「約束する」
「信用はしてないが、聞いておく」
ダンテが先に扉の奥へ足を踏み入れた。エメラがランタンを掲げ、その後へ続く。
ガレスもつるはしを握り直し、通路へ入った。3人が中へ入ると、背後で石扉が小さく軋んだ。
まるで長い間閉じられていた何かが、再び口を開いたような音だった。
通路は緩やかに下っている。ランタンの光が届く先には、まだ終わりが見えない。暗闇の奥から、焦げた金属の匂いがさらに強く流れてくる。
その匂いに混じって、低く唸るような振動が、足元から僅かに伝わってきた。
「何かが動いている」
エメラが呟いた。
「ずっと奥で」
ダンテの耳が前を向く。
「機械じゃない。魔術だ」
ガレスが息を呑んだ。3人は顔を見合わせる。
そして、光の届かない坑道の奥へ向かって、慎重に歩き始めた。




