ep2 夕映えの道標
次に目を覚ました時、部屋は赤みを帯びた光に包まれていた。
窓の外では、遠くの山々が夕日の色に染まり始めている。赤みがかった橙色が山肌をなぞり、街の屋根をやわらかく照らしていた。少し休むつもりが、夕方近くまで眠ってしまったらしい。
「思ったより寝たな」
エメラが呟くと、ダンテがベッドの上で大きく伸びをした。
「いい宿のベッドは、眠りの質が違う」
「夕食を済ませたら、今度こそ街を見て回るぞ」
「分かったよ」
窓の外では、夕日がさらに赤みを増していた。シチューが食べられる時間まで、あと少しだった。
食事の時間になり、エメラは1階の食堂に降りた。ダンテも肩に乗っている。
階段を下りるたびに、匂いが濃くなっていく。肉と野菜の煮込まれた、丸みのある湯気の匂い。胃が、正直に鳴る。隣でダンテの鼻がひくついているのが、肩越しに伝わってきた。同じことを考えているのだろう。
食堂は賑わっていた。仕事を終えた鉱夫たちが、テーブルを囲んで酒を飲んでいる。日焼けした顔、厚い手のひら、笑い声。グラスのぶつかる音が部屋の隅まで響き、薪の爆ぜる音がその下に静かに混ざっていた。蝋燭の光が揺れ、壁に伸びた影もそれに合わせて揺れている。どこか懐かしい光景だ。どの街に行っても、こういう食堂だけは、似た空気がある。
エメラは隅のテーブルに座った。
しばらくして、女将が料理を運んできた。
「お待たせ。今夜はシチューとパンよ」
笑顔で皿を置く。どん、と音がするほど量が多い。温かいシチューから湯気が立ち上り、漂ってくる香りに肉と根菜の甘みが混ざっていた。エメラは思わず、少し前のめりになった。
「ありがとうございます」
ダンテもテーブルの上に飛び乗り、期待に満ちた目で皿を見つめている。尻尾が小刻みに揺れていた。
「あら、あなたの分もあるわよ」
女将は小皿に肉を盛って、ダンテの前に置いた。ダンテの耳が、ぴんと立つ。
「おお、ありがとう」
ダンテは嬉しそうに尻尾を振った。感謝の表情というのは、魔獣でも人間でも、どこか似ている。
エメラはスプーンを取り、シチューを一口啜った。
食堂は賑わっていた。鉱夫たちが仕事を終えて、酒を飲みながら談笑している。
温かさが喉を通り、胸の奥まで届いていくような気がした。野菜の甘みと、肉の旨みが静かに広がる。塩加減が丁度よく、飾り気がない分、素材の味がよく分かった。幾日も歩いた体に、じわじわと沁みていく。
「美味しいですね」
「ありがとう。うちの自慢の料理よ」
女将は誇らしげに言った。その顔には、長年の積み重ねからくる自信があった。
エメラはパンをちぎり、シチューに浸して食べた。パンは外が少し固く、中はやわらかだった。浸すと、みるみるうちにシチューの味を吸い込んでいく。ダンテも向かいで、肉を美味しそうに齧っていた。静かな食事の時間だ。
「そういえば」
エメラはスプーンを持ったまま、口を開いた。
「この街に『見晴らしの丘』という場所があるそうですね」
「ええ、あるわよ」
女将は頷いた。少し遠くを見るような目をして、話を続ける。
「街の北、森を抜けた先にある小高い丘よ。そこからは、街全体が見渡せるの」
「綺麗な場所なんですか?」
「ええ、とっても。特に夕暮れ時は最高よ」
女将は目を細めた。記憶を愛でるような細め方だ。
「夕日が湖に映って、街全体が金色に染まるの。言葉じゃあ、うまく伝えられないけれどね」
「若い恋人たちが、よくデートに行く場所よ」
ダンテがクスクスと笑った。
「エメラ、お前もデートに行くのか?」
「違う」
エメラは呆れた顔をした。
「実は、その丘に石碑があると聞いたんです」
「ん? ああ、あれね」
女将は少し驚いた顔をした。
「よぉく知ってるわねぇ。旅人で、あの石碑に興味を持つ人は珍しいわ」
「どんな石碑なんですか?」
「古い石碑よ。いつからあるのか、誰も知らない」
女将は腕を組みながら話す。食堂の喧騒が、少し遠くなった気がした。
「私が子供の頃から、ずっとあそこにあったわ。祖母に聞いても、そのまた祖母の時代からあったって言ってたわ」
「何か文字が刻まれているんですか?」
「ええ。でも、だーれも読めないの」
女将は首を傾げた。
「変な文字でね。学者さんたちも何人か見に来たけど、誰も解読できなかったって。学者さんたちは、あの石碑を『無言の石碑』って呼んでたわね。話を聞くと、各地に無数に点在しているみたいよ」
「無言の石碑……」
エメラは小さく呟いた。スプーンを持つ手が、止まる。
ダンテがエメラを見た。琥珀色の瞳が、何かを訴えている。問いかけるような、確かめるような、静かな視線だ。
エメラは小さく頷いた。
「明日、見に行ってみようと思います」
「そう? まあ、散歩にはいい場所よ」
女将は笑った。
「でも、森を抜けるから、気をつけてね。たまに、魔獣も出るから」
心配そうに言う。本物の心配だ、とエメラは思った。旅人に向けるそれではなく、知人に向けるそれだった。
「魔獣なら、俺がいる」
ダンテが胸を張った。小さな体を精一杯伸ばし、尻尾を高く掲げる。
「俺よりも強くて、賢くて、凛々しい魔獣は、いまだに見たことがねえ」
得意げな声だった。琥珀色の瞳が、自信に満ちて輝いている。
女将はダンテを見て、目を細めた。
「そうね」
女将は優しく笑った。
「君よりも賢くて、可愛らしい魔獣は、私も見たことがないわ」
そう言って、ダンテの頭を軽く撫でた。
「いい子ね」
女将は満足そうに笑って、厨房へ戻っていった。足音が遠ざかり、食堂の喧騒だけが残る。
しばらくの沈黙。
「……か、可愛い?」
ダンテが唖然とした顔をしている。肉を口に運ぼうとしたまま、固まっていた。まるで時が止まったかのように、ぴくりとも動かない。
エメラは口元を押さえて、笑いを堪えた。
「可愛い、だと……?」
ダンテは震える声で繰り返した。
「俺は、凛々しいって言ったんだぞ。凛々しい、だ」
「まあ、確かに可愛いな」
エメラは素直に言った。
「小さくて、黒くて、ふわふわで」
「ふざけるな!」
ダンテは立ち上がった。テーブルの上で、小さな体が怒りでぷるぷると震えている。
「俺は魔獣だ! 本気を出せば、馬よりもでかくて、速くて、強いんだぞ!」
「知ってる」
「なのに、可愛いだと!」
ダンテは前足で皿を叩いた。カチン、と音がする。
「俺を、ぬいぐるみか何かと勘違いしてるんじゃないのか!」
どうやら、ダンテは自分の今の姿が、他人の目にどう映っているのか、いまいち把握していないようだ。
ダンテの中にあるのは、本来の自分の姿だ。巨大で、力強く、闇夜に溶けるような漆黒の毛並み。大地を揺るがす足音。威圧的な、あの全身から滲み出る存在感。
だが、今この瞬間のダンテは違う。
猫ほどの大きさで、ふわふわの毛並み。大きな琥珀色の瞳。テーブルの上でぷるぷる震えながら仁王立ちするその姿は、どこからどう見ても、可愛い以外の言葉が出てこなかった。
「俺は……凛々しい……」
ダンテは力なく呟いた。
「そうだな」
エメラは笑いを堪えながら、そっとダンテの頭を撫でた。
「お前は凛々しいよ。とても」
「本当か?」
ダンテは疑わしげにエメラを見上げた。
「本当だ。走るのは速いし、本気を出したらすっごく強いしな」
まるで駄々をこねる子供をあやすように、エメラはダンテをなだめる。内心では少しだけ申し訳ないとも思っているが、笑いを堪えるのが精一杯で、それどころではなかった。
「そうだろう!」
ダンテは少し元気を取り戻した。
「あの速度で走れる魔獣なんて、そうそういないぞ!」
「ああ、知ってる」
エメラは優しく笑った。
「だから、お前は凛々しい」
「そうだ。俺は凛々しい」
ダンテは何度も頷いた。自分に言い聞かせるように、少しずつ、力強く。
「可愛いなんかじゃない。凛々しいんだ」
「ああ、凛々しい」
エメラは同意した、だが、心の中ではしっかりと思っていた。
(でも、やっぱり可愛いな)
ダンテは再び肉を齧り始めた。だがその動作は、どこかまだ不満げだった。咀嚼のリズムが、心なしか荒い。
エメラはシチューを食べ続けた。温かくて、美味しい。ただ、時々ダンテの不機嫌そうな横顔を盗み見ては、こみ上げてくる笑いを飲み込むのに苦労した。
食堂の他の客たちも、先ほどのやり取りを見ていたらしく、笑みを浮かべている。特に、隣のテーブルの若い女性二人が、ダンテをちらちらと見ながら何かを囁き合っていた。
「……可愛い」
片方が小声で言った、ダンテの耳が、ぴくり、と動いた。聞こえてしまったらしい。
「……ちくしょう」
ダンテは小さく呟いた。皿を見つめたまま、尻尾だけがぱたりと落ちる。
エメラは、もう笑いを堪えられなかった。声を立てないように、ひっそりと、しかし確かに、肩を震わせて笑った。
しばらくして、食堂の喧騒がひと段落した頃、エメラはスプーンを置いた。
「無言の石碑……か」
呟くように言った。声のトーンが、少し変わっていた。
「これで6個目か? お前の家にあったやつを入れて」
「ああ、そうだな」
ダンテはもう不機嫌ではなかった。自然と、声が落ち着いていた。
「明日にでも石碑を見に行こうと思う」
「明日?」
ダンテは顔を上げた。
「このご飯食べてからでもいいぞ」
「いや、もう暗くなっている。今日はこの後、少し街も散策したいしな」
「わかった」
ダンテは短く言って、また皿に視線を戻した。それ以上は訊かない。それが、ダンテなりの付き合い方だった。訊かなくても、隣にいる。訊かないからこそ、隣にいられる。
エメラはもう一口、シチューを啜った。
すっかり温度が下がったのに、まだ美味しかった。




