シャトー
銀狼の移動は、疾風のようだった。
どこへ行くのかも聞けないまま銀狼は走って行く。私を背に乗せて。自分の力で飛ぶべきなのでは、と思いはしたが、すぐに諦めた。こんな速度で飛び続けるなんて鴉には無理だ。瞬く間に崖を登ってひたすら走る内に、いつしか海辺を離れ、森に入った。延々と続く広大な森の中を、銀狼は危なげなく力強く走っていく。
――確かに、人間の姿のままだった方が、のたれ死ぬ可能性が高かったかもしれない……
どんどん捗る旅路に、感嘆しないではいられなかった。人間だったらたぶん、まだあの崖をよじ登れてもいないだろう。あの意地悪な人魚の言にも一理ある、そう思い始めた頃、森を抜けてなだらかな田園地帯に出た。広々とした畑。あぜ道を探すのに少しだけ横に移動したが、見つけてからは速度はさらに増した。
どこへ行くのか、聞けないのが少し困る。ような、気がする。
いったいどこへ行くのだろう。私はもう、銀狼の背から振り落とされないだけで精一杯だった。畑仕事をしている人もちらほらいるのだけれど、たぶんみんな、銀狼とその背に乗る鴉が走っているのだと認識できもしないだろう。
数十キロは続いている広大な田園地帯を抜けると、集落に入った。
往来を行き来する人々を撥ねでもしたら大惨事だ、と思うまもなくフェルディナントは屋根に飛び乗った。そのまま走る。速度を落とさず、ひたすらに。
そろそろ疲労も深刻だ。振り落とされずにしがみついているだけで既に、鴉の体力の限界を迎えつつある。と言って、口を開いて叫ぶこともできなかった。風が強すぎて、くちばしを開いただけで吹き飛ばされてしまいそうだ。私はできるだけ銀狼の鬣に埋もれていたが、体はすっかり冷え切り、今にも力尽きそう。
――止まって。
必死で、声に出さないまま、私は叫んだ。
――お願い、止まって。止まって。止まって!
銀狼は止まらない。私の声などきっと聞こえないのだ。振り落とされたら地面か建物に激突して死んでしまうだろうし、万一それを免れても、記憶も戻らず、右も左もわからないままフェルディナントとはぐれてしまったら――
と。
フェルディナントの声が聞こえたような気がした。
――楽しい。
えっ、思うまもなく、その声は続く。
――速い。すごい。いくらでも走れる。どこへでも行ける。
「とっ」
――速い、速い、速い! 楽しい、楽しい、楽しい!
これは、と思った。フェルディナントが今、考えている、ことだろうか?
楽しいのか! 唐突に私は理解した。行く先など考えず、ただひたすら走ってるだけなのか。まるで早駆けを覚えた子供のように。遠乗りに行ったとき、兄たちが迷子になった、あの時のように。
速くて、すごく速くて……風になった、みたいな気がして。
さんざん叱られながら、兄たちは顔を見合わせてしょんぼりと言った。
どこまで行けるか、試してみたくて。
「止まってええええええええええええっ」
叫んだ瞬間、足が毛皮からはずれた。私は吹き飛ばされた。くるくる回って、何もわからなくなった。
私には兄がいたのだと、頭のどこかで納得しながら。
ぐい。
体を揺すられて、私は意識を取り戻した。
――ごめん。
謝罪の意識と共に、もう一度揺すられた。翼の下に何かが差し込まれて、ぐらりぐらりと体が揺れる。私が目を開けると、翼の下に鼻面を差し込んでいた狼が、私を覗き込んだ。
今、確かに声が聞こえた。
少し待ったが、狼は何も言わない。私は顔を振り、よろよろと体を起こして、座り込んだ。翼を直し、居住まいを正し、咳払いをひとつ。
「……ちょっとだけ思い出した。私には兄がいた。それも二人よ」
言うと銀狼は驚いたようだ。若草色の瞳が、じっと私を見る。
「幼い頃……馬の乗り方を覚えた、ばかりの頃。遠乗りに行ったんだわ。兄たちと、お父様……のような人と……お母様、の、ような人と。私、前から本当に、その遠乗りを楽しみにしてた。兄たちと、かくれんぼとか鬼ごっことか、舟に乗ったり馬に乗ったりして、たくさん遊べると思ってた。でも兄たちは早駆けに夢中になって、私と遊んで……くれなくて。あっという間に見えなくなって……だいぶ長い間、帰ってこなかった。お昼ご飯も、一緒に食べられなかったわ。ピクニックに行ったのによ?
夜になって、やっと帰ってきたの。たしか、お父様、のような人が、本当に怒っていて、晩ご飯抜きの刑に処せられた。私、自分のパンを隠しておいて、届けに行った。ような、気がする。……わからないわ、自分に都合のいい空想かもしれないわ。でも……あの時の気持ち、私、とてもよく覚えている。
だからフェルディナント、あなたが、速く走れる体を手に入れて、夢中になった気持ちはわかる……共感はできないけれど、理解はできるわ。でもあなたは銀狼だけど、私は、……鴉なのよ。死ぬかと思った……」
銀狼がうなだれる。しょんぼりしたその姿を見て、私は少し待った。先ほど聞こえた謝罪の声が、もう一度聞こえるのではないかと。
でも聞こえなかった。私は微笑んで、翼で、ぽんぽん、とその鼻面を叩いてやった。
「怒ってるわけじゃないのよ。でももう少し、加減してね」
こくり。銀狼が頷いたのを見て、私は、今自分の心を占めている、もの悲しい感情について考える。
そうだ。これは、『羨望』だ。
胸の焦げるような……そうなれない自分をじりじりと焦がす、この気持ち。
兄たちは、馬の背の上で、いったい何を見たのだろう。さっき聞こえた、楽しい、という、胸を貫くようなあの声を、兄たちも上げたのだろうか。速いこと、恐ろしいこと、怖いこと、まだ知らない世界に立ち向かうことを、ぞくぞくしながら楽しめる兄たちは、きっと、私とは違う世界を見ている。
『お前にも、女の子の友人が必要だね』
お父様のような人が、頭を撫でながら言った。そうだ。その後の遠乗りは、どこかで知り合った友人たちと一緒に行った。もうひとりぼっちにはされなかった。でも。
私は兄たちの仲間には入れない。ぞくぞくする瞬間を、共有することはできない。
ああなりたい、同じものを見たいという羨望は、その後もずっと、私の中に残っていた……。
少し休んで、フェルディナントが探してきてくれた木の実や果物をいくつか食べると、少し元気が戻って、周囲を見回す余裕も出てきた。
私は辺りを見回し、そこが、集落から少し離れた街道沿いの森の中だと言うことを知る。
人の気配がざわざわしている。街道を、大勢の人たちが通っていくのだ。行き交っているのではなく、私から見れば右から左の方向に、みんなぞろぞろと進んでいく。
変だな、と、思った。みんなどこに行くのだろう。
私の興味に気づいて、フェルディナントがそっと頭をさしのべてくる。感謝してそこに乗ると、そうっと移動して、街道をのぞき込める場所まで移動した。
大勢の人たちが、そこにいた。
女性も男性も、老人も若い人もいる。急いではいないようで、何かから逃げてきているわけではないらしい。でも、お祭りのような楽しいものに向かうわけでもないらしい。私は首を傾げ、つぶやいた。
『……変ね。あんな大勢のいろんな集団なのに、子供がひとりもいないわ』
――あっちにいる。
その時また、フェルディナントの声が聞こえた。驚いた私ごと、フェルディナントは頭をそちらに向けた。先ほど通り過ぎてきた集落に、人々はぞろぞろと入っていく――そして、確かに、子供たちのきゃあきゃあ騒ぐ楽しげな声が、そこここで上がり始めている。
あ、お母さん! お母さんー! どうして、どうしたの!?
叫んだ子供は泣き声で、久しぶりに、そして思いがけなく、母親と再会したのかもしれない、と私は思った。同じような声が次々と上がり、それに応じる大人の声も高まり、集落はどんどんにぎやかになってゆく。
「大丈夫なのかねえ……」
小さな声で、道ゆく人が囁き交わすのが聞こえてきた。
「こんなに大勢で……大騒ぎして。何かもめ事でも起きなきゃいいけど……」
「アナカルシスの王様に、誤解されるんじゃないかねえ……」
「大丈夫ですよ」請け合ったのは、四十代くらいのきびきびした女性だ。「全部ちゃんと、取りはからっていただいてるんですから。シャトーってね、王様の一番の家来さんが、ぜーんぶきちんと許可出して、この集落全部に話を通してくだすったんですって。子供たちだけじゃなくて、大人も受け入れてくれるようにって」
「へええ、本当かい?」
「でも、寝台とかとうてい足りないだろ?」
「まあね、でもそれは、しょうがないでしょう? しばらくは天幕暮らしでも、アナカルシスは暖かいしね。それにうまくいけばすぐ帰れるわけだし……シャトーさんはね、今その辺の集落全部から、天幕だの毛布だのを借りに奔走してくださってるって話だよ」
「へえええ。シャトーって人はずいぶん親切なんだねえ」
「ええ、グウェリンのお嬢様が嫁がれる王子様。あの婚姻を調えた人で、もともとエスメラルダびいきの貴族だとかでね。大丈夫、シャトー様にお任せしときゃ、何も間違いなんてありませんって」
説明しているのは、どうやら、集団の案内人……というより、世話役、のような人らしい。人々は安心したように、ぞろぞろと集落に入っていく。私はフェルディナントを見下ろした。シャトー、という名前を聞いたとき、フェルディナントがぴくりと動いた、ような気がして。
『シャトーって、知ってる人?』
訊ねるとフェルディナントは、あー、と『言った』。
――知ってるも何も……魂の欠落は深刻だな。
『そうなの? 私も、知ってるべき人?』
――あれ。
フェルディナントは、私を見上げる。
――コンスタンス、僕の声が聞こえるの?
『そうね。今は聞こえるわ。……さっきは聞こえなかったのよ。どうしてかしら……』
――ふうん。まあ、歓迎すべき事態ではあるけどね……。シャトーというのは、貴女のご実家の名前だよ。
『実家ですって?』
――義理の実家、では、あるけれど。ランバート=シャトーという人が、貴女の後見人だ。父親代わりだね。たぶんここで、毛布を借りたり天幕を借りたりして奔走してるって言うのも、ランバートだ。
『……いったい、どういうことなのかしら』
首を傾げる私に、フェルディナントはつぶやくように言った。
――ランバートは元々、エスメラルダの出身なんだよ。僕や君よりまだ年下だった頃、晩年の英傑王が彼を気に入って養子に迎えた。……彼もいわば、王子様ってことになるのかな。義理のだけどね。
『すごい人なのね。英傑王に気に入られるなんて』
――そう……だね……でも……。彼がすごい人だというのは認めるけれど、でもどうだったんだろうね。彼の養子縁組の秘密は、アナカルシスの国中の貴族が、暴きたがってる謎のひとつだ。彼は本当に、英傑王の隠し子なのか。それとも本当にその聡明さを見初められただけなのか。それとも本当に、姫が、英傑王に内密に押しつけたのか……。
『姫って……』
――マイラ=グウェリンの先代の【最後の娘】。エスティエルティナ=ラ・マイ=エスメラルダ。僕は彼女が怪しいと睨んでるんだ。英傑王はランバートを姫に押しつけられたんじゃないか。その命を守るためか、それとも、他の理由があるのかは、わからないけれど。
『意味がわからないわ』
――だろうね。
フェルディナントは、微笑んだ。
――でも貴女にだけは、話しておこうと思うんだ。またいつ言葉が通じなくなるかわからないからね。
『……そう』
――ランバートがエスメラルダにいた頃、彼は別の姓を名乗っていたらしい。戸籍簿から厳重に削除されているから、その頃の名前はわからない。関係者のほとんどは、みんな秘密を抱えて墓へ入った。姫も、アルガス=グウェリンも、当時のエルヴェントラもエルカテルミナも、そして英傑王もだ。ランバートもそれだけは何があっても口に出さない。彼の出自を知っている人間は、アナカルシスにはひとりも存在しない。
だがひとつだけわかっていることがある。彼が英傑王の養子になる際に与えられた姓が、『シャトー』だ。……ここからは僕の推測……というより、憶測でしかないよ。でもこう考えれば筋が通るんだ。『シャトー』という姓は、おそらく、姫の最後の、精一杯の、贈り物だったんじゃないか。僕はそう思うんだ。ランバートは何か重いものを姫から託されて英傑王の養子になった。せめてもの餞に、姫はランバートに『シャトー』を贈った。
たぶん、私が聞いているか、理解しているか、などと、どうでもいいことなのだ。
フェルディナントはゆっくりと、考えを私に伝えた。
――姫がティファ・ルダのディオノスに拾われる前のことを知っているのは、ごく親しい人間だけに限られる。たいていの人間は、出自不明の孤児だった、と認識しているからね。でも彼女は九歳当時、ただの孤児じゃなかった。既に学問と礼儀作法の基礎を身につけていた。物乞いもしたことなく、盗みもしないで、礼節と思いやりを、その性根に育まれた子供だったんだ。たぶん平和な国で、何不自由なく育てられたんだろう。彼女はもともと孤児じゃなく、ちゃんと家族があった。その頃の彼女の名は、サトウ・マイだ。サトウ。これって偶然かな?
だから僕は思うんだ。……サトウではこの辺りの文化にはそぐわないから、少しだけ変えたんじゃないかって。もしそうだとしたら、シャトーという姓はね、エスメラルダの根幹を知る人間にとっては、姫の血族を意味するんだよ。ものすごい後ろ盾じゃないか。
そもそも、その『姫』って、誰なのか。
とうてい聞ける雰囲気ではなく、私はただ、そうなの、と答えただけだった。
気のない返事に、フェルディナントは笑う。
――かなり重大な秘密を打ち明けたつもりなんだけど、張り合いがないなあ。
『ごめん』
――まあいいさ。
フェルディナントは笑い、それから、少し口調が変わった。
――ランバートがここにいるということは、あいつもここにいるのかな。
『あいつって?』
訊ねたが、返事はなかった。また声が聞こえなくなったのだろうかと不安になった頃、フェルディナントはのっそりと立ち上がり、歩き出した。ぞろぞろと人が歩いてくる、右の方へ向かって。
『どこへ行くの』
――あっちには、エスメラルダがあるんだよ。
フェルディナントはむっつりと言った。まだ言葉が通じることにホッとするが、どうしてだろう、なぜか、怒っているような、気がする。戸惑う私に、少し意地悪げな声が聞こえた。
――貴女の記憶喪失につけ込むような真似をするのは公平じゃないけど……もともと勝ち目のない戦いなんだから、少しくらい、ハンデをもらってもいいよね?
『ハンデ?』
――八つ当たりだよ。悪い?
『は?』
――そう簡単に会わせてたまるか。……もうね、わかってるんだよ。あいつだったら鴉になった貴女の瞳を見ただけでコンスタンスだって見抜いて、貴女の記憶もいきなり戻って、二人は抱き合ってめでたしめでたし、ってなるんだよ。あーむかつく……そう思いどおりにさせてたまるか……
『あの、もしもし? どういう意味なの?』
――言いたくないよ。あのね、気になるんだけど。さっきから貴女は、僕の伝える気がない考えまで読んでる。勝手に人の考え覗かないでくれる?
あらやだ、と私は思う。本当に八つ当たりしてる。
いったいこの王子様は、どうしてしまったのだろう?
呆れる私に、フェルディナントの冷たい声が聞こえた。
――恋心とか、嫉妬とか、まだ思い出してないんだろうね。うらやましいよ、コンスタンス。
八つ当たりした挙げ句に、まだ怒ってる。
私は羽根を落とした。こちらこそが怒っても良い場面じゃないだろうか、という知識はあるけれど、まだ、怒りという感情は、私の中に戻ってこないようだった。




