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翠色のアルケミスト  作者: 蜂兎類
第1部 ヴェルディア編
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24/57

ep24 新たなる旅立ち2

 2日後、早朝。


 空はまだ薄暗く、地平線の端が白み始めたばかりだった。朝露が石畳を湿らせ、冷たい空気が吐く息を白く変えた。馬車停留所には、すでに荷馬車が一台停まっている。鉱石を詰めた木箱が荷台に積まれ、御者の男が手綱を確認しながら出発の準備を整えていた。


 エメラとダンテが停留所の端で荷物を足元に置いて待っていると。


「おーい」しゃがれた声が遠くから聞こえる。


 振り向くと——グレゴールとガレスと、隊長が並んで立っている。見送りに来たのだろう。3人とも、早朝にもかかわらず整った格好をしている。グレゴールは杖をついており、ガレスはいつもの作業着より少し整えた服を着ていた。


「見送りありがとうございます」


 エメラが頭を下げた。


「なに言ってんだ、世話になった人くらい、ちゃんと見送らせてくれ」


 ガレスが言った。それから笑いながら付け加える。


「カールが這ってでも来ようとしていたからな、ベッドに縛り付けるのに時間食っちまった」


「まだ体が完全に回復するには時間がかかります。早く仕事に復帰できるように、今は無理をしないように伝えておいてください」


「ああ、分かってる」


 そう言うとが頷いた。


「あいつも分かってはいるんだ、気持ちが先走るだけで。まあ、それがカールらしいところでもあるがな」


 ガレスは少し目を細めた。懐かしむような、安堵したような、複雑な笑顔だった。カールが無事だということが、まだ信じられないのかもしれない。


 隊長が一歩前に出た。


「君のおかげで、こうしてみんなが何事もなく無事平穏に、いつもの日常を過ごすことができるよ」


 隊長はそう言って、手を差し出した。


「ありがとう」


 エメラも手を差し出し、握手に応えた。隊長の手は大きく、固かった。長年剣を握ってきた手だ。


「こちらこそ、お世話になりました」


「いや……俺の方こそ、疑って申し訳なかった」


 隊長は握った手を少しだけ強くした。


「あの時のことは、まだ少し引っかかっている」


「それはもう終わった話です」


 エメラは首を振った。


「隊長がああしなければ、俺の方が信用できない人間ということになる。あれで良かったんです」


 隊長はエメラをしばらく見つめ、それから頷いた。握手を解く。


「そういや、次の目的地はどこに行くんだ?」


「街道を沿って北上し、いずれはアストリア連合へ向かう予定です」


「なるほど……」


 隊長は少し考えてから、口元をほころばせた。


「じゃあもし、途中にある交易の街カルタで憲兵隊長に会ったら伝えておいてくれ」


「何をですか?」


「蛙は克服できたのか、と」


 そう言うと隊長はニヤニヤしている。エメラとダンテは思わず顔を見合わせた。カルタの憲兵隊長と何か親交があるのだろう。しかしその笑顔は、今までエメラが見てきた隊長の表情とは明らかに違った。職務上の鋭さも、警戒の色もない。いたずらっ子のような、屈託のない笑顔だ。


 エメラは今まで隊長に抱いていた印象が、するりと変わるのを感じた。


「……蛙、ですか」


「そうだ、蛙だ」


 隊長は満足そうに頷いた。


「返事がどうなるか、ちょっと楽しみにしてる」


「了解しました」


 エメラは苦笑した。


「会えたら必ず伝えておきますね」


「頼んだ」


 ダンテが肩の上でぼそりと言った。


「どんな関係なんだ、そいつとは」


「長い付き合いだ」


 隊長は笑ったまま答えた。


「それだけ言っておく」


「エメラ殿、よければこちらを」


 グレゴールが口を開いた。その手に、円筒形の革ケースがある。細長く、丁寧に革が巻かれた、何かを収納するための入れ物だ。


「これは?」


「開いてみてもよいぞ」


 エメラはケースの蓋を外し、中に収まった巻物を取り出した。慎重に広げていく。


 それは地図だった。


 大きな羊皮紙に、細かな線で描かれた地図。山脈、河川、海岸線、街道、都市の位置——それらが丁寧に書き込まれている。一枚に収まっているにもかかわらず、書かれている範囲が広大だった。エメラが今まで見てきたどの地図よりも、遥かに広い範囲が描かれている。


「これは……」


「古い世界地図の写しじゃ。地形はある程度正確なはずだが、国境や国名は今と違う」


 グレゴールが静かに言った。


 エメラは地図を広げたまま、しばらく声が出なかった。


 この世界では、測量の技術がまだ十分に発達していない。各国間のバランスや思惑もあって、世界地図というものは存在しない。何故なら現在の国境や軍路まで記された地図は軍事機密に近い扱いである。しかもこの地図は古く、なおのこと世間一般にはほとんど出回っていない。金貨をいくら積んでも手に入れることは難しく、手に入れる最低条件としては金と地位と権力の全てが必要になる。なお、それでも手に入るかどうかは分からない。金貨に換算してもいくらになるのか、見当もつかないような代物だ。


「こんな希少なものを受け取っていいんですか?」


 エメラが目を上げてグレゴールを見た。声に、驚きと戸惑いが混じっている。


「もちろんじゃ」


 グレゴールは頷いた。


「これから隅々まで世界を旅するのであれば、その地図は必要じゃろうて。それに、それは写しじゃ。貴重な原本はワシが持っておる。写しとはいえ、ちゃんと使える」


「写しでも……これは」


「この街にいつからかある世界地図じゃ。何年前のものか分からんし、作られた頃と比べて国の名前も変わっておるかもしれん。境界線も今とは違う部分があるやもしれん。しかし、山や川、大陸の形といった地形は大きく変わるものではないからの。参考にしてくれ」


 エメラは再び地図に目を落とした。


 北東にアストリア連合国の文字が見える。さらに北東に、大きな河川が大陸を横切り、山脈がいくつも連なっている。東の端には広大な海が広がり、点々と島が描かれていた。


「何年前か分からない……」


 エメラが呟いた。


「そうじゃ。ワシがこの組合を継いだ時にはすでにあった。先代も、その先代も、誰が作ったかは知らなかったそうじゃ」


 ダンテがエメラの肩から降り、地図の端に前足をかけて覗き込んだ。その鼻がかすかに動く。


「この写し自体も古い羊皮紙の匂いがするな」


「これはワシがまだ若い時分に写したものじゃ、いつか必要になるときが来るかもと思ってな。役に立ってよかったわい」


 グレゴールが言った。


「この地図を作った人間が、一体どれほどの範囲を旅したのか……」


 隊長がぼそりと言った。


「世界中を歩き回らなければ、こんなものは作れない。1人で作ったのではないのかもしれないな」


「それこそジルヴェント商会が作った……とか」


「確かにそれなら人材も豊富におるし、各国に支店があるから可能性は高そうじゃの。まあ、誰が作ったか詮索してもキリがなかろうて。エメラ殿、大事に使ってくだされ」


 エメラは地図を慎重に巻き直し、革ケースに収めた。それを両手でしっかりと持ち、グレゴールを見た。


「大切にします」


「うむ」


 グレゴールは満足そうに頷いた。


「仲間を見つける旅の頼りになれば幸いじゃ」


「……はい」


 エメラは地図のケースを鞄の底に仕舞った、落とさぬように。


「俺からもささやかながらプレゼントがある」


 そう言うと隊長はおもむろに封書を差し出した。


 エメラは受け取り、手の中でそれを確認した。


 しっかりとした封蝋が押してある。蝋の表面に紋様が刻まれており、丁寧に仕上げられていた。裏を見ると、差出人の名前が記載されていた。


 差出人には、グレゴール・ヴァーレンとロッド・ブレアの名が記されていた。


「ああ、ロッドは俺の名前だ」


 隊長が言った。エメラは少し驚いた。ずっと隊長と呼んでいたが、名前はロッドというのか。


「それを次の街に行った時でいい、冒険者ギルドに渡しな。今回の件でのエメラの活躍が書いてある。きっと冒険の役に立つはずだ」


「分かりました、ありがたく受け取ります」


 エメラは封書を大切に鞄にしまった。


「馬車の準備が整ったようじゃ」


 グレゴールが言った。御者の男がこちらに向かって手を上げている。出発の合図だ。


「では、行きます」


 エメラは荷物を肩にかけた。ダンテが素早く肩に乗る。


「エメラ殿」


 グレゴールが一歩前に出てきた。


 エメラが振り向くと、グレゴールは杖をついたまま、じっとエメラを見ていた。深い皺の刻まれた顔に、複雑な表情がある。何かを言おうとして、言葉を選んでいるような間があった。


「……元気でな」


 結局、それだけ言った。


 しかしその一言に、言おうとして飲み込んだ全ての言葉が、詰まっているような気がした。


「はい」


 エメラは頷いた。


「グレゴールさんも、お体に気をつけて」


「ワシはここを動かんよ」


 グレゴールは苦笑した。


「鉱山がある限り、ワシはここじゃ」


「それは安心しました」


「まったく……」


 グレゴールは小さく笑った。


 エメラは馬車に乗り込んだ。荷台の隅に腰を下ろすと、積まれた木箱が周りを囲む形になった。ダンテは膝の上に落ち着いた。御者の男が手綱を手に取り、馬に声をかける。


 馬車がゆっくりと動き始めた。


 エメラは振り返った。


 停留所に、3人が並んで立っていた。グレゴールが杖を高く上げた。ガレスが大きく手を振った。隊長が静かに、しかしはっきりと頷いた。


 エメラは手を振り返した。


 馬車は街道へと進んでいく。石畳の音が、やがて土の道の音に変わった。ヴェルディアの家々が遠ざかっていく。鉱山の入り口が小さく見え、やがて木々に隠れていく。見晴らしの丘が、朝の光の中に浮かんでいた。あの頂上に、石碑が立っているはずだ。


 朝の光が山の向こうから差し込み始めていた。冷たい空気の中、馬の息が白く立ち上る。


「……いい街だったな」ダンテが静かに言った。


「ああ」


「またいつか来るか?」


「いつか、きっと」


 エメラは答えた。


「カールさんに、一杯奢ってもらわないといけないしな」


「楽しみが増えたな」


 エメラは笑った。


 前を向く。北への道が、朝の光の中に続いていた。


 胸の内側に、地図がある。手の届かなかった仲間たちへの糸が、少しずつ、確かに手繰り寄せられている。


 馬車は揺れながら、北へと進んでいく。


 ヴェルディアの街が、少しずつ、遠くなっていった。

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