釣り上げられた凡人
「(今日も平和だな……)」
AM 8:15。
僕、佐藤勇太の朝は、極めて平凡、かつ無味乾燥なルーティンで構成されている。
食パンをくわえて全力疾走し、遅刻ギリギリの角で曲がり角の運命に期待することもない。
そもそも僕の人生には、ヒロインとぶつかって
「痛いな、もう!」なんて言い合うフラグ自体が未実装なのだ。
教室に入れば、適当なグループの会話の端っこに漂い、
「へぇー、そうなんだ」「マジか、すごいね」
と、AIよりも無機質な相槌を打ち続ける。
窓際の、前から4番目。
アニメなら主人公の特等席だが、僕にとっては
「景色に溶け込むための観測地点」
に過ぎない。この「平和」を守ること。
それこそが、凡人である僕の至上命題であり、アイデンティティだ。
……あの日、あの男に、美術室の窓から釣り竿で制服を釣られるような形で捕まらなければ、今頃僕はもっと健全な「その他大勢」を謳歌していたはずだった。
PM 12:30。
四限目のチャイムが鳴り響き、教室の空気が一気に弛緩する。
僕は購買の熾烈な争奪戦を「凡人の歩法」で潜り抜け、辛うじて確保した焼きそばパンを頬張っていた。紅生姜の酸味が、午前中の退屈な授業で眠った脳を刺激する。
その時だった。
「(……ん?)」
スピーカーからこの世のものとは思えないような不快な高音が響き、続いて、校内放送とは思えないほど異様に「風通しのいい」声が全校に鳴り渡った。
『――全校生徒諸君、注目! 愛に迷える子羊たちよ、今すぐ校舎裏の掲示板を見るがいい。君の代わりに愛を叫び、君の代わりに玉砕の恐怖を背負う、勇気あるデリバリーが君たちを待っている!』
教室が一瞬で静まり返り、次の瞬間、失笑と溜息が混ざり合った独特の「いつものか」という空気に包まれる。
「また神宮寺だよ……」
「今度は何やってんだ、あの人。先週は『ラブレターの筆跡鑑定』とか言って、風紀委員に没収されてたろ」
クラスメイトたちの呆れ顔を横目に、僕はパンの袋を強く握りしめた。
なぜなら、スピーカーの奥から、僕にとって死神の宣告にも等しい「裏側の声」が漏れ聞こえていたからだ。
『……やめなさい神宮寺。校則第15条、生徒会および放送部の許可なき放送は停学処分の対象よ。それに、今の出力設定はスピーカーの耐久限度を5%オーバーしているわ。非効率的ね』
冷徹な、氷の粒をぶつけるような女子の声。それは我が部が誇る「人間計算機」こと、高校2年生の一ノ瀬先輩のものだ。
『あぁっ! 痛い! メガネの角でこめかみを突かないで一ノ瀬さん! 殺意が高いよ! でもこの放送こそが、悩める若者に手を差し伸べる――ぐはっ!!』
最後は鈍い打撃音で通信が途絶えた。
僕は確信した。放送室、今めちゃくちゃになっているな、と。
「告白代行部」――。
聞き馴染みのない、というか、願わくば一生聞かずに済ませたい名前だろう。
この部は、勇気が出なくて好きな子の前で吃ってしまう、あるいは「好きです」の一言が喉に詰まって窒息しそうな若者たちの代わりに、告白の成功率を上げるべくあらゆる手段を講じる部活だ。
……といえば聞こえはいいが、実際は神宮寺先輩(部長)の「情熱という名の暴走」と、一ノ瀬先輩(副部長兼会計兼書記)の「計算という名の改造」に、僕のような凡人が振り回される地獄の実験場である。
PM 3:30。
終礼のチャイムが鳴り、担任が教室を出るか出ないかのタイミングで、僕はカバンをひったくった。
今日こそは。
今日こそは、あの怪しい「部活」の魔の手を逃れ、真っ直ぐ帰宅して、録画してある『魔法少女の日常・第12話』を、誰にも邪魔されずに視聴するんだ。
僕は階段を二段飛ばしで駆け下り、掃除中の女子を華麗にスルーし、玄関で靴を履き替えるのももどかしく校門へと向かった。
あと10メートル。
校門を越え、通学路の曲がり角を曲がれば、僕の勝利だ。
「そこのきみ、ちょっとお兄さんと遊んでいかないかい?」
なぜだろう、やけにキザったらしくて寒気のする声が聞こえる。幻聴だろうか。
「そこの君だよ、佐藤くん」
背後から、心臓を直接握られたような、逃げ場を許さない声が響いた。
振り返りたくなかった。けれど、振り向かないと明日の僕の机が美術室に移設されている可能性がある。
ゆっくりと首を回すと、そこには校則を無視した派手なアロハシャツの襟を立て、モデルのようなポーズで校門に寄りかかる男がいた。
「……部長。僕、今日は母さんが原因不明の風邪で、家で至急看病しなきゃいけないという、非常にシリアスな設定なんです。お先に失礼します」
「嘘をつけ。
さっき君のお母さんが元気にスーパーの特売に並んで、レタスを奪い合っている様子を一ノ瀬の監視ネットワーク(※SNSの地域タグ調査)で確認済みだ。看病の必要はない、むしろ今夜の夕食は豪華なはずだよ!」
神宮寺部長が、まばゆいばかりの笑顔で僕の肩にガシッと腕を回した。
その腕は、まるで捕食者の鉤爪のように僕を固定し、逃走の選択肢を奪う。
「さあ、行こうじゃないか! 青春は待ってくれないんだ!
今日の依頼人は『握力80キロの純情ボーイ』、柔道部の武史くんだ!
彼は愛が重すぎて、告白の瞬間に無意識に相手を強く抱きしめてしまう癖がある。
このままでは、彼は本番で好きな子の肋骨をバキバキに折ってしまうかもしれない!」
「いや、それ告白の前に警察の案件ですよね!? 武史くんに病院を紹介してあげてくださいよ!」
「甘いぞ佐藤! 彼に必要なのは、医療ではなく『抱きしめても壊れない練習台』だ!
一ノ瀬の計算によれば、君の肋骨のしなり具合は、武史くんの握力に対する緩衝材として世界で5番目に最適だそうだ。
さあ、君が練習台になることで、世界の一つの恋と、一人の少女の肋骨を救うんだよ!!」
顔を真っ赤にして熱弁するアロハシャツと、人生3週目を思わせる瞳をした学生1人。この構図を、この世の誰がみたことがあろうか。
「救う規模が小さいし、何より僕の肋骨が真っ先に犠牲になるじゃないですかぁぁ!!」
僕は引きずられるようにして、再びあの呪われた旧校舎・第3美術室へと連行されていった。
夕日に照らされた僕の影は、これから起こるであろう「物理的な受難」を察して、情けなく地面に伸びていた。




