第32曲 産まれた日
不織布で作られた使い捨てガウンを身につけ、わたしは緊張で身を固くする。
ハッキリ言ってプロポーズの時よりも。
特に自分が何かをするわけじゃないんだけど、何もできないからこそ余計に緊張することもあるんだな。
「もう、悠樹さんが緊張してどうするの。パパになるんだからどっしり構えてて」
分娩台に横たわり、痛みに顔を歪めながらも笑顔を向けるひよりの健気さに、男という生き物の無力さを痛感してしまう。
額ににじむ汗を拭いてあげながら、せめて目を背けず最後まで見届けようと決意。
「そんな顔しないで。そばにいてくれるだけでこんなにも力強い気持ちになれるんだから。ありがとう」
一番大変なのは自分なのに、こちらのことまで気遣う優しさに胸が熱くなる。
「わたしの事はいいから、今は自分の事と赤ちゃんの事だけ考えて。わたしにできることがあるなら何でも言ってね」
男には一生分かってあげることのできない痛みだけど、例え話では鼻からスイカを出すくらいの痛みと聞いたことがある。
例えた方が分からなくなるってどういうことだ。
ありえないくらい痛いってことを表現したいんだろうけど、本当にありえないことを例えに出されても余計に混乱する。
でもとにかく痛いんだということだけは理解できるので、背中を優しくさすってあげた。
「ありがとう。触れられているととても安心する。でも陣痛が来た時は痛みが響くから離してくれる?」
「うん、わかった。他にしてほしいことはある?」
「汗が流れると気持ち悪いから拭いてほしいかな」
今まで経験したことがないほどの痛みだろうに、それでもわたしには笑顔を向けてくる。泣き笑いのようなその表情に、わたしの胸はさらに締め付けられる。
「もうすぐ産まれるのかな。だんだん陣痛の間隔が……短く……なって……!」
またしても痛みの波がやってきたのか、苦痛に顔を歪めるひより。
背中に当てていた手を離し、すぐに額や首筋ににじんでくる汗をなるべく優しく、丁寧にふき取ってあげる。
わたしの目から見て絶えず苦しんでいるんじゃないかと思うほどになった頃、ようやく助産師さんが現れた。
遅いよ!
これだけ苦しんでいるのを早くなんとかしてあげて欲しくて、いくら慣れているとはいえ悠長に構えている助産師さんに苛立ちを覚えてしまう。こんなの八つ当たりだってのは分かってるんだけどね。
これは何もできない自分に対する憤りを他に転換しようとしてるだけなんだろう。
「うん、身体の準備も出来たみたいだね。そろそろ頑張って元気な赤ちゃん産んであげようね」
妊婦の労り方は心得たものなのか、優しく声をかけながらゴム手袋をはめている。いよいよなんだなと思うとさらに緊張してしまった。
そこから先の事はよく覚えていない。
痛みを逃がす呼吸法を一緒にやって酸欠になりかけたり、ワタワタしてると看護師さんに「少し落ち着いてください」と言われたような気もするけど、記憶があいまいだ。
ただ、テレビで聞いたことがあるものよりもか細い産声を聞いた時、わたしの中の世界が変わった。
「ほら、元気な男の子ですよ」
助産師さんが取り上げたその小さな存在をひよりの胸に置いたその光景は、忘れようとしても無理だろう。
込み上げてくる涙を堪えようとしたけれど、それは無駄な抵抗というものだった。新しい命が産まれたという感動、そして頑張ってくれたひよりへの愛しさは、涙という形で流してしまわないと抑えきれるものじゃなかったから。
「ほら、パパも抱っこしてあげて」
「え、わたしが? 大丈夫?」
触れたら壊れてしまいそうな小さな生き物。看護師さんに手ほどきされながらそっと抱き上げた時、腕の中でもそりと動いた。
生きている……。
とても軽い。
ほんのり感じるその重みと、腕の中で動いたその感触も、記憶の中にしっかりと刻まれた。
「それじゃ、清拭なども必要なので、赤ちゃんはこちらでお預かりしますね」
感動の対面はわずかな時間だった。いろいろな検査や処置があるのか、生まれたばかりの我が子はすぐに看護師さんが連れて行ってしまったからだ。もう少し一緒にいたい気持ちもあったけど、体力を使い果たし、疲れ切っている母体にとってはその方がありがたいだろう。
「わたし達の赤ちゃん、産まれたね」
「うん、お疲れ様。いっぱい頑張ったね。ありがとう」
とにかく痛みから逃れられた安心感と、無事に生まれた安堵からか、ひよりの笑顔は先ほどまでと違いとても安らかだ。
「いっぱい疲れたでしょう。とにかく今は休んで」
「うん」
その後も産後の処理で一度分娩室から追い出されたものの、次にひよりが出てきたときには着替えも終わってさっぱりした顔をしていた。そしてそのまま病室へと移動。
やはり人生の大きなイベントの際に入院する部屋だけあって、普通の病院の病室に比べると豪勢な作りになっている。全室個室だし。
ひよりはやはり相当体力を消耗してしまったのか、病室についてしばらくするとそのまま眠りについてしまった。
お疲れ様。ゆっくり休んでね。
* * *
翌日、朝一番からお見舞いに来たのはわたし一人。より姉たちも来るように誘ったんだけどね。
「今日はまだ疲れているだろうし、大勢で行ったらしんどいだろ。明日にでも行くよ」
そんな気遣いが出来るのはやはり同じ女性だからだろうか。いずれ自分も通る道だからいろいろ考えることができるんだろう。
でもそんなわけで今日はひよりと二人きり、のんびりした時間を過ごすことに。
まだ完全に体力が回復していないのか、時々ウトウトしてはいたものの、その様子はいつもと変わらない元気な姿。
「ねね、ゆきちゃん。わたし始めて母乳をあげたよ。ほんと可愛かったぁ」
嬉しそうに語るその姿を見て、わたしの表情も緩んでしまう。
わたしも病室に来る前、新生児室にいる我が子の姿を見てきたが、時折動くその姿が愛しくてたまらなかった。
子供の名前は既にみんなで考えて決めてあるけど、それはまた別の物語で。
「これでわたし達も『お父さん』『お母さん』だね」
「うん。そうだね。ひよりも大変な思いをしてやりきったからか、とても優しい表情をしてる」
「そうかな? 自分では何も変わらないような気がするけど」
そんなものだろう。子供が産まれたからと言ってその日から突然何かが劇的に変わるわけじゃない。
「わたしもまだフワフワした感覚だよ。きっとね、『父親』『母親』ってのは名詞じゃなくて動詞なんだと思う」
「どういうこと? 代名詞じゃないの?」
いきなり謎かけみたいなことを言ってしまったので、きょとんとした顔のひより。
お母さんになっても相変わらず可愛い。
「文法の面ではそうだけどね。でも子供が出来たからといっていきなりなるものじゃなくて、子供の成長と一緒に、わたしたちも『お父さん』『お母さん』になっていくものだと思うんだ。そういう意味でこの言葉って動詞なのかなって」
わたしの言わんとすることが伝わったのか、微笑みながら同意してくれた。
「そうだね。わたし達も親として産まれたばかりだもん。よちよち歩きで、あちこちにぶつかりながらみんな一緒に成長していこう」
「うん。親だからって最初から何もかもが正しいわけじゃない。いろんな人を参考に、時には子供自身からも教わりながら、あの子がいつか立派に成長して巣立ちをするその日まで精いっぱい守っていくよ」
「そうだね。あの子が大人になって、わたし達が必要なくなるその日までわたし達もいっぱい勉強しないとだ」
我が子の事を考えて、その成長を想像し、いろんな事を話しあえるこの時間がとても幸せだと感じる。
これから先、子育てに関して意見が食い違うこともあるだろう。
我が子のためだと本気になるからこそ、譲れなくて喧嘩になることもあるかもしれない。
だけど、わたし達も今日親として産まれたばかりなんだとしっかり認識していれば、間違えることもあるんだと思うことが出来る。
そうやって試行錯誤しながら育て上げ、今日産まれた命がまた新しい命を紡いでくれた時、頑張ったねとお互いをたたえ合えるような関係でいたいなと思う。
新生児と親生児。そんな言葉が頭をよぎった。




