ep3 翠玉の光
食事が終わると、2人は夜の街並みを散策するために外へ出た。
扉を押すと、夜の空気が顔に当たる。昼間よりも冷たく、しかし不快ではない。山の街の夜の冷気は、どこか澄んでいて、肺の奥まで気持ちよく入ってくる。エメラは少し目を細めて、石畳の続く通りを見渡した。
思ったよりも、人がいた。
仕事を終えた鉱夫たちが、あちこちに散見される。重そうな足取りで帰路につく者、連れ立って馴染みの店に吸い込まれていく者、路地の角で煙草に火をつけながら仲間と笑い合う者。彼らの笑い声は太く、よく通る。一日の疲れを笑いで洗い流すような、そういう声だ。
通りには鉱夫だけでなく、商人や旅人、家族連れの姿もあった。肉屋の店先では、吊るされたランタンの下で主人が残り物を売り捌いている。青果店はもう店じまいを始めていたが、それでも最後の客と値段の交渉を続けていた。パン屋からは、焼き直した生地の香りがまだ漏れている。
石畳の上を、人が流れていた。川のように、緩やかに、しかし絶えず。
「賑やかだな」
ダンテが耳をそばだてながら言った。
「山の街だから、もっと静かかと思っていた」
「鉱山で働く者が多いと、夜も活気があるらしい。昼間の仕事が終わってからが、彼らの時間なんだろう」
エメラは通りをゆっくり歩きながら答えた。
酒場の扉が開くたびに、中の喧騒がどっと溢れ出てくる。歌声が聞こえた。上手くはないが、楽しそうだった。通り過ぎる一瞬だけ聞こえて、また扉が閉まると遠ざかっていく。
露店が数軒、通りの端に並んでいた。焼いた串肉を売る店、温かい飲み物を売る店、安価な装飾品を並べた店。串肉の煙が石畳の上を這い、ランタンの光の輪の中でくるくると渦を巻いていた。
「いい匂いだ」
ダンテの鼻がひくついた。
「さっき食べたばかりだろう」
「鼻と胃は別々に動く」
エメラは苦笑しながら、露店の前を通り過ぎた。
頭上では、家々の窓に灯りがともっていた。黄色く温かい光が、窓枠の形に切り取られて石畳に落ちている。どこかの窓では子供が外を覗いていた。目が合うと、すぐに引っ込んだ。エメラは小さく手を振ったが、もう見ていなかった。
街の中心から少し外れると、通りは静かになった。石畳は続いているが、ランタンの間隔が広くなり、光と影が交互に現れる。歩くたびに、自分の足音がよく聞こえた。
そのときだった。
路地の奥で、何かが動いた。
エメラの足が、自然と止まる。意識して止めたのではない。体が先に反応した。
「エメラ、あれ見ろ」
ダンテが尻尾でとある建物の方向を示した。
「ああ、わかっている」
エメラは目を凝らした。
路地の奥に、フードを被った男が立っている。深くフードを被っているせいで顔は見えない。だが体の向きが、落ち着かない。頻繁に左右を確認し、まるで何かを、あるいは誰かを探しているようだった。
「怪しいな」
エメラが呟いた。
「ああ。匂いも変だ。何か……焦げたような、金属のような……」
ダンテが鼻を鳴らした瞬間、男がこちらに気づいた。
目が合った、とエメラが感じた次の瞬間には、男は路地の奥に消えていた。足音もなく、影が溶けるように。
「追うか?」
ダンテが訊いた。
「いや、やめておこう。余計なトラブルは避けたい」
「お前、いつからそんなに慎重になったんだ?」
「お前と旅をしてから学んだんだよ」それを聞きダンテは笑う。
「それは賢明だ」
エメラも小さく笑い、路地から視線を外した。ただ、背中のどこかに、小さな引っかかりが残った。焦げたような匂い。ダンテの嗅覚が拾ったということは、かなりの濃度だったはずだ。
気のせいであればいい、と思いながら、エメラは歩き出した。
2人は市場を抜けて、広場に戻る。
夜が深まりつつある中で、広場はまだ明るかった。石畳に沿って立ち並ぶランタンが、温かみのある光を足元に落としている。日中の賑わいとは違う、落ち着いた時間の流れ方だ。遠くで誰かが笑い、その声が夜気の中をゆっくり漂っていく。
「綺麗な街だな」
エメラが言った。
「ああ。平和そうだ」
その言葉が終わらないうちに——
轟音が、響いた。
一度ではない。地の底から突き上げるような、鈍く重い振動が、石畳を通じて足裏に伝わってくる。エメラは反射的に身を屈め、ダンテは肩から飛び降りて地面に着地した。四本の足で地を踏み、低く構える。
「何だ!?」
「分からない! だが、方角は……」ダンテが鼻を鳴らした。
「北東だ。鉱山の方角だ」
広場の人々がざわめいた。談笑していた者たちが立ち上がり、ランタンの光の中で互いの顔を見合わせている。子供が泣き出した。老人が空を仰いだ。誰もが何かを探していたが、答えを持っている者はいなかった。
そして遠くから、声が届いた。
「助けてくれ!」
「落盤だ!」
エメラはすでに走り出していた。
「おい、エメラ! 何する気だ!」
「助けに行く」そう言うとエメラは走る速度を一段上げた。石畳を蹴る音が、夜の通りに響く。
「お前、さっき余計なトラブルは避けるって言ったばかりだろう!」
「これはトラブルじゃない。緊急事態だ」
ダンテは舌打ちしながらも、エメラの後を追った。その小さな体が、夜の石畳の上を矢のように走る。
街の北東部へ続く道は、次第に急勾配になっていった。ランタンの数が減り、地面が石畳から砂利に変わる。足場が悪くなっても、エメラは速度を落とさなかった。
人の気配が多くする場所が近づいてくる。前方に見えるのが鉱山の入り口だろう。
坑道の前は、すでに人だかりができていた。
男たちが怒鳴り合い、女性たちが泣いていた。子供の声も混じっている。ランタンをかざした者が坑道の入り口に近づこうとしては、崩れた岩の壁に阻まれて立ち尽くしている。坑道の入り口は完全に塞がれていた。大小の岩が折り重なり、隙間はほとんどない。深くから、粉塵が漂ってくる。
「誰か中にいるのか!」エメラが叫んだ。
「あぁ」1人の男が振り返った。日焼けした顔に、恐怖と焦りが剥き出しになっている。
「5人閉じ込められてる、 うちの息子もだ……」
焦りの中に絶望が見える。助けに行きたいが、どうしたらいいのか分からない、といった状態だ。必死にどうすればいいか考えているが、答えが出ない。そんな表情だ。
「崩落してどのくらい経つ!?」
「10分ほど前だ。 突然だった、いきなり坑道が崩れたんだ」
エメラは坑道の入り口を素早く見渡した。岩の積み重なり方、隙間の位置、重さの偏り。無理に引き剥がせば、上部が崩れてくる。人の力では動かせない。
「ダンテ、中の様子は分かるか?」
ダンテは岩に近づき、鼻を鳴らした。その耳がぴんと立ち、しばらくの間、静止した。
「生きてる。5人とも生きてる。だが、空気が薄い。急がないと窒息する」
「分かった」
エメラは目を閉じた。
周囲の声が、少し遠くなる。泣き声も、怒鳴り声も。自分の呼吸だけが近くなる。
「おい、エメラ」ダンテが低い声で言った。
「お前、まさか……」
「やるしかない」
エメラは杖を構えた。愛用の、節くれだった木の杖。それを岩に向ける。周囲の人々が、静かになった。何かが起きることを、本能的に察したのかもしれない。
「根を這い、幹を鎌首とせよ。大地の息を吸い、我が声を聴け。木の命、蛇の姿に転じて、地を裂け――地這い蛇」
地面から、緑色の光が立ち上った。
それは根のように、静脈のように、地を這いながら広がり、岩の隙間へと入り込んでいく。光の筋が太くなり、やがてその先から、本物の根が現れた。生きているように動く、太い根。それが岩の下に潜り込み、力をためて、押し上げていく。
「何だ、あれは……」
「魔法使いか!」
「イヤ、魔術師っていうんだぜ!」
人々の声が上がる。だがエメラには届かない。集中の向こう側にいる。
岩が、動いた。
ミシリ、と低い音を立てて、少しずつ。隙間が広がっていく。人が一人通れるほどの空間が、ゆっくりと開いていく。歓声が上がった。
しかしエメラはすぐに次の術を唱えていた。
このままでは崩れる。
「木霊よ、地に眠る鎖と成れ。根を撓め、枝を結び、我が敵を封ぜよ。天地の理に背かずして、命の動きを鎖す――樹縛鎖」
杖を地面につく。緑の光が地を走り、開いた隙間へと集まった。光が収束した場所から、鎖のように絡み合った樹木の枝が生え、岩の隙間を内側から支えていく。
「空間は作った!今だ!」エメラが叫ぶ。
その声を皮切りに、立ちすくんでいた者、叫び怒鳴り散らしていた者、泣いてその場に突っ伏していた者達が我に返り、坑道へと駆け込んだ。ランタンを手に、粉塵の中へ消えていく。
エメラは杖を握ったまま、立っていた。集中を切らせない。樹縛鎖は維持し続けなければならない。腕が重い。額に汗が滲む。それでも足を踏ん張り、光を繋ぎ止める。
長い、時間だった。
体感では何十分にも感じたが、実際はそれほどではなかっただろう。やがて、男たちが戻ってきた。
5人が、1人ずつ運び出された。
周囲が静まり返る中、彼らはゆっくりと地面に寝かされた。誰かがランタンを近づける。光が、5つの顔を照らした。
「大丈夫か!」
あの父親が、若者に駆け寄って抱きしめた。腕が震えていた。
「しっかりしろ! 意識はあるか? どこか痛むか?」
「ああ、父さん……」
力のない声だったが、確かに届いた。意識はある。目立った外傷もなさそうだ。
5人のうち3人は、軽傷のようだった。咳き込んでいるが、自力で体を起こせる者もいる。
だが、残り2人が違った。
1人はうめき声を上げながら脚を抱えている。骨に異常があるのかもしれない。
そして最後に担ぎ出された男が——
エメラは目を見開いた。
腹部から、鮮血が溢れていた。岩の破片が深く刺さったのか、着衣が真っ赤に染まっている。顔は蒼白を通り越して灰色に近く、呼吸は浅く、途切れがちだ。意識があるのかも分からない。
「もう駄目だ……医者を呼んでも間に合わない」
誰かが絞り出すように言った。絶望を声にした、その呟きが夜の空気に溶けていく。
エメラはすでに駆け寄っていた。膝をつき、男の容体を確認する。傷の深さ、出血の量、呼吸の様子。頭の中で、持っている知識が素早く動く。
「これは……今すぐ処置しなければ間に合わない」
顔を上げ、周囲を見渡した。
「怪我をしたお2人を、こちらに並べて寝かせてください」
声は、落ち着いていた。自分でも不思議なほど。
エメラの言葉に応じて、町民達が、うめき声を上げている男性を抱え、今にも死にそうな男の横へ慎重に運ぶ。誰も初対面の旅人の言葉を疑う者はいない。
2人が横たわるのを確認すると、エメラは杖を地面に突き刺し、術を唱え始める。するとエメラの足元からは植物がまるで何百倍もの早送りのように勢いよく生える。
全身が緑の光を帯び始め、やがてその光が杖に集中していく。
「木々よ、古の息吹を我が身に賜え。枯れし血を巡らせ、裂けし肉を繋げよ。地の理、再び巡れ。我が身、再び芽吹かん――《樹受再生》!」
エメラがそう唱えると杖からの光が放たれ寝かせられた2人に命中する。
その瞬間その光は男性達全体を包みだす。その光は眩しくも暖かく、まるで命の息吹、地に植えた種が大輪の花を咲かせるが如く、柔らかな光が傷口から溢れ出す。
その輝きは温もりを帯び、まるで春の陽だまりのように優しく肌を包み込んだ。裂けた肉が糸を引くように寄り添い、断たれた血管が蔦のように絡み合い、失われた生命力が根を張るように体内へと浸透していく。
痛みが引いていくのではない。痛みそのものが慈しみに変わっていくのだ。
エメラの杖から放たれる光は、まるで見えない種子を蒔くように宙を舞い、傷ついた者の身体という土壌に降り注ぐ。そして瞬く間に、生命という名の花が内側から咲き誇る。骨が軋む音さえ、新たな成長の産声のように聞こえた。
やがて光が薄れゆく頃には、そこにあったはずの深い傷は跡形もなく消え、代わりに新しい皮膚が、生まれたての花びらのように艶やかに輝いていた。
エメラは術を解いた。
植物が、逆再生するようにゆっくりと地面へ戻っていく。根が縮み、枝が溶け、緑の光が少しずつ薄れて、やがて消えた。夜の暗さが戻ってくる。エメラはその場でひとつ息をついて、膝をついた。しゃがみ込むというより、崩れ落ちる寸前を意志で止めた、という方が近かった。
「エメラ!」
ダンテが駆け寄ってきた。その声に反応して、周囲の人々がエメラの周りに集まる。
「2人の傷が治っている……今の光、あんたが治してくれたのか?」
先ほどの父親がエメラに問いかけた。その声には、まだ信じ切れていない震えがあった。
「何とか2人とも治療できました。ただ、体力までは回復させることができないので、落ち着いたら診療所まで運んであげてください」
言い終わると同時に、四方から声が上がった。
「ありがとう!」「あんたが助けてくれたんだな!」「命の恩人だ!」
言葉が重なり、混ざり合い、夜の鉱山前に広がっていく。担架を用意した男たちが、5人を慎重に運び始めていた。女性たちが寄り添い、子供たちが走り回っている。さっきまでの恐怖が、じわじわと安堵に変わっていく瞬間だ。
エメラは立ち上がり、笑顔を浮かべた。
「無事でよかった」それだけ言って、空を見上げた。月が輝き皆を照らしている。




