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海の女王と陸の花  作者: 天谷あきの


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21/21

青空

 マイラとカイは、その後も順調に〈窓〉の回収を続けていた。

 地図を見るまでもなく、エスメラルダの周囲をぐるりと取り囲む通気孔の、半分近くが回収されていることがわかる。


 そして。


 そろそろ日が陰り始めた頃、海の匂いだ、と鴉が言った。私は舞い上がり、マイラの頭の上にちょんと乗った。結構大胆な振る舞いだったが、マイラは驚いただけで怒りはしなかった。


 というよりむしろ、少し嬉しそうでさえある。


 首を伸ばすと、前方に、きらきら光る水面が見え始めている。


「どうしたの?」


 マイラが訊ね、私はぴょんと跳ねて肩に降りた。


「姉ちゃん、船は?」カイが声を張る。

「持ってる。……一人乗りなんだけど」

「大丈夫だよ、姉ちゃん軽いし。俺もまだ一人前ってほどは重くないから、沈みゃしないっしょ。……で、今日はどれくらい頑張るわけ? 日が暮れてから【壁】沿いを船で走んのは自殺行為だよ」


 例え俺でもね、と、カイはわざわざ付け加えた。私は思わずくすっと笑った。マイラは顔をしかめて見せ、それから空を見上げた。

 そして、何かに気づいた顔をした。


「……カイ、嵐が来る」

「えっ」


 カイも振り返る。私も後ろを向いて、それを見た。

 背後に広がる雪原の上空は、既に暗雲に覆いつくされていた。暗雲は、まるで土煙を巻き上げながら迫り来る猛獣の大群のように、暴風を巻き上げながらこちらを追いかけてきている。距離はまだ数キロはありそうだ。変な嵐だ、と鴉が言った。あんな嵐、初めて見た。


 地面から湧きあがる暴風と黒雲の渦が、周囲のすべてを飲み込みながらこちらに迫ってくる。


「……まさか」


 マイラが呻く。何さ、とカイが言った。


「何、まさかって」

「〈窓〉を閉じたところから、嵐が生じてたり……しないよね」

「まさかあ」


 カイは軽く言ったが、その目が不安げに瞬いている。あの嵐はふつうじゃない。鴉に言われるまでもなく、私だってあんなの初めて見た。


「昨日の雪山はどうだったの」

「……わかんない。三つ回収してすぐ、降りて来ちゃったもの」

「もしこれがそうなら」カイはマイラを見た。「まずいよ。俺らの居場所はエスメラルダから一目瞭然だ。急ごう、姉ちゃん。止まってる暇はない。海の上で追いつかれたら沈没だ」


「海岸沿いに一つある。今日はそれを回収したら終わりにしよう。この嵐がどれくらいで収まるのか見てからじゃないと……」

「姉ちゃんは甘いよ」再び滑り出しながらカイが言う。「そんなこと言ってる場合じゃないだろ」


 そうなのだろうかと私は思った。嵐を巻き起こらせてでも、急がなければならない仕事なのか。未だに、この『泥棒』にどんな意味があるのか私は知らない。


 海に向けた斜面を滑り降りていく。私は気が気じゃなかった。嵐が背後からのしかかってくる、その重圧をひしひしと感じる。みしみし言う、鴉が伝えてくる。こんな時に外にいるなんて落ち着かない。どこかの穴を探して潜らないと。


 なのに、二人は滑っていく。回収したあと引き返すのなら、帰りは嵐のまっただ中に突っ込んでいくことになるのに。


「あれだ」


 カイが言った。なるほど前方に、【壁】の切れ目が見えてくる。

 と――


 ――来たぞ。


 誰かが小さな、しかし鋭い声音で囁いたのが聞こえた。


 ――信じられるか。女だぞ。それも若い。

 ――もう一人もまだ子供じゃないか。なんでこんな大それたことを。

 ――待て。


 一人が鋭い声を上げた。


 ――隊長の妹じゃねえか、あれ!


 人がいるよ。鴉が囁いてきて、私は頭をもたげた。嵐の前兆が五感をかき乱しているが、鴉の聴覚はそれでも人間よりずっと鋭かった。前方の雪だまりの陰に人がいる。二人、潜んで、マイラとカイを待ち構えている。


 ――とにかく隊長に。鳩はまだか。

 ――泥棒の正体、マイラ=グウェリン……よし、書けた。

 ――急げ。来るぞ。

 ――子供の方を狙え。隊長の妹はできるだけ傷つけるな。


 マイラとカイが板を止め、マイラが〈窓〉に屈み込む。きりきりと音がして、鴉が悲鳴を上げた。

 弓だ!


『カイ、誰か狙ってる! 弓が!』


 私は叫び、舞い上がった。びいん、鋭い弓弦の音が響いた。何とか間に合った。カイは自分を狙う弓の存在に寸前で気づき、身を投げ出して矢を避けた。マイラが何か呻いた、でも、そちらを見ている余裕はなかった。


 ばさっ、翼が鳴った。

 鳩が舞い上がったのだ。


 追いかけて捕まえる。私の意志を知って、鴉が悲鳴を上げる。

 えええー! 嫌だあー!


『お願い、手伝って! 言うことを聞いて! あの鳩を捕まえて、お願いだから……!』


 叫びながら私は鴉をなだめすかして何とか体を制御した。あの鳩を行かせちゃいけない、そう思った。理由なんて後回しだ。何があっても、マイラという名を告発する手紙を、見過ごすわけにはいかない。


 嵐の前触れが私を翻弄する。相手は鳩だよ、と、鴉が泣き声をあげる。あいつら変なんだよ! どんな風でも絶対行き先を見失ったりしない変態なんだよ! 勝てるわけない!


 でもこのまま行かせたら手遅れになる。何がかはわからない、でも、そう思った。このまま見過ごせば取り返しのつかないことが起こる――そう思ったのはこれで二度目。


 いや、三度目、かもしれない。


 一度目も二度目も、私は何もできなかった。

 だから今度こそは、見過ごすわけにはいかなかった。


 嵐の放つ重圧でぎしぎしと体が歪む。死んじゃう死んじゃう死んじゃう、鴉が叫んでいる。私は嘴を食いしばり、鴉の意識を押し退けて必死で風に抗った。ただ運のいいことに、鳩も嵐に怖じ気付いていた、そこだけに光明があった。鳩は嵐を避けようと大きく左に旋回し、私が上を取ったのだ。


『お願い、力を貸して! あなたは飛ぶのが上手じゃないの! このままじゃあの渦に巻き込まれて死んじゃうわよ!』


 逃げればいいのにい――! バカバカバカ、このお嬢様ほんと厄介!! ばかあー!!!

 鴉がわめきながら、鳩の背の上に襲いかかった。


 羽根が舞った。鳩が恐怖の悲鳴を上げ、鴉は威嚇の金切り声を上げる。鉤爪が鳩の翼に引っかかり、二羽はもみ合いながら落ちていく。鳩が嘴でつついて来、鴉は必死で応戦した。その間にも次第に嵐が近づいて――いや、違う。私たちが嵐に引きずり込まれようとしていた。私は必死で目を凝らし、手紙を見た。時間があまりなかったせいか、手紙を入れた筒のふたが取れていた。中から手紙が覗いている。


「カイ! カイ、カイお願いやめて……!」


 マイラの悲鳴。下で何が起こっているんだろう。そう思いながらも私は嘴で手紙をついばんだ。はずれた。もう一度くわえた。錐もみ状態で狙いがちっとも定まらない、と、


 はやく落ちてよバカあああああっ!!


 死にもの狂いで暴れた鴉の鉤爪が通信筒に引っかかった。ばさっ、翼が鳴った。鳩が鴉の追跡を振り切ったのだ。鴉は健気にも後を追おうとしたが、私は止めた。


 通信筒は鳩の足から外れて、地面の雪の中に吸い込まれるように落ちていった。あっちを追うよ、伝えると鴉はぶうぶう不平を言った。


 なんなのもう、本当にわけわかんないんだけど。なんなのもう、あなた本当に本当に、あの狼の言うとおりあなた本当に厄介なんだけど!


 ごめん、平謝りしながら私は雪原に舞い降りた。体のあちこちがずきずき痛む。落ちたばかりの通信筒を首尾良く見つけ、嘴で拾い上げたときだ。


「……カイ……」


 どさっ。何か重い、濡れたものが、地面に落ちた音。


「……姉ちゃん、怪我はない?」


 カイの静かな声がする。二人とも無事だったことにほっとして、私はそちらへ行った。


 そこに、血だまりがあった。

 私の口から、通信筒がぽとりと落ちた。


 【壁】の向こうで待ち伏せしていた二人の男が、そこに倒れ伏していた。


 真っ白な雪原の上に、真っ赤な血が染み込んでいく。体温が見る見る雪を溶かしていくからあまり広がらない。カイが抜き身の剣を振ると血が飛んで、雪に斑点をつけた。

 マイラは真っ青だった。


「……カイ、ごめん」


 マイラが呻き、剣を拭いていたカイがマイラを見た。どことなく言い訳するような口調でカイが言った。


「顔を見られた。生かして帰すわけには、」

「わかってる。……あたしがやらなきゃいけなかった。代わりにさせてごめん」

「いいんだ。俺このために来たんだから」


 軽く言い、カイは笑った。先ほどまでと全く変わらない笑顔だった。


「姉ちゃんは【最後の娘】って重いものをもう背負ってるだろ。これ以上背負わせるんじゃないって親父に言われた。俺にはぜんぜん重くない命だけど、姉ちゃんにはきっと重すぎるだろ」


 青ざめた顔を上げ、マイラは囁いた。


「……ありがとう」

「どういたしまして」


 カイが笑う。ごおっと風が吹き付け、私は背後にたたらを踏んだ。嵐がもう寸前まで迫っている。引きずり込まれる、鴉が叫ぶ。行こう、カイが言った。


「この場所に見張りがいたことはきっとエリックも知ってる。嵐が止んだら捜しに来るよ。離れた方がいい」

「うん」


 言ってマイラは手を伸ばし、私をそっとすくい上げた。毛皮の前を開いて、温かな胸元にくるみ込んだ。とくとくと聞こえるのはマイラの心臓の音だろう。それに合わせて、小さな声が聞こえてきた。


 ――嫌だ。逃げたい。嫌だ。逃げたい。嫌だ。逃げたい。


 泣いてるみたいな悲痛なつぶやき。私の胸も一緒に痛んだ。ずきん、ずきん、鼓動とともに破れかけた心臓から血が吹き出してる、そんな印象。


 ――〈信者〉もおかしい。でもグウェリンも。そこまでしなくても。殺さなくても。同じ国民なのに。敵じゃないのに。守らなきゃいけない相手なのに。

 ――同じことじゃないか。


 反論するように笑う声。自分を嘲る声。


 ――私がしようとしてることは、もっと大勢の国民を殺すことじゃないか。偽善者。弱虫。情けない、愚かな、わがままな。逃げるなんて許さない。もうどこにも逃げられない。初めから逃げられなかった。生まれたときからずっと。


 ――嫌だ。逃げたい。嫌だ。逃げたい。逃げたい。逃げたい逃げたい逃げたい……


 ごおっ。暴風が吹き付け私は身を縮めた。マイラの胸元は温かくて、それが悲しい。


「あなたは」


 かすかな囁きが暴風に紛れて聞こえた。


「もしかしてあなたは……」

「姉ちゃん! こっちだ!」


 カイが叫んでいる。毛皮の隙間から嘴を出すと、既に雪煙でほとんど何も見えなかった。マイラがそちらに向かうと、カイの姿がひょいと消えた。

 一瞬、マイラが迷った。


 ――このまま逃げれば。

 ――エスティエルティナはやっぱりまだこの世に出てくるべきじゃなかった。

 ――このまま逃げれば。嵐に紛れて。エスティエルティナを持って、〈信者〉からもグウェリンからもエスメラルダからも逃げてしまえば……




 青空の情景が目の前にぱあっと広がった。


 どこまでも続く世界、遮るものも邪魔をする者もなにもなく、なにもいない広々とした空を、どこまでも走っていく。甘やかな感触。わくわくと胸が躍る。わあっと歓声を上げて、二人の小さな男の子たちが先を走っていく。追いつきたい。熱望がわく。一緒に走っていきたい。小さな手のひらがマイラの手を握って引っ張っていた。遊ぼうよ。一緒に遊ぼう。可愛らしい少女の声が誘っていた。一緒に行こうよ。外へ行こうよ。


 茶色の髪をした可愛らしい少女が、晴れやかな笑顔で、マイラの手を引いて走っていた。




 夢を見たのだと、私は思った。

 マイラは今、夢を見た。ずっと見続けてきた夢を。



 このままカイの方へ行かせたくない、ふと、私はそう思った。あの青空の中に引っ張って行きたい。そう思ったのは、今だろうか。それとも、――記憶だろうか。


 行かせちゃいけない。このまま見過ごしちゃいけない。

 そう思ったのに見過ごしたことが、昔、確かにあった。


 あの背の高い生け垣に囲まれた箱庭の中で。

 エクストラニクス男爵とあの子と、一緒に遊んだ、あの日のこと。




 お互いの顔が見えなくなるまで遊んで、ついに、そろそろ帰らないとまずいと、しぶしぶながら認めなければならなくなったときだ。 


 明日も来るからね。待っててね。

 頬を染めて私は言った。あれは、社交辞令でも決まり文句でもなかった。心の底からの、真摯な約束だった。


 でも、あの子は頷かなかった。すごく楽しかった。ほんとに、ほんとに、楽しかった。そう言って笑った。本当に幸せだったと、まるで噛みしめるみたいだった。


 あのとき私は、このまま帰っちゃいけないのじゃないかと、思いながら、襲い来る夕闇に背を押されて、そのまま帰った。


 明日は遊べないのだと、もう二度と会えないのだということを、あの子は覚悟していたに違いない。そう悟ったのは、次の日に行ったあの箱庭に、誰もいなかったときだった。


 帰らなければよかった。無理矢理にでも居座ればよかった。一瞬でも離れちゃいけなかった。その後悔の念が、私の胸に巣くった。食いついて離れない、どうしても取れない小さな棘。



 あのとき私は見過ごした。

 そして今も、そうだったのかもしれない。



 ――夢は夢だ。手が届かないって、わかってる。



 諦めの言葉とともに吹雪が戻ってきた。私は瞬きをした。青空はかき消えた。彼女の手を引いて行くための足も手もない私を懐に入れて、全身を揺さぶる暴風によろめきながらマイラは滑っていった。


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