1話『悪役後妻に憑依した』
夜の城。
外は荒れ狂う嵐だった。
稲光が天を裂き、激しい雨が窓を叩きつける。
重く垂れたカーテンが風に煽られ、燭台の炎が揺らめいた。
大公レオニスが、冷ややかな瞳で立っている。
その視線の先――濡れたドレスをまとい、息を荒げる女。
セレーネ。
「君との結婚は、政略だ……どんなに気を引こうとそんな事をしても、君を愛することは、ない」
低く落とされた声が、稲妻の閃光に切り取られる。
白い光が一瞬、部屋を灼いた。
セレーネは息をのむ。
心臓が、強く打つ。
耳鳴りのような静寂ののち――
世界が、“ブチッ”と音を立てて軋んだ。
落雷。
窓硝子が震え、眩い光が視界を奪う。
その瞬間、彼女の意識が――切り替わった。
「……え? なに、これ?」
思わず口から漏れた声が、自分のものとは思えなかった。
「待って。私、さっきまで……ベッドで寝てたよね?」
頭の奥がじんじんする。
目の前には、見覚えのない広い部屋――磨かれた机の上では、ティーカップが小刻みに震えていた。
「なんで、ドレス? ていうか、このセリフ……どっかで――」
視界が揺れ、燭台の炎が形を崩す。
蝋が垂れ、滴る音がやけに鮮明に響く。
その音に重なるように、耳鳴りのような声が流れた。
『――白き月の誓い 第六章 後妻の暴走』
白き月の誓い?
その言葉を口の中で転がした瞬間、脳裏に稲妻のような記憶が走った。
――知ってる。このタイトル、知ってる。
「……まさか、これ……」
顔から血の気が引いていく。
見覚えのある台詞、空気、登場人物。
「これ、さっきまで読んでた泥沼官能小説のワンシーン!?」
声が裏返った。
ティーカップの震えが止まる。
代わりに、自分の指先が震えていた。
ちょっと待って……よりによって、“あの”後妻!?
破滅して、財産も愛も命までも全部失う噛ませ犬役の脇役令嬢……!
目の前の男――大公レオニス。
その冷たい瞳が、まるで物語の中から切り取られたようにリアルで、私の背筋を凍らせた。
「え、これ夢じゃなくて、ガチで憑依してる系!?」
「……何をぶつくさ言っている。ついに気が触れたのか」
冷たい声が飛ぶ。
レオニスの瞳が、まるで氷の刃のようにこちらを射抜いた。
一瞬、息が詰まる。けれど――
……あー、もういいや。原作のセレーネはここで泣き崩れるんだったっけ?
深呼吸ひとつ。
濡れた裾を摘み上げ、背筋を伸ばした。
「ご心配なさらず、閣下!
私も絶対っに!!愛しません!!」
空気が、張りつめる。
大公の眉がわずかに動いた。
まったく、なんてこと。
よりによって――よりによってここが『白き月の誓い』だなんて。
泥沼恋愛ファンタジーとして一部で話題になった官能小説。
主人公は、清らかで儚い“リディア”。
産まれながらにして婚約者だった幼馴染の大公レオニスと恋愛結婚するも、政敵にそそのかされて浮気。しかも妊娠。
当然、離縁。
でも物語的には「真実の愛を貫いた悲劇のヒロイン」扱い。
その後、地獄みたいな環境で痛い目を見た挙げ句、再び大公のもとへ戻って――なぜか許される。
最後は二人で“月の光の下で再誓い”。
ハッピーエンド(らしい)。
……いや、どこがハッピーだよ。
まあ、官能小説だからストーリーなんて適当なんだろうけど。
心理・精神的な裏切りを中心にした文学的NTR、ってどこかに書いてあった笑。
ぶ、文学的寝取られってなに?
ピタリと沈黙が落ちた。
炎がゆらめき、雨音だけが部屋を満たす。
レオニスのまなざしが、一瞬だけ揺れたように見えた。
だが次の瞬間には、氷のような声がそれを覆い隠す。
「……そうか」
彼は視線を逸らし、従者を呼びつけた。
「この女を風呂に入れてやれ。泥と血の匂いがひどい」
「は、はいっ」
慌てて駆け寄る従者たち。
私はその場に立ち尽くしたまま、ぽかんと口を開けて彼の背中を見送る。
「……え、なにこの扱い。
優しいんだか冷たいんだかわかんないんだけど」
あ、そっか。セレーネの実家の財産目当ての結婚だから、邪険にあつかえないんだっけ。
にしてはだいぶ失礼じゃない?
扉が重く閉まる。
静寂の中、雨音だけがやけに鮮やかに響いていた。
その音を聞きながら、ふと手元に視線を落とす。
指の間に、冷たい金属の感触。
掌を開くと、そこには――銀の指輪。
細いリングには、かすかに刻まれた二人の名前。
リディアとレオニス。
ああ……これ、あの人が“もう必要ない”って言いながら、窓から投げたやつ…じゃ?
手の中で光を反射する指輪を見つめながら、私は小さく息を吐いた。
「……ほんと、バカよね」
自分の中にあるセレーネの記憶がよみがえる――
数日前にレオニスはリディアとの思い出の指輪を、『もう必要ない』と呟いて窓の外に投げ捨てた。
けれど、彼はそれを後悔していた。
レオニスの沈んだ背中。それがいたたまれなくて、こんな天気なのに必死に探して来たのに、結局言い出せない挙げ句にあの言われよう。
記憶の中にあるセレーネはこの悪天候の中もずっと、あの小さな指輪を探していた。
「不憫すぎるけど、まあ私にはどうでもいい事だわ」
皮肉めいた言葉が漏れたけれど、声は少しだけ震えていた。
「セレーネってほんとに、不器用な人……」
指輪をそっと握りしめる。
冷たい金属が、掌の熱を奪っていく。
作品の中ではいつもヒステリックに喚いて、
周りに嫌われて、悪役扱いされてたけど。
本当は、いつだって彼のことばかり考えてた。
どうすれば笑ってくれるか、どうすれば振り向いてもらえるか、それだけで、世界が回ってたんだ。
「メインキャスト全員……愛の方向、間違えすぎよね。この小説」
自嘲するように笑った唇が、少しだけ震えた。
私の中にはセレーネの記憶も残っていた。
彼女がどんな朝を過ごしていたのか。
どんな香りの紅茶を好んでいたのか。
どれほど、レオニスを愛していたのか。
断片的な映像が、まるで夢の残滓のように脳裏をかすめる。
彼が笑えば嬉しくて、冷たくされれば胸が痛んで。
作中ではただの嫌な女だと思ってたけど、今はわかる。
セレーネは一途にレオニスに恋をしていた。
不器用で焼きもちの度が過ぎているのと、大金持ちのご令嬢だからダイナミックなだけ。
ただ、物語の設定上、悪役に当てられていただけだ。
「だーーーが、私は違う!」
思わず声が漏れた。
胸の奥に残っていたセレーネの感情を、勢いで振り払う。
私はセレーネじゃない。
どうせこの男には、最後に捨てられる運命が待っている。(さらに殺される)
2人が元鞘になるとどのみち離婚は確定ルートなんだから、私には関係ないもんね!
「……えーっと、今って物語のどのあたりだっけ?」
ふと、さっき耳にした“あの声”を思い出す。
『――白き月の誓い 第六章 後妻の暴走』
「そう、第六章……」
指先が止まる。
原作では、ここからセレーネが“正気を失って”リディアを追い詰め、最終的に処刑されるまで暴走するはず。
セレーネがどれだけ献身に尽くしても、レオニスはリディアに未練タラタラで、しかも「愛さない」と言われた事で壊れちゃうのよね。
「……思い出したら気分が悪い」
頭を抱える私。
外では、まだ嵐の音が続いていた。
*
湯殿は広く、白い蒸気がゆらゆらと立ちのぼっていた。
まるで現実と夢の境界が曖昧になるような空間。
熱い湯に肩まで沈みながら、私は長く息を吐いた。
「……ふぅ。とりあえず頭を整理しよう」
まず、今の状況を確認。
悪役後妻の名前は“セレーネ”。
この世界は、小説『白き月の誓い』。
そして、この先の展開を知っている“憑依者”が私。
「第六章の“後妻の暴走”直前……。あれ?そういえば、暴走?暴走しなきゃいいのでは?」
思わず湯をぱしゃっと叩く。
そうだ。もう、あの未練タラタラ夫には関わらなければいい。
――レオニスとリディア。
二人は幼馴染で、生まれた時から結婚が約束されていた。
名家同士の政略とはいえ、二人の間には確かな情があった。
緩やかに愛を育み、そのまま結婚。
けれど、夫婦に子どもはできなかった。
理由は単純――レオニスがリディアを愛しすぎて、触れることすらできなかったから。
「つまり、童貞のまんま離婚したってことね」
プッと笑いがこみ上げる。
あの完璧なポーカーフェイスは、女の扱いがわからないから故の武装なのね。
――2人の幸福な日々は長くは続かなかった。
敵対する公爵家の長男、カイン。
女遊びで名を馳せた男の甘い言葉に、リディアはそれが罠だとは知らずに落ちてしまう。
そして、身体を奪われた。(ネトラレの官能小説だからな、これ)
一度だけのはずが、抗えなかった。
その快楽に溺れ、彼と何度も密会を重ね――やがて、妊娠。
抱いたことのない妻が、子を宿した。
それが意味することなど、誰よりレオニスが理解していた。
それでも彼は、リディアの名誉を守るために黙っていた。
当時、エルバーン家は政治的立場が弱まり、資金的にも困窮していた。
そんな中、政略のために白羽の矢が立ったのが――
成金侯爵家の娘、セレーネ。
「愛したのはセレーネだ」と嘘をつき、リディアをかばう形で離婚したのだ。
……本当に、愛の方向を間違えた男だなあ。
最終的にセレーネを断罪し、ローレンス家から多額の資金を得て二人は幸せに。
という、なんともご都合主義なハッピーエンドで幕は下りる。
湯から上がり、ふわりとタオルで髪を拭う。
浴室の鏡は白く曇っていたけれど、手で軽く拭うと、そこに――知らない女の顔が映った。
波打つビンテージゴールドの髪。
透けるような白い肌。
南国の海のように光を反射するブルーの瞳。
「……うわ、セレーネってこんな美人だったの?」
思わず口に出してしまった。
いや、ちょっと待って。
これ、庶民顔の私じゃ絶対出せない完成度なんですけど!?
そりゃ、原作で“男を惑わす悪女”なんて言われるわけだわ……。
実際、奥手であるレオニスはセレーネを抱いた。(セレーネが資金援助を理由に脅して無理やり夜伽の義務誓約書を書かせたんだけど)
この物語は、リディアとセレーネ両極の官能が描かれている。
「こんなの童貞には棚ぼたでしょ」
鏡越しにもう一度、自分の瞳と目が合う。
そこに映るのは確かにセレーネ――けれど、表情の奥には私の意識が息づいている。
「……よし、美貌は武器。利用できるものは、全部使おう」
湯気の残る鏡に映る笑みは、ほんの少しだけ悪女らしく見えた。
*
寝室に戻ると――
「……は?」
思わず固まった。
レオニスがいた。
ベッドの端で、すでに上着を脱いで横になっている。
「え? 同じ寝室なの!? 別々じゃないの!?」
誰に確認するわけでもなく、思わず声が出た。
彼は薄く目を開けて、面倒くさそうにこちらを見る。
湯上がりの髪を拭きながら、できるだけ自然にベッド上のレオニスから距離を取ろうと足を運ぶ。
(まって、原作のセレーネってこのあとどうしてたっけ?
たしか……ベッドに入ってレオニスを押し倒して……)
「いや無理無理無理!!」
声が漏れそうになって、慌てて唇を押さえる。
レオニスが軽く眉をひそめた。
「うるさい」
「……っ」
あ、はい。
すみません。
まずい、非常に、まずい。
何故なら私も男慣れなんてしていないからだ。
更には私自身、この男には全く興味がない。なんならちょっと嫌いまである。
*
静寂。
ベッドの反対側から聞こえる、一定の呼吸音。
てっきり寝たのかと思って、そっと息を吐いたその時。
「……今日は、しないのか」
「……え?」
思考が一瞬で凍りついた。
何を言ってるのこの人。
「いつもは自分から手を伸ばしてくるのに」
低い声。
まるで独り言みたいに、淡々と。
でも、その響きには微妙に含みがあった。
(え、待って待って待って!? なにその“いつも”!?)
セレーネの記憶を呼び起こすと、確かに……。
心臓がどくんと跳ねる。
混乱のまま、口から出たのは反射的な言葉だった。
「……あ、あのっ、今日はちょっとやめておきます」
沈黙。
そして、ひと呼吸置いてから、レオニスの低い声が、再び降ってきた。
「……そうか」
それだけ言うと、背を向けて静かに目を閉じた。
――何もなかったかのように。
どうすればいいのかわからず、私はベッドの端で布団を引き寄せ、小動物みたいに丸まった。
遠くで雷鳴がまたひとつ鳴る。
やる事やっといて愛さないって……なんだコイツ。
最悪。
セレーネのこと、娼婦扱いしてたってこと?
好きでなくてもやる事やれるって男って便利でいいですね。
うげ、というかそもそも私そんなスキル持ち合わせてないんですけど。
ていうかレオニスがあんなこと言うなんて、前のセレーネ、どんな夜を過ごしてたのよ。
(……いや、微妙に思い出せちゃう、これ。ダメだ、精神ダメージがすごい)
枕を抱えてベッドの隅にうずくまりながら、私は天井を見上げてため息をついた。
「もう、早くリディア戻ってきてくれないかな。元鞘でもなんでもいいから、さっさと仲直りして」
そうすれば私は自由の身。
リディアが戻ったあとは離婚確定だろうし。
「……うん、それが一番平和」
「うるさい」
「す、すみません……」
【エルバーン家の設定】
エルバーン家は、帝国の建国王朝から分かれた皇族の分家筋。
初代皇帝の弟が北部の防衛と軍政を任され、「北の皇族大公」としてアルメリア地方を統治したのが始まり。
現在も、形式上は皇帝家直属の血統であり、皇帝の親族(いとこ筋)として扱われる。
現当主レオニス・ヴェル・エルバーンは、帝国唯一の皇族大公(Grand Duke of the North)。
皇帝に次ぐ格式を持つ。
皇族でありながら、帝都ではなく北方の地を治めており、政治・軍事・経済を独立的に運営している。
そのため、実質的には一国の君主として振る舞う権限を持つ。
北部アルメリアは、帝国防衛の最前線。寒冷地ゆえに資源も少なく、レオニスは幼少から「血統」よりも「責務」で育てられた。
皇帝からの信任が厚く、帝国議会では「皇帝の右腕」「北の殿下」と呼ばれる。
一方で、政治派閥の対立により、皇都の貴族たちからは“孤高の大公”として敬遠されている。




